『今日を歩く』いがらしみきお

 

今日を歩く (IKKI COMIX)

今日を歩く (IKKI COMIX)

 

 

 いがらしみきおは、15年以上、雨の日も風の日も雪の日も、毎日、家の周囲の決まったコースを歩き続けたという。今も続くものかわからないが、2014年から2015年にかけて、その習慣が漫画として描かれた。

 この『今日を歩く』は、散歩を描いた漫画ですが、私は私小説というか、私漫画を描くつもりでした。しかし、それを描けたかというと疑問です。苦しまぎれに、ただのエッセイ漫画や実録漫画に逃げてしまったところもあります。

(あとがき より)

 
 ただのエッセイマンガや実録漫画とは、私漫画とはなんだろうか。そのヒントは、同じくあとがきに書かれたこんな部分にあるように思われる。

 私も遠からず死ぬことを感じます。生きている瞬間と死ぬ瞬間の境目がどんな按配なのか、よく考える。あんな感じ、こんな感じと、何度もシミュレートしました。しかし、きっと全然ちがうんでしょうね。
 自分というのはたったひとりです。自分が生まれる前にも、自分が死んだあとにも、どこにも自分はいない。私だけが自分です。そう考えると、自分というのはあまりにも特異な存在なわけですが、その自分を感じられるのはどういう時かというと、私にとっては散歩している時なのです。
 明けて行く空を見たり、木を見上げたり、花が咲いたり枯れたりするのを見たり、雨や雪や強い風を感じたり、誰か歩いて来るのを見たり、犬がいて、家がだんだん古くなり、人もだんだん年をとって行く。歩きながらそれを見ていると、ほんとうに自分を感じます。 

  やることと言えば歩くか書くかという自分にも、こういうことはよくわかる気がする。
 作者は毎日の散歩コースで見かける者の習慣と、それが崩れた時の様子を敏感に観察する。その移り変わりは生きている限り起きることで、観察をしている側の作者も例外ではない。最終話では、足を痛め、加齢も重なり、歩けなくなった作者の姿も描かれる。これまでに作者が他者を観察していた目は、きっと作者にも注がれていて、彼らは作者がいなくなったことで何をか思っているに違いないのだ。
 人がその目で現実を見て、推測の域を出ない想像をする。人知れずそんな行為をしている時に現れる者こそ、最も「自分」に近い者なのだろう。

 人と話が合う合わないとかいう対話の関係の中に、そんな「自分」は決して現れない。
 『旅する練習』を書いている時は、聖俗論を知る必要に駆られてミルチャ・エリアーデの著作をだいぶ読んでいた。
 小説『ムントゥリャサ通りで』では、校長ファルマが秘密警察の取り調べを受け、適した引用もしづらいのでまあ暇があれば読んでほしい大した話を繰り広げる。そこから何か問題の証拠を引き出そうと警察も頑張って魅入られて聞くのだが、現実と想像を束ねたファルマの「自分」に届くなんてことはそんな……。

 という、誰も届きはしないであろう「自分」。それは現実をよりよく見、よりよく想像することで踏み固められていく。そのための手立てが、当然「歩くこと」なのである。さらに、それは毎日続けることによって、ますます細やかな差異さえも浮かび上がらせ、より実りのあるものとなる。
 本書が「私漫画」になるのは、このような「自分」と世界の関係の有り様を提示すべく、「自分」らしく時には客観的事実を煙に巻いて描かれたものだからだろう。この国の「私小説」なる不思議な伝統も、そういうものであると言ってしまえば大きく外れとも言えないと思うが、そう言った場合に外れることになるただのエッセイ小説や実録小説たちもそんな面して澄ましているので、議論がまとまるはずもない。それらの作品は、おそらくただ歩くことに耐えられない者たちによって書かれている。

 先日、記事にした『ウォークス』には、近代化以降の徒歩について書かれたところがある。『ムントゥリャサ通りで』のファルマが、エレベーターを拒否し階段を歩いて上りたがることを合わせて考えると、現代の「自分」というものが追い込まれている状況について、おもしろくもさびしい示唆を与えるくれるように思われる。
 コロナ禍、人を目がけて出歩くことを躊躇するような状況に直面した時すでに遅く、一つ一人でそのように歩き回ってみようという発想や気力は、すでにこの世には貴重なものになっていたのだ。

徒歩はいまでも自動車や建物を結ぶ、あるいは屋内における短距離の移動手段ではあるが、文化的な営みや愉しみや旅として歩くこと、あるいは歩きまわることが姿を消しつつあり、それとともに身体と世界と想像力が取り結ぶ古く奥深い関係性も失われつつある。生態学の言葉を使うならば、歩くことを〈指標生物〉と考えるのがいちばんよいのかもしれない。指標生物は生態系の健全性を知るための手掛りで、その危機や減少は系がかかえる問題を早期に警告する。自由な時間、自由で魅力的な空間、あるいは妨げられることのない身体、そうしたさまざまな自由や愉しみにとって、歩くことはひとつの指標生物なのだ。
(『ウォークス 歩くことの精神史』p.418)

 

 

ムントゥリャサ通りで

ムントゥリャサ通りで

 

  

ウォークス 歩くことの精神史

ウォークス 歩くことの精神史