「王様のブランチ」に出て

 このまえ、ぼくは「王様のブランチ」というテレビばんぐみに出ました。なぜ出たかというと、こんかいの本は、ややこしいわだいにならないから出たとおもいます。でも、こんかいの本でややこしいことをしていないわけではないとおもいました。

 さつえいとうじつ、しっかりはみがきをして家を出ました。でんしゃにのっていると、へんしゅうしゃさんから「スタジオのあるフロアでまっています」というまちあわせのメールがきて、ぼくはそのときはじめて、へんしゅうしゃさんがきのう「ばんぐみからのしつもんひょう」をおくってくれていたことに気づきました。そのながれでしつもんがくるので、ぜったいに見ておいたほうがいいやつです。すごくじぶんをたすけるやつです。あと20ぷんでつくぞというところだったので、とてもびっくりしました。

 いそいでかんがえようとおもいながらちかてつののりかえをしていたら、上がるかいだんをまちがえて、でんしゃに1本か2本のりおくれてしまって、あとコンビニに少しよってしまって、ぼくがスタジオへついたのは、なんと、ほんばん10ぷんまえでした。(おおごしょみたいな入り時間になってしまったな)とおもいました。ひとついっておくと、コンビニによったのは、これはけっしてかんけいのないことではなく、エチケットとして、フリスクとかをかっておこうかなと思いついたからです。昔のアメトークで見たことがあるからです。でも、ぜんぜんうりばが見つからなくて、はしらをりようしたすこしこったいちにあるのをやっと見つけて、レジのれつにならんだら、まえのおじいさんのかごにゼリーとヨーグルトが20こぐらいと、いちばん大きいサイズのどん兵衛が一つ入っていて、なんならどん兵衛の上もうまくつかってゼリーをならべているかんじだったので、ぼくはフリスクをたなにもどしてみせを出ました。ゼリーがほとんどで、ヨーグルトはちょっとしかありませんでした。

 スタジオのあるたてものにつくと、上のかいでまっているはずのへんしゅうしゃさんがちょうどエレベーターでおりてきたところだったので、かなりつよめに(まずい)とおもいました。そのまずさをしょうめいするように、ついてすぐ、にもつだけおいてほんとうにすぐ、さつえいのためのソファにとおされました。白いしょうめいが左右からむけられていました。レールにのったカメラとか三きゃくにのったカメラとかがあってコードもマジで床にはりつけられていて、うしろを人が小走りしたりしゃがんだりしているのを見ながら、ふくの中をとおすあのマイクをつけられて、(テレビじゃん)とおもいました。しゃがんでいるところでとくにつよく(テレビじゃん)とおもいました。

 はじめてだらけのそんなじょうきょうで、さっきちょっと見たしつもんなんかほとんどおもい出せません。(これはだめかも)とおもったけど、お茶をもらってのんだらおいしく、(まあなんとかなるか)とおもえました。いろいろチェックをしているときに、インタビューをしてくれるブランチ・リポーターの榎本ゆいなさんと少しだけはなしました。榎本さんはもうすぐはたちの19さいで、4月にブランチ・リポーターとなり、今日がはじめてのインタビューということでした。(ごめいわくをかけるわけにはいかない、未来があるのだから)とつよくおもうとどうじに、また少しだけ(これはだめかも)とおもいました。でも、えらいもので、はしのえみさんのことをいっぽうてきに話したりしているうちに、(まあなんとかなるか)という気になってきました。コミュニケーションというのはとてもだいじなことです。だからこそ、とくにしろうとは早くきて、じゅんびをすべきだなとつうかんしました。そうすれば、あのころのはしのえみさんの話をもう少しでき、よりきんちょうもとけたはずです。「入り時間」とか知ったふうな口をきいてふざけているばあいではないとおもいます。榎本さんにもスタッフのみなさんにも、もうしわけなかったです。

 お茶はさいしょ下においておいてもいいと言われたのに、やっぱりうつりこむからとちょくぜんでかいしゅうされてしまい、じゃっかんの心ぼそさとともにさつえいがはじまり、そしておわりました。はんぶんくらいなにをきかれるかわからないじょうたいでただしゃべったこと、榎本さんが話をひろげるようかんそうをいったりしつもんをしたりしてくれたこと、ぼくの目せんのおくにすごくリアクションする人が立ってくれていて礼二のモノマネを肌でりかいしたこと、の三つしかおぼえていません。でも、とてもいいけいけんになって、とてもよかったとおもいました。
 たいへんおせわになり、ありがとうございました。

 

 

『ちかちゃんのはじめてだらけ』薫くみこ 作/井上洋介 絵

 

 

 『旅する練習』で第37回坪田譲治文学賞をいただいた。
 すごくうれしいのは、自分にとって昔から馴染み深く、理念に共感できる賞だからだが、それはおいおい受賞の関連でどこかに書くことになるかも知れないので、ここには書かない。
 締切つきのやるべきことと一緒に送られてくるスケジュールや何かには、贈呈式と一緒に西本鶏介さんとの対談が予定されているとある。自分の名ではなく「受賞者」と書いてあったが、チラシもできているらしい。
 西本鶏介さんは、児童文学作家であり児童文学評論家である。というのはウィキペディアにだって書いてあるのでいいとして、自分にとっては『上手に童話を書くための本』の著者というのが一番最初に出てくる。
 こんなタイトルだけれど、ハウツー本として読んだわけではない。そもそも、小説家になるためにハウツー本を読んだことなど一度もない気がする。ご多分にもれず、そのような体裁をとりながら手取り足取り教える気など全然なく読者の志そのものを相手にするような、高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』とか、保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』とかは読んで、大いに参考や励ましになったけれど、あれをハウツー本とは言わないだろう。
 それらはもっと広義の「書くため」に役立つ本で、中でも自分が恩を感じているのが、『上手に童話を書くための本』なのである。
 とにかく何より、引用の多い読書案内として、本を知るのに重宝した。塾講師をしていたこともあって、自分は年齢的には上から下まで児童文学を人並み以上に読んできたと思うし、児童文学をもとに人が作った問題も子供と一緒に山ほど読み解いてきたし、問題を作るために書き写してきたし、そうでなくても趣味で書き写しているが、そういう読み書きの中で、どんなに頼りにしたことか。

 その中で紹介されていて、いちばん忘れられず、今でも何度も読み返すのが、本書『ちかちゃんのはじめてだらけ』である。まずタイトルがいい。「作家の読書道」のインタビューを受けた時、読んだ時期が少年時代でなかったので紹介する機を逃した本の一つだ。あとは『雑草のくらし』とかの話もしたかった。

「はじめて」やることはドキドキもワクワクもする。
 子供から大人になるにつれて、ワクワクよりもドキドキの機会の方が多くなるような気もするが、とにかくそんな、ドキドキとワクワクだらけのちかちゃんの「はじめて」の話を三つ集めたのが、本書である。
 一つ目の「はじめての美容院」は、もちろんワクワクから始まる話で、それは家族にとってはさびしくもあり迷惑でもあるワガママだけれど、基本的にはやりたいならやればよいとみんな思っている。でも、そのワクワクが必ずしも良い結果にならないことは、大人なら知っている。ワクワクの分だけ、つらい思いをすることだってある。
 そのことを「八さい」のちかちゃんは知らないけれど、ちかちゃんのおねえちゃんは「十一さい」だから知っている。だから、ふだんはちかちゃんのおしりをまんがではたいたりするけれど、美容院へ行く前によくよく言い聞かせてやる。
「いい?ちか。前がみをきるときだけは、ぜったいねちゃだめだからね。」
 これだけフリがきくので、案の定、ちかちゃん的には取り返しのつかないことになる。それを無理に取り返そうとして、雲散霧消したワクワクの後に募るのはドキドキばかりである。その、傍目にはおもしろいが、ちかちゃんにはまったくもって狂おしいばかりの日々の狂おしさよ。

 だれかをおこってやりたいけど、美容院にいくっていったのは、ちかちゃん。
 美容院でねちゃったのも、ちかちゃん。
 だから、だれにもなんにもいえない。
 いえないから、むしゃくしゃする。
 むしゃくしゃして、なみだがでる。
「さっぱりして、かわいいじゃないか。」
 おとうさんはいった。
「おかしくないわよ。にあうわよ。」
 おかあさんもいった。
 でも、おねえちゃんは、ねるまでちかちゃんの顔を見なかった。
 口もきこうとしなかった。
 やっぱり、正直者はおねえちゃんだろう、とちかちゃんは思った。

 おねえちゃんだって、ちかちゃんの「はじめて」が上手くいくように願っていただろう。それは、失敗したらめんどくさいことになるという理由が大きいかも知れないが、とにかく願っていたのである。
 でも、だからこそ、せっかくの忠告をムダにする妹にはむかついてしまう。だって「十一さい」だから。おとうさんやおかあさんとは違うから。
 そこから、ちかちゃんはさらなるドツボにはまっていくのだが、夜の洗面所で、一喜一憂と思いつきと注意深くなさがなめらかに絡み合って、あっという間にドツボにまで転がり落ちるところはすごい。
 何が起きたかは読んでもらうべきだと思うから書かないが、翌朝、学校へ行かずにひとり「いっちゃいけ」ない海へ向かうところで、ちかちゃんの心中を察していただきたい。当然、ちかちゃんは「八さい」ながら死を思うことになる。

 あんなことするんじゃなかった。
 美容院なんかにいくんじゃなかった。
 おかあさんに、かみをきってもらうんだった。
 ちかちゃんの目に、なみだがあふれてきた。
 水平線が、うにゃーんとまがって見えてくる。
 そしてちかちゃんは、そのまがった水平線の上に、死んじゃったちかちゃんがぷかぷかうかんでいたらって考えた。
 そしたらちかちゃんは、ものすごくかなしくなった。
 おんおん声をだしてなきだした。
 死んじゃったちかちゃんを見て、ないているおかあさんをそうぞうした。

 大人なら黙って景色を見ているかもしれないが、子供が景色に大した意味や慰めを見出せるはずもないから、ドキドキが刺激ある方へ想像をすすませて、どんどん自分を悲しませる。「ないているおかあさんをそうぞう」する時点で、ちかちゃんにとって「死んじゃったちかちゃん」は想像を離れた事実のように心にある。こういうのを切実というのだろう。
 そんな取り返しのつかない状況から、ちかちゃんを呼び戻すのは誰の声か。誰の声かって、そんなの、うその声が届くはずはないのだから、ちかちゃんが一人だけ正直者だと認めている人物に決まっている。
 決まっているのに感動するのは、その人だけが、ちかちゃんのドキドキとワクワクをちゃんとわかってくれていることが、べつに説明もされないのに、口に出されもしないのに、我々にもわかるからだ。そのわかり方は、きっとちかちゃんのわかり方と同じなのだと、考えずにはいられない。

 他の二つの話も、「はじめて」の別の側面を捉えていておもしろい。
「はじめての歯医者さん」では、ちかちゃんは自分にとっての「はじめて」が、他人にとっての「はじめて」ではないことのすごさやかっこよさに直面する。子供と大人だからではなく、自分と他人だから、ちがう。年が同じクラスメイトなのに、生きてきた環境がちがうから、ちがう。ちかちゃんはそれを、すごい、かっこいいと思える。
 そろそろ長くなってきたので、三つ目の「はじめての「スキ」」について、おねえちゃんとちがってちかちゃんのドキドキワクワクなんかぜんぜんあんまりわかってはいないけど、友だちなんだもの、それだけでいいよな、と思える名場面を引用して終わりとする。自分は、いつもここで涙ぐんでしまう。

 ほっぺたがあつくなった。そして、電車の中の今井くんが、なんていったのか、どうしてもしりたくなった。
「めぐちゃん、走ろう。」
 まだ半分もあがっていないしゃだん機の下をくぐりぬけて、駅へいそいだ。
「どうしたの?」
 めぐちゃんは、おどろきながらついてくる。
「なんかいってたから、なんていってたのかきかなくちゃ。」
「そうか。」
 めぐちゃんは、ほんとはよくわからないみたいな顔をしていたけれど、ちかちゃんといっしょに走りだした。