『記憶よ、語れ――自伝再訪』ウラジーミル・ナボコフ、若島正 訳

 

記憶よ、語れ――自伝再訪

記憶よ、語れ――自伝再訪

 

 

 自分が見るなり思い浮かべるなりした光景を文にして、それを読んだ誰かが光景として頭の中に立ち上げる。基本的にはそういうイメージの伝言ゲームに関わっているわけだが、当然こんなことはやればやるほど根本的に上手くいくわけがないので、思うような成果が出ずに「自分には才能がない」とか言ってゲームをやめてしまう人もいる。
 ナボコフは一応「自伝」となっている本に、「無知な初心者だった私」を回想する形でこんなことを書いている。

 詩が完成に近づくにつれ、私が眼前に見ているものは読者にも見えるはずだという確信が湧いてきた。腎臓のような形をした花壇に目を凝らしたり(そして一枚のピンクの花弁が壌土に落ちていて、その崩れかけた端を小さな蟻が調べているのを目に留める)、誰かならず者が樺の幹から、紙のような、胡椒と塩をまぶした色の樹皮を剥ぎ取った跡の、陽に焼けた中央部を眺めたりしたときに、「失われた薔薇」とか「物思いにふける樺」といった言葉のヴェールを透かして、こうしたすべてが読者にも知覚されるものだと私は本当に信じきっていた。ヴェールどころではなく、こうした貧しい言葉はあまりにも不透明で、実際には壁になり、見分けられるものはと言えば私が模倣した大小詩人の使い古された欠片だけだとは思いもよらなかったのだ。
(p.259) 

  こうした失敗は、押韻と絡んで「響きのいい形容詞が仕掛けた罠にことごとく陥った」という言葉にまとめられているけれど、なるほど伝わる伝わらないを醍醐味とする伝言ゲームでは、形容詞は――しかも使い慣らされた形容詞は――使い勝手のいい言葉ではない。よすぎると言ってもいいかも知れない。
 だから、ゲームの成就のためには「誰かならず者が樺の幹から、紙のような、胡椒と塩をまぶした色の樹皮を剥ぎ取った跡の、陽に焼けた中央部」とやらなければいけなくなる。「ならず者」がやったことだと示すのは、乱暴な剥ぎ取りの跡と、その部分以外の樹皮の健康さをイメージさせるためである。

 こうしてナボコフは「上手」になっていったのだろうが、このゲームの上手下手は、作家になって食えることとは全く関係がない。ナボコフだって、人々が「少女」につけた形容詞の仕掛けた罠がなければ、モントルー・パラスで最後の十数年を暮らせたかどうかわからない。
 それというのも、世の中には、そもそも伝言ゲームで樺の木の中央部なんて細かいところはお題に含めてもらいたくない、蝶の細かい種類も興味ないし、そんなところにこだわってたらゲームが楽しめないじゃないか――という人の方が多数派だからである。
 文の上手下手の概念も、形容詞の名の下に、結局ここでつまずくことになる。

 

 例えば、ナボコフが「上手さ」の極を目指したような『アーダ』には、アーダが裸同然の格好で植物図鑑をアレンジしつつ写すシーンがある。そこで描かれているのは「昆虫を擬態する蘭」で、「眼状斑点や唇弁」といった言葉も出て、最後には「明るい色の蛾を擬態していて、その蛾もまたスカラベを擬態していた」となる。しかも、それを描いているアーダが「「ヴィーナスの鏡」と呼ばれる蘭を擬態しているように見え」て、部屋着の切れ込みからのぞく肩甲骨や背骨の凹みや尾骨までのくびれなどが、その絵以上に細かに描写されている。

 細かにと言っても、こうした描写は何でもかんでも書くわけではなく、科学的なスケッチに近いものだ。観察しているものを明確にし、不要なものは省略し、必要部分を正確に細密に書く。ナボコフは昆虫学者でもあった。この「スケッチ」という言葉を自らと直接に結びつけたのは宮沢賢治だが、彼もまた盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)を出た農学得業士だった。
 絵なら描けば見てわかるが、文ではどうか。ある物が目に浮かぶように「唇弁」と書いたところで無知な人間には浮かばないし調べもしない。語彙と文法と洒落の限りを尽くして増殖していく語を最小限にまとめた文にまわりくどいと首を振る者がいる。
 自分の見ているものを絵ではなく文ですることの困難について、彼らが考えなかったはずはない。

 作者の書くことが十全に、それを書いている作者同様にわかるには、作者同様の知識は当然として、作者と同じあらゆる経験が必要になる。そうなってほしいものだし、そう願わなかった者はいない。宮沢賢治でさえ、そんな存在を「完全な同感者」として想定していた。
 もちろん、それは前述したように不可能なことで、だから作者と読者の伝言ゲームは本質的に成立しない無理ゲーである。むしろ作者の方が時間をかけてやればやるほど、本来はゲームの成就を目指そうとしたはずの行為は、その経験の分、読者とを隔てていく場合もある。その時、何が上手で、何が下手だなんて、口が裂けても言えない。

 

 「使い古された欠片」だけでも詩や小説は形を作って多数の者に伝わるのになぜそんなゲームを必要以上に「上手」になろうとするのか。
 ここまで読んでおいて、そんな質問はもう相当に野暮なワナビしかしないと思うが、今のところ「文学」なんてものがある程度の多様性を持ってちゃんと存続しているのは、ゲームの醍醐味をゲームと離れたところに見出し、一人遊びのように打ち込んだ者が意外と沢山いたからだとしか言いようがない。
 その一人遊びの楽しみへの理解を、享受を望んで、ナボコフは文学講義のおしまいにこう語るのだった。

小説を読むのはひとえにその形式、その想像力、その芸術のためなのだと、わたしは教えてきたのである。きみたちが芸術的な喜びの戦慄を感じ、作中の人物たちの感情ではなしに、作者そのものの感情――つまり創造の喜びと困難とを分かちもつようにと、そう教えてきたのである。
(『ナボコフの文学講義 下』p.396)

 

 

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