『柳田國男全集 31』

 

 

 最近、訳あって自分勝手に本を選んで字数も気にせず書評を書いたらすごく快く、やはり自分は書くのが好きっていうか、そればっかり楽しくて生きているし、いつからか全てそこに還ってくるように生きてやろうという意地のようなものなんかも出てきて、ますます読んだり書いたりして生きているから、少しずつ載せていきたい。

 柳田國男を読み返したのは、杉村楚人冠について興味を持って読んでいるうちに、柳田國男がいろいろ書いていたなと思い出したからで、そのうちその派川の方でばかり遊ぶようになったという次第で全集を拾い読んでいた。

 ただしかしこの辺の人の交流というか水系というかは、およそ今では望み得ないような豊かな流域を抱えていて、昔の人ばかりがえらいすごいと思えるのは、みなあれこれ都合のいいこと言うようだが、ただ今の我々があまりに無知なせいだと断じて構わないような気分になる。

 ソジンカンと打ったところでATOK以外では粗人勧や祖神感と変換されることからも不吉に察せられるように、杉村楚人冠とはどこのどいつだという人の方が多いということもあるから、「明治末期から昭和前期の東京朝日新聞で活躍したジャーナリスト」ですと説明を引っ張ってきて終わりにするけれども、彼を評して柳田國男はこう書く。

一つの問題は、楚人冠氏のような正真生粋のジャァナリスト、予言はきらい、追懐にもあまり深入りせず、観察は現在でかつ近所、批判は目前の問題従って読者は同時代人の中だけに限局して、ちっとも不自由をしないという人の文章が、どうしてまた永く伝わり、いつまでも面白くうれしく読まれるかということである。(p.511)


  全集を数時間もぱらぱらしていればわかるが、柳田國男はいかに「残される」かの問題についてばっかり書いている。彼が一人で立ち上げたような民俗学も多くはその問題を扱う。それは人や物が歴史に残るとかいう時の「残る」ではなく、もっとなんか、みんなが死んだあいつの話をするみたいにして「残される」営みの様を言っている。例えば蝸牛や河童や狐や狸が、人によって各地で呼び名や意味印象や説話を加えられて残されてきた過程とその結果は、その生態とは一致しない場合もあるにしても、とにもかくにも「狸や狐は人を化かす」とかそういうことが、様々な故あって確かに伝えられて残されてきたということは事実であり、その伝承の事実を扱うのである。

 それで、楚人冠の文もまた残されるであろうと柳田は書いているわけだ。では、残されるものと残されないものの違いは何か、楚人冠の文はなぜ残されるか。これは皆も気になるだろうし、そういう趣味を持っている人はなんとか自分にも適用できないものかと思うだろう。思いなよ。

 柳田は楚人冠全集を読んだことで「約三十ばかりの理由を発見し得たような気がする」らしく、嘘でしょと言いたくなるが、「目ぼしいものを二つ三つ」書いてくれていて、一つ目を挙げれば次のようなところにまとまる。

第一には君の文章、これが腹に思っていることと非常に近い。(中略)わざとでなくとも文章になるように感じまたは思い、むしろ世の中のために文章になるような生活を楚人冠はしている。そっと脇からそのひとりごとを筆記しておいても、立派に読める随筆ができるのではないかと私などは思っている。(p.511) 


  その生活がもう書くことに即しているから、生活での思いと文章が一致しているから書けるんだというわけで、ハウツーを期待していた人には申し訳ないが、そうするしかないらしい。本書の中には、交流や文通のあった南方熊楠についても書かれているが、もっと強烈に、同じようなことが書かれている。

 杉村楚人冠は、まあ自分がこうして二〇二〇年に話題にするぐらいには残された人物と認められよう。千葉の我孫子に行けば楚人冠と踏める記念館もある。「死後も自分の名前や作品を残したい」という願いは誰しも一度は抱いたことはあると思うが、そんなケチな願いだけで、その生活を自分の事業に合わせることができるほど甘くはない。そもそも「残したい」という言葉の運用をする迂闊さがそれを困難にしている。

 自分の行いが百年二百年「残る」ことについて考えるのはケチなことだが、百年二百年「残される」ことについて考えるのは、なかなかどうしてそうではない。そこには自分の関知することのできない人々の百年二百年のあまりに複雑極まりない営みが立ち塞がるからで、それを承服して我こそは残されると断言するのは、自分の頭や体にあるものつまり生活を全て傾けたところで到底ちょっとも叶うように思えない難業である。

 その考えの際に、杉村楚人冠も知らないでどうするかということもある。別に杉村楚人冠でなくてもなんでもいいし、そもそも全知全能なんて不可能なのは承知だし、知らないことだらけが身に染みる毎日だが、知らなければどうすることもできないと何かにつけて焦っているような人間でいておかなければ、「残される」ことについて考える資格はないという気がしてならない。

 『柳田國男全集24』「狸とムジナ」から一つ引くと、狸の各地方の名称には色々あって方言集にまとめられているがではそれは実際に何を指しているかと説明を見たら「狸の一種」と書いてあるということについて、柳田は「話にならない」としている。「小さなことのようだが、ともかくも我々はなお無知なのである。無知は何としてでも次々に知にしなければならない」

 「残される」の片棒を担ぐには無知でもいいが、「残される」ことについて考えるには、あらゆる学問のあらゆる分野の力を借りて、いくら考えても足りるはずがない。事実と誤謬の双方やその優勢と劣勢の歴史まで知った上で、それがどう続いたものかとあやふやな未来を思わなければならない。それを面倒がって「残る」の作法で事にあたれば、事実や成果ばかりを見ることになってつまらない。こうした考えが蔓延すれば、ってもうとっくにしていると思うが、小説なんかもそういう作ばかりになっていくのは想像に難くないし、だからそれだって実際もうとっくなのである。

 メルヴィルが『白鯨』を書く中で何を志していたか、もしくは何に脅迫されていたかということが、柳田國男を読むと腑に落ちるように思うなんてそんな様々な書物の精神の深い繋がりについてさえ、自分はなおも無知である。無知は何としてでも次々に知にしなければならない。

 

 

楚人冠―百年先を見据えた名記者 杉村広太郎伝

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  • 作者:小林 康達
  • 発売日: 2012/07/01
  • メディア: 単行本
 

 

白鯨 上 (岩波文庫)

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白鯨 中 (岩波文庫)

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白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

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