新連載について

 小説を書くために必ずしも取材をする必要はないと思うが、世界があんまりよろしいもので、風景が話の犠牲になるのに罪悪感を抱くようになり、最近は実際に取材して目にした風景しか小説に書かないようにしている。
 取材といっても、ここを舞台にしようと決めるのではなく、どこを舞台にしようかなと歩いている方が近く、もっと言うと好きだから歩いているのであって、取材のためという感じでもない。だから、ビジネスライクに考えると捨て取材と言えるようなものも山ほどある。この世のいいところをできるだけ多く見たい知りたい、それを書きたいという気持ちで、一応そんなことになっている。
 おもしろいもので、目にした風景に登場人物を立ち会わせようとして話をつくると、罪悪感は全くないのだった。私はひとりの人間として、自然の風景をつくることはできないけれど、誰かをそこに連れて来ることはできるのだから、考えたら当たり前だ。

 私が好んで歩くところの風景には人の営み――生活や仕事――が含まれている。人がいる限り、都会も田舎も関係がない。生活の面では、見てわかるものや聞いてわかるもの色々とあるのだが、仕事しているところを尋ねるわけにもいかないし、じろじろ見ていても、写真を撮っても迷惑だろう。
 山間に十数軒の集落を歩いていたって配電工事の車とすれ違うし、細くうねる坂道を郵便バイクやヤマトの車が竹林の中に消えていく。朝に積まれていたゴミ集積所のゴミが、帰りに通ればなくなっている。知らない町の図書館にも今月の推薦図書が手書きの説明つきで並び、郷土資料館に行けば1対1で案内してくれたりする。川に沿ってひたすら歩くと、手持ちや自走や乗用の草刈機で作業している草いきれとエンジン音によく出会う。堤防工事で迂回させられることはしょっちゅうだし、河口が近づいてくると、橋の下でショベルカーが半分水に浸かって土砂をすくって岸にまわしている。大きな港が近づけば、細長い緑地のそばの道をトラックが数珠つなぎに走り、ひっきりなしに動く積み下ろしのクレーンの先が見え、大きな船は沖に出て小さくなっていく。ただ通り過ぎた飲食店や大小のビルの中でも、まったく書ききれないほどの人が働いている。
 というわけで、仕事は謎に包まれている。実際に見た風景しか書きたくないように、仕事についても半端なことは書けないので、せいぜい傍目に観察してそれを書ければいいなと、長く歩きながら時々しみじみ思っていた。

 そんな折、日本印刷さんからご依頼をいただいた。よく勘違いされるそうだが、DNPではなくNPC――日本印刷である。
 様々な業界の定期刊行誌や広報誌、チラシやパンフレット、会社案内、資料といった多岐にわたる印刷物を主とする総合印刷会社とのことだが、「それとは別にアートブック出版レーベルの立ち上げを見据えて読み物webサイトを始めたので、弊社のお客様である多岐にわたる団体様にまつわる読み物を書いていただけないか」、まとめるとそんな依頼内容だった。
 資料や取材先を手配していただけるとのことだったので、二つ返事でOKした。エッセイでも小説でもよかったが、絶対に手間のかかる小説を選んだ。このブログに何度も書いているが、私のモットーは「一生やれ、なんでもやれ、ほっといてくれ」なので、おもしろいと思うこと、つまりやりたいことは是非ともやりたい。

 ただ、私は塾講師と小説家しか身をもって知らないので、各業界の仕事について取材をしたところで門外漢だ。どんなに上手く書こうとも、実感としてはヨソモノとしてしか書けないなら、取り上げる仕事に従事する人を主人公にするのは無理である。というわけで、日頃している小説家としての取材と、仕事を関連付けたいと考えた。いろんな場所でいろんな仕事が、と外から思っていたのを内からちょっと覗くことができれば、小説にできるかも知れない。
 最近ちょこちょこ、小説家と助手の大学生というコンビの話を書いているので、彼らに出張ってもらうことにした。さんざんこのブログで書いてきたようなノリを、彼ら二人を軸にきちんとした話として書けるのが、私はとても楽しい。
 そんなこと昔はできなかったから、この二人の話を書き終えてゲラ(掲載する形にしたもの)で読み直した時だけは、桜木花道の「オレ…なんか上手くなってきた…」の顔をしている。私はあのなんだかすごくおもしろいマンガとかいう文化の技術を小説に盗み入れることに高校時代から余念がないので、これは私の仕事として、その実験場にしたいとも思っている。


Illustration 西村ツチカ



 そんなわけで、「soyogo」というサイトで色々な業界や仕事のことに絡めた連作短編小説が少しずつ掲載されていく予定である。シリーズタイトルは「飛ばない小説家」。西村ツチカさんの描いてくれた絵のように、そこに仕事のある限り、色んなところに行ってみたい。

 第1回は、「浚渫」という仕事にまつわる話。
 上でちょっと書いたショベルカーが土砂をすくっているのも浚渫作業だが、ほとんどの人には馴染みのない仕事だろうし、作中で説明もしてあるので、気軽に読んでもらいたい。私は書いたものを読んでもらいたいという気持ちは基本的に無なんだけれども、これについてはそのお仕事について知ってもらいたいと勝手ながら思っている。
 タイトルの通り、舞台は九十九里浜である。話に出てくる場所やものは、もちろん私が行った場所だし見たものだ。直接の舞台は三回歩いた。九十九里浜全体も北から南まで約66キロを少しずつ全て歩き、現在の砂浜の様子を資料に照らしつつ目に見える範囲で確かめてきた。楽しかったと同時に、自然の地道な強い力に恐れ入るような思いだった。人間がそれをいなしているのか立ち向かっているのかわからないが、とにかく何かをしなければいけないのは間違いない。そういう仕事が沢山あるのだ。
 本当に、こんな機会でもなければ一生知らずに見ずに終えるにちがいないことが、いくらでもあるものだなとつくづく思った。私は話の最後に書いた数十秒の風景を決して忘れないと思うけれど、それが日々続けられているということはもっと忘れたくない。

 最後になりましたが、全国浚渫業協会をはじめ、取材先各所の皆様にはたいへんお世話になりました。本当にありがとうございました。