『手賀沼周辺の水害-水と人とのたたかい400年-』中尾正己

 今は穏やかで、ついでに言うと一時期の日本一汚いという水質も多少は改善されたが、千葉県我孫子市にある手賀沼のあたりは、四百年ほど前から利根川の氾濫による水害に悩まされてきた。
 そもそも川というのは自然な水の流れに人が堤防をつくったものでは全然なくて、人が生活の都合に応じて、無理ない範囲で流路を決めて流しているものだ。だから、四百年ほど前という変なタイミングで、そこが急に水害地に変貌してしまう。

 事の起こりは、江戸時代初期に始まった利根川東遷事業だ。もともと東京湾に注いでいた利根川を、常陸川など別の川に付け替えながら、銚子の河口から太平洋へ流す今の形に至った。東遷自体は江戸の初期に成っているが、その後の対応までも含めれば、数百年の長い年月をかけた大事業である。
 その対応の中心に、現在の利根川下流域があった。言ってしまえば、自分が『旅する練習』を書く上で歩いた、我孫子から佐原の辺りである。手賀沼周辺と水郷地帯と言ってもよい。
 東遷事業前、手賀沼の水は一本の水路を通して穏やかに常陸川に注いでいた。しかし、新田開発のため何度も行われた干拓も上手くいかないところへ利根川常陸川に合流すると、大水の際、その常陸川の水が容易に手賀沼方面へ逆流するようになった。
 暴れ川の二つ名として坂東太郎を与えられた利根川は、流路を変えても遊水池をつくっても下流域で破堤し外水を引き起こし、合わせて手賀沼の排水が滞ってたびたび内水が発生する。外水・内水とは、市街地から見て水害を判別した名で、堤防を越えて市街地に入ってくる河川の氾濫を外水、市街地内で排水しきれずに水が溢れての水害を内水と呼ぶ。
 明治三十三年に始まった利根川改修工事によって、キャサリン台風や記録的な大雨などの例外を除けば、破堤による水害は減ってはいったが、それでもたびたび起きる大規模な水害に対応してきたのがこの地域の歴史である。そして、その歴史を後に残そうというのが、著者の本懐である。

 そんな常習水害地にあって、人々はどのようにして生計を立て、それを維持してきたのだろうか。来る年も来る年も、ひたすら生きぬくことにあらゆる努力を傾注してきた、その姿こそが、私達の郷土の歴史の実像であると私は思う。多くの人々からの聴きとりの結果を次にまとめてみよう。
「食べるためにはどんな事でもやった」と人々はいう。私はその「どんな事」の内容を聴きたがる。しかしその方法が決まっていれば苦労はないのだ。その場その場で何とか切りぬける方法を見つける。しかし、その方法が見つかるのはむしろ偶然に近い。ほとんど苦しまぎれといってよいだろう。
 したがって、昔の苦労話を語るその口調には、前後に脈絡がない。いつそれをしたか、ということもはっきりしない。語り口そのままに混乱に充ちた修羅場であったわけで、この本の中で、昔の人々の苦労を整理して示すことに後ろめたい感すら覚える。
(p.131-132)

 
 このあと、「しかし多くの人々の話を通して、いくつか共通する方法があったことは事実である。」と続いていく。「食べるためにはどんな事でもやった」の内容について、野草では「あざみが一番食べにくかった」という証言があり、自分はこの草への思い入れの深さゆえに微笑んだりした。
 それはともかく自分の最大の興味は、ここで筆者が書いているような、過去の出来事に対する実感と供述のずれとその自覚と後ろめたさにある。そんなものばかり読み集めて唸りながら、小説家であろうとなかろうとこういう葛藤をしている人がいることに心強さを感じる。
 いやむしろ、書けばその通りに作品が残るとか早合点しがちな小説家の方にこそ、こうした葛藤は希薄と言ってもよいかも知れないと自戒すべきか。「今を映し出す」という言葉が慣用句の如く使われる一方で、本書の著者が書かずにいられない「残せなさ」への不安や、残すことでそれを代表してしまう「後ろめたさ」を十分に自覚して書かれているものが多いとは言えない。概して読みの労力は、「今」にまつわる作家の「表出」ではなく「今」を題材にした作家の「表現」に割かれながら、この場を機能させていると言えるだろう。
 もちろん、「表現」について回るある種の暢気さが人々を誘引して市場を形成するわけで、どちらが良いということもない人々の営みではある。あるも、その「表現」の居心地悪さに気兼ねし、腐心していた少数派にこの目が向かうことに抗えもしない。

 書き残すとは不思議なもので、書けば書くほど残されるが、書いたものしか残されない。そして、何をどのように書くかは、その時代が大まかな案内をするもので、たいていの人は放っておけば同じようなことばかり書く。それを逃れようとする者が違う風に見、違う風に書けば、もしくは別の見方書き方が輸入されれば、今度はそれが案内役となって、余人もその通りに書いていく。自分の見方書き方が、その文化生活に大いに制限されていることを本当に実感する者は少ない。
 柳田國男は次のように説明している。

歌にならない人間の感覚というものは、画に描くことのできぬ風景よりもさらに多かった。それで旅行がいくらでも自由になって後まで、名所というものが幅を利かせていたのである。画のほうには床の間や掛け物の寸法とか、その他これによく似たわれわれの予期が多かった。そのために新たに生まれた美しいものの中から、何でも持ってくるということができなかったのである。
 洋画も最初のうちは唐画が大陸の風物を種にしたのと同様に、なるべくこれと調和した題材だけを選んでいたのであったが、そのうちに技術と心がけとが独立して輸入せられることになって、いわゆる埃箱の隅でも描いていいという流儀が、卒然として頭を擡げることになった。画家のこれがために新たに受けた好奇心の刺戟、これに導かれた才能の覚醒はすばらしいものであったが、それよりもさらに大きな事実は、徐々に実現してきた風景観の解放であった。
 昔の旅人が詩歌文章に写し出すことができて、伝えておいてくれたものは一部であったということもわかってきた。弥次郎兵衛喜多八という類の漂浪者の、素朴単純なる旅の昂奮の中には、多くの名状しえなかった感銘があったことも心付かれた。
 (柳田國男『明治大正史 世相篇 新装版』p.138-139)

 
 膨大な知識と資料によって一般論への跳躍を見えづらくさせる柳田の常套手段のような文体もあって、一から十まで鵜呑みにする気にはならないのだけれど、やはりその風景論には見るべきものが多いと思える。
 翻って、本書の著者が衆目に、残せているかと苦悩しながらなお残そうと提出したのは、手賀沼周辺で水害に晒されていた人々の、それでなければ名状し得なかった実態と実感である。
 こうした努力は、実にささやかなものでありながら、確実な成果であり、それに加えて、今風に言えば、この世の人的資源の豊富さと呼べるものを現前させる効果を持つ。
 というのも、水害の中で生きることにその日その月その年をこなすことに必死でいながら、己の生活について、明らかに「表現」のためではなく詳細に書き残すような人間が、湿った沼沢の中、農を生業に生きていたということを、本書は知らしめているからだ。

 調査の中で、いくつかのすぐれた日記(農事日誌)にめぐり合うことが出来たのは幸運だった。次にその中のある日記から、二、三の文をかかげてみよう。

六月二十九日 ……堤塘は刻一刻増水に呑まれ、肩の堤は押し流す雨水に平押しとなり、其物凄さ殆ど手の下す術を見ず、雨益々猛烈、午食を忘れて最善を尽すも、夕刻に限りては各人愈々さじを投げて失心状態となる、心血を注いで耕した稲田は、本年の発育は今だ曾てないと言われる青田は刻一刻水没しつつあるではないか、噫々然し何と言天魔の前にはもろくもあっけない人力よ……
六月三十日 ……又雨だ、一刻の小歇みもせぬ、川端に趣けば水魔は堤塘の砂丈を残して呑み尽してゐる、対岸の手賀沼方面も遠く布佐大森方面も一面に冠水して水魔は山の裾を洗ふ、洋々只水、又水、ポプラの樹のみが変らず天を払う

 この日記の作者である増田実は、湖北村(現我孫子市)の日秀にあって、大正から昭和にかけての農村不況の中で、水害と戦いながら苦境を切り拓き、立派に生き抜いた。この日記は、正にその苦闘の記録である。
(p.5)

 

 あらゆる内憂外患に屈することなく「書く」という習慣を貫き、その場その時でしか表れ得ない人間の感覚と風景を後世に残した増田実の日記は、本書でたびたび引用される。こんなものを読んだら、洪水の中で我の田圃を見に行く農業者が命を落とすのを小馬鹿にできるはずもない。そんな態度は、農業から遠く離れた社会の中で狭窄してしまった眼差しを自ら晒しているに過ぎないだろう。
 この増田実もまた、本書の著者と合わせて、自分が『旅する練習』の中に書き入れたかった人物だ。残念ながら小説での紹介は叶わなかったが、作中この地域の水害の歴史にふれ、本書を引用・参考文献に並べているのは、高く厚い堤と広大な河川敷を持つ利根川の、今はまったくのどかな流れの昔にそんな人がいたことを忘れず、下るばかりでなく遡上するための道を、か細いながらも後世に残しておくためである。

 

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

明治大正史 世相篇 新装版 (講談社学術文庫)

  • 作者:柳田 國男
  • 発売日: 1993/07/05
  • メディア: 文庫