『おジャ魔女20周年記念 おジャ魔女どれみ公式ヒストリーブック TVシリーズから映画『魔女見習いをさがして』まで』

 


 小説と出版社の関係でいただくことができた。こりゃいいやとペラペラめくってなつかしみ楽しみしているうちに、『魔女見習いをさがして』公式サイトに、こんなニュースが出た。

「魔女見習いをさがして」「おジャ魔女どれみ」 二つの作品がドッキングしたような気分になる 「小説」をご紹介します。|映画『魔女見習いをさがして』公式サイト


 関Pと聞けば「関先生!」と言いそうになる者としては、作中に沢山入れたあの歌この歌その台詞の引用や本歌取りもみんなわかってしまうだろうなという思いがありつつ、読んでもらえたというありがたさが上回る。

 『おジャ魔女どれみ』20周年記念ということで、『魔女見習いをさがして』の2020年の公開予定が発表されたのが2019年の春。それから公開日やその延期の発表が何回かあって、2020年11月13日に公開された。
 その時期は、ほとんどそのまま後で『旅する練習』になるものについて考え、書いていた期間といってよく、発表も2020年11月7日発売の群像12月号だったから、1週間ほどしか違わない。
 だから当然、内容については予告で見るほどにしか知らなかった。それでも、魔法というものは何なのか、あの頃にあのアニメを見たということがいかなる経験になるのか、それが現実にどう反映されうるのかということについて自分なりに考えたことが、作り手の思いとそう離れず「ドッキングしたような気分になる」と言ってもらえたのは、20年という短くない歳月の重みもあって、大いに励まされることだった。

「『どれみ』を始める時、これまでの魔法少女ものではない、別のものを作ろうとしていました。だから『魔女見習いをさがして』も自然とこうなったんです。今の20代は、子供ではないので、さすがに魔法はないと思っています。でも、神社でお参りをしたり、占いもするし、お願いごともします。願ったり、お祈りする気持ちはなくならないんですよね」
https://mantan-web.jp/article/20201106dog00m200074000c.html) 

  この20年、一般的なレベルの「科学的」視点では迷信と呼ばれていたようなことが、脳科学の発展と膾炙もあって、またその「御利益」を取り戻しているような感もある。我々が心安く生きるために、「ない魔法」をいかに思えるのかについての技術とも言うべきものが一端を担っていることは間違いなく、生兵法に過ぎない言葉や知識だけで「魔法」を定義することの方が、よほど生きている実感とは離れていたのである。

 結果的には死ぬ間際となった柳原昌悦に宛てた手紙に、宮沢賢治はこう書いている。

風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。
(『宮沢賢治全集9』ちくま文庫 p.598)

 『おジャ魔女どれみ』は、いつでもこんな心を離れない物語だった。魔法が上手でなかろうと、何をやってもまず失敗してしまおうと、多くの場面で、最後の最後で人間や魔女や魔法使いを救う一歩をその足で踏み出せるのはやはりどれみでしかない。それは、どれみ自身が憧れを抱く友だちの才能や性格と同じ「神の業にも均しいものだ」という「世界の実際」。

 そんな物語は、だから当然のように現実の世界、制作者たちの小学校時代の記憶から始まっている。

佐藤:僕は、「どれみ」の前に「セーラームーン」をやっていたんですが、割と女児向けのものが多かったんです。今お話しした主人公の属性なども、こういう風にした方がいいだろうなと思ってきたことを、「どれみ」は全部盛り込むことができた作品で、それを認めてもらえたんです。クラスメイト30人を決めて、席を決めたりするなんてことは、他のアニメではまずやらないことですけど、子ども達が毎週テレビで教室を見る時に、絶対その方が、自分がいつも行っている場所のような感覚になるだろうなと前から思っていたので、それを提案したら、受け入れてもらえたんです。

関:30人分の設定を作る時に、小学校の卒業アルバムを実家から取り寄せて、持ち寄って、思い出そうとしたんです。そうすると、フルネームでは思い出せないのに、あだ名は思い出すことができて、その子に関するネタを思い出せたんです。

栗山:あの時は、関さんが一番骨身を削ってネタを出してくれていましたよね。

佐藤:すごく覚えているんですよ。

栗山:男は馬鹿だよね。全然覚えてないもん(笑)。

関:自分がけっこう覚えていたことに気が付いて、すごく面白くなりました。小学校でキャンプに行った時に、班ごとに飯盒でお米を炊いて、鍋でカレーを作ったんです。私の班にアキラっていうガキがいて、カレーの鍋をひっくり返してしまって。だから、うちの班だけカレーがなかったので、お皿に炊き上がったご飯だけを載せて、色んな班にカレーをめぐんでくださいって言って回ったんです。あの屈辱を思い出した時には、アキラお前~と思いました(笑)。

栗山:そういうのって、ひっくり返した方は覚えてないんだよね(笑)。ひっくり返された方は覚えているんだよね。

佐藤:あの頃のシナリオの打ち合わせは、こうやって関さんの思い出話を30分ぐらい聞くところから始まっていました。
http://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2020-11/doremi.html


 今は人の数も減ったが、幼い我々が生きるのに用意されていたのは、数十人のクラスメイトがいて一人一人の名前や特徴がわかり、数年経てばそれが隣と入り交じるような世界であったけれど、フィクションの世界では数十人のほとんどが容易に省略される。魔法少女アニメの嚆矢『魔法使いサリー』で人となりの知れた登場人物といえるキャラクターは限られるし、最近のアニメを見たところでそれほど変わらない。
 もちろん、それはフィクションを作る上での様々な要請や必然もあってのことだけれど、それ以前に、そもそもフィクションというものが「世界の実際」を反映させようという欲望を旺盛に携えてはいないのである。
 しかし、我々の悩みというものは、当然、生きている世界の中で絶えず生まれ萎えしている。「実際」には頓着しないフィクションが、気休めにはなっても薬であるとは決して言えないのは、そういう「世界の実際」の真っ只中にいる精神たちの需要にそぐうような供給をすることができないからだ。
 とはいえ、そもそもそのような需要もなかったという方がよほど実情に近いかも知れない。つまり、需要する当人たちの大半は、その「世界の実際」との違いをあからさまには意識検討しないまま、でもそれがフィクションであることをはっきりと自覚している。こうしたズレをある程度均し、気休めとはいえその効果を最高にするために批評を求める気運というのがあったはずだが、それだって、何かまちがっているだけに堅牢な個人主義とやらの「慢」の牙城を崩すことなく萎えたのであった。

 そして、これほどフィクションが様々なジャンルと時間に溢れる中で、「世界の実際」の捉え方は、ほとんど上記のような漠然としたフィクションの捉え方によって準備されるほかない。『おジャ魔女どれみ』が手を施そうとしたのは、この世界とフィクションの間に横たわる紐帯であったのだと思う。
 今回の『魔女見習いをさがして』というフィクションの中で、『おジャ魔女どれみ』が歴としたフィクションとして描かれることは、もちろんそれと無関係ではありえない。関弘美はこう語っている。

新作「どれみ」アニメの企画と聞いて、佐藤順一監督や脚本の山田(隆司=栗山緑)さんなど、当初はどれみが成長した後日譚かと思っていたようです。私も成長編を作ろうかと、一時は考えましたが、立ち止まって考え直しました。当時、観ていた子どもたちの記憶の中にいる「どれみ」は小学生のままだからです。(中略)
 ならば「どれみ」という作品の『心』を現代の20代の女性に改めて届ける完全新作のアニメを作ろうと思ったのが起点ですね。
(p.138)

 「おジャ魔女どれみ」シリーズは、いわば「世界の実際」から離れる行為を、作中の「禁断の魔法」のようなタブーとしており、この20年間、アニメからノベルスに場を変えてフィクションとして現役であり続けた中で、登場人物たちの時間は基本的には遡行も停滞もせず、『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』のように後から過去のエピソードを差し込むにせよ、なるべく矛盾のないように作られている。2019年の『おジャ魔女どれみ20’s』で、彼女たちは二十代を生きている。
 シリーズ中も、魔女の寿命がもたらす悠久の時間と人間界のはかない時間が対比されるエピソードがたびたび描かれるが、そこにはフィクションが描いてきた気休めとなりうる永遠とも思える日常の限界、宮台真司が用いていたような意味での「終わりなき日常」の暗さが投影されていたとも言える。そこで問われているのは、人としてどう生きるかということでしかない。

 しかし、もちろんそのような20年の動きを追ってきた者や、「世界の実際」についてよくよく考えてしまうような者だけが、作品にふれるわけではない。
「当時、観ていた子どもたちの記憶の中にいる「どれみ」は小学生のまま」だという発言は、それに対する覚悟を物語っているが、決してネガティヴな思いではないはずだ。多くの視聴者の中で「どれみ」が小学生のままであることは、関弘美の中で、カレーの鍋をひっくり返した「アキラ」がまだ「ガキ」のままであることに似ている。人はもちろん生きて変わるが、その全てを見続け、考え続けられるわけではない。
 それもまた「世界の実際」であることを引き受け、それでもまだ生きなければならないこの「世界」へきちんと目を向け、「楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」という心へ導いていかんとするフィクションとして、このシリーズは20年も真摯に作られてきたのである。

  

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