『ナチを欺いた死体――英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』ベン・マッキンタイアー 小林朋則訳

 

 

 スパイにまつわるものをいろいろ読んでそのことを考えているうちに、小説に書き込もうかというぐらいに根ざしてきたと思い、さらにますます読んでいったところで、直接使うのは「スパイ・ライク・アス」というコメディ映画だけだったりするけれども、まあ何事も知ることはおもしろいというか、おもしろい話というのが確かにある。戦争の話ということで他の知識が引き連れてくる後ろめたさはあっても、そんな状況下で生きていた人々の話が興味深いのを無視することはできずに読んでいる。

 イギリスの秘密情報部はSIS(Secret Intelligence Service)という名と、MI6の略称で知られている。第一次世界大戦下、諜報・情報収集活動における効率化を図るために戦争省情報部の元に各組織が再編され、任務の種類に応じて番号が振られ、MI(Military Intelligence)1~6までのうち、SISに6があてられたので、そういうことになっている。

 そこで繰り広げられる話というのは、生活と任務が一致している者達の化かし合いとどんでん返しの連続で、だいたい全部おもしろいが、第二次大戦中、MI5のチャールズ・チャムリー空軍大尉によって思いつかれ、ユーエン・モンタギュー海軍中佐によって進められた「ミンスミート作戦」などは特に、こんなことを言うとなんだが含蓄に富む。

 詳細はWikipediaなんかで確かめてもらうとして、要は偽将校であるウィリアム・マーティン代理少佐の死体を偽の重要書類と一緒に、墜落や何かの不慮の事故に見せかけて海に流して敵国ドイツにさりげなく書類を読ませ、本来進んでいる計画とは異なる情報を信じ込ませようという作戦である。

 情報を盗み見た(と思っている)ドイツ側としては、その情報が漏れた疑いをイギリスが持てば、書類に書かれた計画が変更されてしまうに決まっているので、スペインを通して見て見ぬ振りで封筒に元通りの細工を施して返却する。その上で、秘匿性の高さからその情報を「確度百パーセント」として取り扱った。

 もちろんそれはイギリスに「ミンスミートは鵜呑みにされた」と伝わる。この作戦は、ヒトラーを完全に欺いて戦局を有利にするだけでなく、その後に同様の形で情報漏洩があった際に、その真偽を疑わせるという思わぬ効果までもたらした。現場の常として、気付かれれば致命的なミスも混じっていたそうだが、作戦は大成功に終わったのだ。

 ドイツ軍が信じ込んだ決め手は、マーティンの持っていた劇場のチケットの半券の日付であったという。この作戦への自分の興味は、死体や写真や私物はもちろんのこと、ウィリアム・マーティン代理少佐の人生を創造するという配慮が、実に周到に行われたという点に集中する。

 二人が創造したウィリアム・マーティンは、賢く「聡明」で、勤勉だが忘れ物が多く、身ぶりが大きくなる癖があった。娯楽が好きで、演劇やダンスに興じ、所持金以上にお金を使って、借金がかさむたびに父親に頼んで肩代わりしてもらっている。母アントニアは数年前に亡くなった。こうして家族関係が決まったら、次は経歴だ。マーティンは、パブリック・スクールと大学で教育を受けたことにした。かなり売れそうな小説をひそかに書き溜めているが、実際に出版したものは一冊もない。大学を卒業後は田舎に引っ込んで、小説を書いたり音楽を聴いたり、釣りをしたりして暮らしていた。どちらかといえば孤独を好むタイプである。戦争が始まると、イギリス海兵隊に入隊したが、嫌いなデスクワークに回されてしまう。「より活動的で危険な任務を求めて」コマンドー部隊に移り、技術的な問題、とりわけ上陸用舟艇の構造について能力を発揮して功績を上げた。ディエップ上陸作戦は大失敗に終わるだろうと予見し、事実そのとおりになった。要するに二人の作り上げたマーティンは、「徹頭徹尾いい奴」で、ロマンティックで威勢がいいが、少々不器用で、時間にルーズ、浪費癖もある男性だった。

 (p.90)


 ここには、(死体の)読み手に伝わるはずもない情報が多分に含まれているが、そもそも人間とは、伝わるはずもない無数の情報の塊なのだから、それを秘密裡に付されることで、その人間にリアリティが肉付けされていくのも無理はない。
 ウィリアム・マーティンの説明に書き込まれた演劇に興じたという経験が、海水にふやけたチケットの半券に輝きを与えなかったとは言い切れないし、実際、その情報をもっているかいないかで、死体に半券を差し込む細工をする際の手つきだって変わってくるはずだ。そして、仕掛人のユーエン・モンタギューは、四枚綴りだったそのチケットの余りを使って、実際にその演劇を観に行きさえした。

 任務を遂行するための準備とは、ここまで周到に、一角のために氷山をこしらえるが如く行わなければならないという点で、これが小説を書くことに似ていないとはとても言えない。もちろん、最高の秘匿性の中で計画を立てる現場の楽しみが高じて過剰に行われたということもあるだろうが、それならなおさら、似ていないとはとても言えない。

 ユーエン・モンタギューは、結局は公開されなかったウィリアム・マーティンのための偽の長い追悼文にこう書いており、ほとんどウィリアム・マーティンになりきって活動を続ける心情のほどが窺い知れる気がする。

 想像力豊かで芸術家気質の人なら誰でもそうだと思いますが、コマンドー部隊での経験は、マーティンの人生に新たな意味を、創造的な活動への強烈な刺激をもたらしました。彼は、戦争が終わるまでは一切の作品を公表しないと断言しました。ですから、彼の稀有な才能を広く世間に知ってもらうには、もうしばらく待たなければならないでしょう。

(p.243)


 そして、この作戦にはもう一人、その職務上、世間に知られることを待たなければならない者がいた。別の仕方でウィリアム・マーティン代理少佐になりきり、身元を隠しきって作戦を成功させながら、その任務内容も手柄も一切知ることなく、あらかじめ死んでいた人物だ。
 この本の最後は、生前「独身で、両親は正式に結婚をしておらず、おそらくは字も読めず、金も友人も家族もいない」「誰からも惜しまれず悲しまれずに死んだ」その男のために捧げられていて、泣ける。

 

英国スパイ物語 (中公選書)

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  • 作者:川成 洋
  • 発売日: 2018/02/21
  • メディア: 単行本
 

 

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MI6秘録〈上〉―イギリス秘密情報部1909‐1949

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