ズルいこと 大キライ カクゴしなさい
慣れ親しんだスパイクやペンは確かに具合がよくて、それでなくっちゃダメだと思える。とはいえ、そもそもスパイクが筆記具が足に手に馴染んだところで、ボールや文章が意のままに操れるわけでもない。
スパイクにこだわるのだっていつまでも齟齬がなくならないことの裏返しだが、齟齬というのは行為のあらゆるところに絶えず生まれるというか発見される。
その無限の齟齬を有限な時間の中で絶えず鞣そうとする行為を練習だと強く思うようになったのは、野間文芸新人賞の時、保坂和志さんに「あなたはデレク・ベイリーの評伝を読まなきゃだめだよ」と言われて読んでからだ。
デレク・ベイリーは「めかくしジューク・ボックス」でジャズ・ロック期のソフト・マシーン『4』から「Virrtually Part One」を聞かされて、こんな風に喋り始める。
これは考えさせられるなあ。五〇年以上もかかって僕はギターの調律をしようとしてきたんだよね。演奏の多くの部分は実際問題として、チューニングのためだったんだ。他の人を見て分かったのは、それがとても難しいことだっていうこと。
(ベン・ワトソン/木幡和枝 訳『デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語』p.512)
そうして色々考えているうちに『おジャ魔女どれみ』が20周年を迎えたことが耳に入ってきて、あれだって、アニメシリーズに続くノベルスも含め、花屋にお菓子作り、子育て、機織り、それぞれの夢まで、魔法に代わるような不思議なチカラを我が物にしようと奮闘する無限と有限をめぐる練習と、何よりも、主人公たる少女のそれに対する憧れを真摯に描いた物語であることに思い至るのだった。
不思議なことに、今年のほうがいろいろ忙しかった気がするのに、テスト勉強は去年よりもずっと集中できたんだ。時間の使い方が上手くなったのかもしれないね。分からなかったことを、すぐにみんなに聞いたことと、授業だけは真面目に聞いていたのが良かったのかも。カレン女学院に入学した妹のぽっぷが、毎日家で熱心にピアノの練習をしていることにも、刺激を受けたのかな。ま、ぽっぷには言わないけどね。
あたしは、何でも突っ走ってばかりだけど、勉強だけは落ち着いて取り組むようにした。それに、親友達はそれぞれが勉強以外の分野で、すっごい努力しているんだよ。将来の夢もハッキリ決まっていないあたしだからこそ、今出来ることを頑張らなきゃって思うよ。まあ、本当はもうちょっといい点が取れてたはず……なんだけどね。(『おジャ魔女どれみ16 TURNING POINT』p.188-189)
その後、ジーコがプロ人生の最晩年にあってもスパイクを「魔法の靴」だと思い続けていたことを読み直したり、「魔法使い」フランサのことを思い出しながら、我孫子から鹿島までの長い道に、多くの人々が暮らしてきた利根川に、いくつもの糸を縒るようにして、あるいは後から抜糸されて、書くべきものができていく。
そうやって書く以外に、自分の実感を仮初めにも刻みつけるやり方を、退屈な「作品」の意識を離れていくやり方をまだ知らない。
11時ごろ、キンダイチ君の部屋に行ってフタバテイ氏の死について語った。友はフタバテイ氏が文学をきらい――文士といわれることをきらいだったというのが解されないと言う。あわれなるこの友には人生の深い憧憬と苦痛とはわからないのだ。予は心にたえられぬさびしさを抱いてこの部屋に帰った。ついに人はその全体を知られることが難い。要するに人と人との交際はうわべばかりだ。
たがいに知りつくしていると思う友の、ついにわが底のなやみと苦しみを知りえないのだと知ったときのやるせなさ! 別々だ、ひとりびとりだ! そう思って予は言いがたき悲しみをおぼえた。予はフタバテイ氏の死ぬときの心を想像することができる。
(石川啄木『ROMAZI NIKKI』p.217)
(つづく)