『トンネル』ベルンハルト・ケラーマン/秦豊吉訳

 

トンネル

トンネル

 

 

 国書刊行会でこのブログの本を出そうと動いていた時だったから、刊行のけっこう前に出ることを知ったと思う。「トンネル」のことを記事で書いたこともあったから、編集者が教えてくれたのだ。
 その国書刊行会の紹介文を引く。

舞台はニューヨーク。青年技師マック・アランには、長年温める壮大な計画があった。アメリカとヨーロッパを24時間で結ぶ「大西洋横断海底トンネル超特急プロジェクト」――。老獪な大銀行家ロイドの協力を仰ぎ、投資家からの資金集めに成功する。完成期限は15年……。
未曽有の大工事に18万人の労働者を動員、人類史上かつてないプロジェクトがはじまった。爆発事故の大惨事、株の取り付け騒ぎ、労働者の暴動……。
技師マック・アランの波瀾万丈の四半世紀を描くドイツSFの嚆矢!

 別にこのあらすじの枠を出るものではないのだけれど、こう書かれた枠の隙間に様々な要素がぎっしりスマートに詰まっていて、実におもしろかった。
 いがらしみきおは、マトリョーシカのような入れ子構造の箱を想定して「科学にしても哲学にしても、テーマはひとつでしょう。"箱の中身は何か?"です。ただ、哲学が、最後の箱を開けてみたら空だったのに対して、科学は"まだ何かある"と言い張っているわけです」(『IMONを創る』p.135)と書いていた。
 ふざけつつの記述だけれど、ともにある特定の枠組みの中で文学は箱と箱の隙間に目を向け科学は箱の数を増やしていくんだよ、というのはだいたい納得できるところだ。
 で、この『トンネル』という小説は、当時の科学という枠組みに則った途方もないトンネル工事が進みつつ、その間隙を縫ってあらゆる人間ドラマが展開するという小説になっていて、全方向に興味と知識とバイタリティを有した手塚治虫が好むのもむべなるかなという作品である。

 こういうものを書くのはかなり大変だ。まず多岐に渡る深い知識が必要で、さらにその知識と、こうだったらいいなあと思う話の折り合いをつけていかなければならない。
 本来の科学にはないミノフスキー粒子という大きな箱を拵えて全部そこに入れるアニメや、科学の方をガン無視して日本からブラジルに穴を通す小説があるように、ピンからキリまでのごまかしの手法が、SFというジャンルを筆頭に古今東西生み出されてきたのは、その種のフィクションを作ることの大変さを物語っている。
 本来、国を挙げての大事業が一流の科学者とともに進行する中でその可能不可能問題点が初めてわかっていくようなことを、一人の人間が、そこにまつわる人間ドラマも一緒に、紙とペンで作り上げようというのだから、途方もないことだ。


 話の中身は読めばわかるとして、じゃあなんでそんなことがケラーマンにできたのか、というのが自分には気になる。そして、その胆力は、トンネルの入口のある「マック・都市(シティー)」の描写をこんな風に書き上げるところに滲んでいると思う。

 トンネルのずっと奥で大惨事が起った時、マック・都市はまだ夜であった。陰気な空模様であった。空の雲は一面に重く低く垂れている。眠ることのない時代に、最も眠りのないこの都市が夜の汗をかくように、明るく光を投げているのを反射して、空はうす暗く赤らんで光っていた。
 マック・都市は昼間と同様に、熱病に浮かされたように騒音を立てていた。見渡す限りの地面が永遠に動揺しながら、燃え続ける熔岩流にでも覆われたように、火花と火焔と蒸気とを立ち騰らしていた。何万と群る灯火は、所々から遠くまで光を放射していて、町全体はちょうど顕微鏡で見た滴虫類のように見えた。トンネルへ線路が入って行く入口に近い高台には、各工場が立っている。その工場の硝子屋根は緑色に見えて、冬の冴え返った月光に照らされた氷のようであった。警笛と警鈴がけたたましく鳴り響き、あたりには到るところに鉄槌の音がして、地面は揺れ通しだ。
 いつもと相変わらず、矢を射るような列車が、何台もトンネルの中へ下りて行き、またこっちへ上って来た。まぶしいように明るい工場には、ダイナモ、喞筒、通風機などの巨大な機械が、音を立てて動いていた。
(p.242)

 自分はここを手書きと、あと今キーボードで書き写して、いつも楽しかった。
 どこをどうとか書く気もないが、手際の良さの中にくそ真面目の火が燃えているようで感動する。それで、いったいこの人はどんな風に世界を見ていたのかと興味深く思い、他の文章もぜひ読みたくなった。そう思うことはもうあんまりないから、嬉しかった。


 ケラーマンの邦訳は、今年出た『トンネル』の底本となった、新潮社の『世界文学全集 トンネル 外二編 第2期 第12』のみだが、この「外二編」というのは、ケラーマンが日本を訪れた経験から書いた「さつさ・よ・やつさ」と「日本印象期」の抄訳である。
 百年近く前とはいえ、異国よりは雰囲気もつかめるし、その時代の知識がないわけでもない。どう見ていたか、いかに書くか。それについて考えるのに、こんなにいいものはなかろうということで、古書店から五千円くらいで取り寄せた。
 で、「さつさ・よ・やつさ」と「日本印象期」を読んでみると、やはりなんとも律儀な描写である。『トンネル』を書く以前の一九〇八年、すでに作家だった三十歳前のケラーマンが異国日本を紹介するという目的に適うものだが、それにしてもというぐらいで、吉原遊郭へ行って「まるで太陽の中の花だ」という妓楼を籬(まがき)越しに見ていくところなんか、葛飾応為「吉原格子先之図」に描き込まれたそのままで感動する。

 格子は四角い木の棒であるが、その間が指の長さ位ずつ明いているから、部屋の中はすっかり一目で見渡せる。部屋は大抵、全部金が塗ってあって、大きな金色の壁は、立派な大きな彫刻や絵で飾ってある。時々素晴らしい出来栄えのものがる。花、樹木、ペリカン、龍、桜の花、松等である。たった一本の節くれ立った松の枝が、葉を付けて、後の金色の壁全部に張ってあったり、あるいは三四輪の巨大な菊の花に葉をあしらったり、又は青竹の並んだ中に虎が潜んでいたりする。部屋の模様は、大抵こんなものである。
 この豪奢な部屋の奥の方に、一列に、一定の距離を置いて、並んでいるのが遊女達である。この店には二十人、あの店には十人、向こうには三十という具合である。誰も黒い髪の毛を立派に結い上げて、花簪を挿し、美しい色の絹の衣装、きらきら輝く帯、磨いた手をしている。白粉は首筋にまで付けてある。髷は実に巧妙に結ってあって、眉を引き、顔は白粉を塗り、唇は下唇だけ、赤く半円に紅を差している。みな実に技巧的にも見える。こういう遊女達が蒲団の上に楽に座って、赤く燃える炭を入れた青銅の火鉢を、一人一人の前に置き、真鍮の雁首のついた煙管で、煙草をふかす。
(p.389 常用漢字と現代仮名遣いに改めた) 

 
 この後もまだまだ続くこんな描写は、このあとそういう遊びや踊りにどはまりして良く知った上で書き足せたものもあるだろうが、万事がこの細かさでリズムよく書かれる。秦豊吉の訳の貢献は承知の上で、何より、目の向け方と離し方、凝らし方に圧倒される。
 その一方、吉原で遊女たちにサプライズで「アイ・エヴ・ユウ、アイ・エヴ・ユウ」と見送られるところとか、奈良の宿で出会った美少女おぎんとの出逢いと別れとか、そんな場面もいちいちおもしろいのが、人間としての色事への情熱と、凡庸を拒否する文筆家としての行き渡った意識を感じさせてすごい。その書きっぷりは『トンネル』の中の恋愛模様の中にも存分に反映されている。

 いっぱい書き写したのでもったいないから、もうひとつ、上野公園での花見の場面の描写を引いておく。大仏を軸にした視線の動きが、ある一座へ固定され、ふと引かれる。別になんでもないような気もするし、その通りに長い文の中の一部に過ぎないが、上野公園の花見の様子を見物しに行き、書くべきところを見出し、このぐらいに書けてこその小説家という仕事だという気がして背筋が伸びた。

岡の上には、花の雲に囲まれた、大仏の巨大な座像が君臨している。大仏は丁度威厳を繕ったヘブライ人のようである。色は真っ黒で、大きな鼻で、細い切れ長の眼だ。大仏は此処に鎮座して、自分に花を捧げたり、匂いの好い線香を上げたりする、小人みたいな人間どもを見下ろしながら、その厚ぼったい唇に微笑を浮かべている。四方から人が群集して来る。附近の小さなお茶屋は花見の客で混雑する。永遠の微笑を湛える巨大な黒い仏陀の眼前に、若い男達が他の供物を持って来る。それは酒だ。此処で僕は初めて酔っ払いを見た。三人の若い男と三人の芸者だ。この酔っ払い連中と、ヨーロッパ人の酔っ払いと何か変わった所があるか。無い。何処も酔っ払いには変わりが無いものだ。この若い男達は徳利から酒を飲むが、飲むのではなく、一座の者の間に酒をこぼして廻る。一人一人、相手の口に酒を注ぎ込む。体は始終ぐらぐらし、震え、揺れていて、映画中の人物に外ならない。魂は有頂天になって、大声に笑ったり、くすくす笑ったりして、魂はゆらゆら揺れている。この一座を取り囲む多くの見物は、天国の楽しみに浸っている幸福なこの連中をただ呆然と眺めている。
(p.393)

 

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