『自然な構造体―自然と技術における形と構造、そしてその発生プロセス』フライ・オットー他、岩村和夫訳

 

 

 先日、中国の緑あふれる集合住宅というコンセプトの高級マンションで蚊が大発生し、もうろくに人が住んでいないというニュースがあった。その映像を見た時に、昔読んだ本にそっくりなものがあったなと思い出したらコレだった。

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 で、ついでに今読み直すと、しかも広い公園の片隅のスゲやセイバンモロコシから隔てられて誰も来るはずのないエノキの下で仰向けに寝転んで読んでいると――三日後には全部苅られて呆然としたが――最近、自分が一生懸命になっている自然を見ることについてさらに目を開かせるようなところがあって、こんなにいい本はないのだった。

 どういう本かというと、まず主要著者のフライ・オットーは、吊り構造や膜構造などの軽量構造で知られる建築家である。大建築について回る「屋根どうするんだ問題」に、一つの解を与えた人物といえる。我々に馴染みがあるものでいうと東京ドームも膜構造の技術が発展した形で、内と外の圧力差で膜としての屋根が持ち上げられていて、そのおかげで柱がいらず、屋内で野球やライブができる。
 そのオットーが、構造体について、生物学と建築つまり自然にあるものと人間の技術が生んだものの関係をまとめたのが本書だ。一つ一つ実例を見ながら、類似や相違や対比によって建築について自然について考えようじゃないかという感じで、無機物有機物建造物、多種多様な写真や絵を見るだけでも楽しい。


 類似や相違や対比によって建築について自然について考えるというのは、例えば、オットーは膜構造を説明する際、理想的な膜の形状をシャボン玉を飛ばして説明したらしい。

 ここで、多少かしこい人は、自然から学んで建築に活かすのねと簡単に把握するかも知れないが、そういう知った風でいて自分で手や足を動かしたことのない奴がマジでいちばん良くない。建築でも創作でも何でも、実際に何かが形をとっていく過程で、事がそう簡単に運ぶことはほとんど無いのである。
 そんな奴の鼻を折ってから始めるために、オットーは序盤にこんな話を始める。

1962年、アメリカの友人バックミンスター・フラーがマックス・プランク研究所で珪藻の殻の立体写真を見て、ほとんど打たれんばかりに圧倒された表情を見せた時のことを私たちは忘れることができない(バックミンスター・フラーは世界的に著名な建築家であり、世界最大スパンにして最も軽いドームを実現していた)。彼はそれまでになかった5倍から5万倍に拡大した最新の写真を見たのである。そしてその立体写真のスライド画面はまるで彼の有名なドームの模型のように見えたのだ。グループのメンバーにとって次のことは明らかであった。もし彼が珪藻の殻のことを知っていたとすれば、生きた自然を模倣したと言われるだろう。しかしながら、たとえフラーが珪藻殻のことをあるがままに知っていたとしても、自分でその殻を作ってみようという気にはとうていならなかったに違いない。
(p.13)(筆者による表記がえアリ) 

  また、巨大なネット構造に成功した建築を見た「新聞の学芸欄の記者」は「それがクモの巣のコピー以外何ものでもないと主張することだろう」とオットーは言う。

しかし、これらの構造物に至る道はそれとは全く別なものであった。この超軽量構造物を計画し、建て、構造計算し、試験を行なった時点では、それを開発したメンバーがクモのネットに関して、そこに関心を持つアマチュア以上の知識を持ち合わせていた訳ではないのだ。しかしながらザイルネット屋根の新たな技術が確実な発展段階に達した頃、ようやくクモの巣のネットをそれまでとは異なる徹底的に鍛えられた目で見る、すなわち〈認識する〉ことができるようになったのである。
(p.14) 

  つまり、人間が技術としてその構造を把握し始めた時に、ようやく自然界の同じ構造物が理解できる。「見る」とは、「認識する」とはそのようなものだ。

 去年、人工的に生成された巨大波の姿が、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に描かれた波とそっくりだというので話題になったが、あれだって、北斎がその波を見る超人的な視力を持っていたというより、何十年と波を描き続けた北斎の情熱が、それに伴う技術の向上が、波の構造との一致にまで至ったと見る方がよほど北斎らしい。だいたい、四十代と七十代で描いた波を見比べれば、そこに視力が介在していないのは明らかだ。そういう奇しくも正確に把握された構造の説得力が、北斎のあり得ない構図を補強しているのだろう。

 だから、北斎に巨大波の写真を見せたら、フラーのような「打たれんばかりに圧倒された表情」を見られたに違いない。それはむしろ、自らの目をそのように仕上げた過程を知る者だけが浮かべることのできる、「新聞の学芸欄の記者」には不可能な美しい達成なのである。


 自分の人生を考えてみても、「新聞の学芸欄の記者」みたいなことに時間を取られすぎたのかも知れないと感じることもある。もっと大きなことに向かうための、それを信じられるだけの目や手を「徹底的に鍛え」てくればよかったと思う。少なくとも初めて本書を読んだ十年前だかにそういうことに気づけたら良かったと、どうしようもないことを思う。

他の多くの人たちと同じように、私たちも明日の住居、明日の都市を求めている。私たちがそこに住みたいと思うような、私たちの世界を求めている。そしていつかは、その周辺環境を慎重に取り扱うことができるようになってしかるべきだと思う。
私たちは、一人一人が集まって作り出される世界がその誰にでも快適である、そんな世界の創造を最終的に目ざしている。
私たちは、人間に役立つものだけでなく、そこからさらに進んだ自然なものを求めている。私たちは、住民と社会にとってヒューマンであり、同時に自然全体にとってヒューマンな、そんな新しい技術を追求しているのである。
(p.191.) 

 
 オットーというのはご多分に漏れず変な人だったようで、自分の世界へ周囲の人間を取り込み焚きつけるようなところがあったようだが、その情熱は文章を読んでいても伝わってくる。例えば蚊が大発生するように、構造へ目を向け続けることでこぼれ落ちていく自然もあるだろうが、それを別の人間が目にすることで、追求はまた進んでいくのだろう。
 もったいないので、人目に触れるこんな記事では抽象的なトピックに留め、数多の感銘を受けた箇所は自分のノートに引き写すだけの秘密にしておくが、特に何かを創作したいと考える多くの人に読んでもらいたいなと自然の中で願うぐらいには焚きつけられたのだった。

 

 これもすごい。

 

北斎 富嶽三十六景 (岩波文庫)

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  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: 文庫