ワインディング・ノート20(手塚治虫・巖谷國士・対談)

 僕は前にこう書きました。

 個性とは、影響の連鎖を断線させて目をつぶった時に、まぶたの裏側に浮かび上がってくる安らかなものである。


  なお意見を変えるつもりはありません。
 「個性」とはそんな風につまらぬものであり、「全世界を異郷と思う者」は「個性」を確かに有しすぎなぐらい有しているのですが、当の彼らは「個性」などという陳腐で何の意味もない安らかな言葉を自ら使おうとしないからです。
 彼らは決して「影響の連鎖を断線させて目をつぶ」ることをしません。それが、完璧を目指し続けるということなのです。安らかなところに安住しないということなのです。
 個性について手塚が語っている対談があります。

手塚 近ごろ自分で勝手に考えてるんですけど、ぼくのマンガがいままでどうにか命脈を保ってきたというなかに、個性がなさすぎたっていう点があると思うんです。
巖谷 ぼくもそれを以前に書かしていただいたことがあるんですが、無個性の普遍性というか、でもそれはディズニーとはちょっと違う。その違いははっきりさせたほうがいいと思いますね。
手塚 たとえば、つげさんにしても水木さんにしても、あるいは最近までポルノ劇画描いていた石井隆さんにしても、たいへん個性に恵まれて作家の肌がもろに出てますよね。ぼくはそういう人たちがアッピールしてる時期に、あるバーで酔っぱらいにカラまれ、その酔っぱらいが評論家だったんですよ、たまたま。
巖谷 マンガ評論家ですか。
手塚 いやマンガじゃなくて、文芸評論家だろうと思うんですけど(笑)、いろいろマンガ論を述べられた後で、手塚治虫の最大の欠点は個性のないことで、これからのアンタの命題というのはナマの手塚を出すことだということを、かなりいわれたんで、ぼくの技術には限界というものがあって、つげ義春までは到達できないんだってしらけたんですよ。そしたらアンタおしまいだっていうようなことをいわれましてね。
巖谷 それは酔っ払っていたせいと時代のせい(笑)……。)
手塚 うん、結果的に考えるとね。それは十年ぐらい前で、つまり強烈な作家性が、個性がナマに出ると同時に、それがモロに飽きられる時代があるんですね。時代だと思うんです。時代の状況がそれを拡散してしまう運命が、どんな大衆文化にもあって、特に映像の宿命だと思うんですよ。


 個性がないということを手塚治虫は、自ら明言します。
 しかし、それは欠点なのだろうかということに焦点があてられていきます。おもしろいうのでそのまま読んでいきましょう。

 

手塚 ぼくの個性っていうのはないのだと思うんですよね、実際に。
巖谷 だから無個性の個性といってもいい。たしかに手塚マンガのストーリーというのは、いわゆるオリジナルなものではないですよね。必ずなにかモトというかネタがある。ほとんどが古い神話的物語のパラフレーズ(言い換え)でありパロディであるわけで……。
手塚 ええ、ずるいんですよ。ストーリーだけではなく画風もディズニーからもってきたり、あるいはロバート・クラムからもってくるという……。
巖谷 どんなものでももちこめる透明さみたいなものが、手塚マンガの個性でしょう。
手塚 日本人的なんでしょうかね(笑)。

 
 そもそも、ウラジミール・プロップが『昔話の形態学』(1928)で示したように、ストーリーというのは数十の項で分類できてしまって、そう考えればオリジナルなものなどないと言っていいのですが、それはともかく、手塚治虫は自らが影響を受けたものを包み隠さず語っています。そして、それを自らずるいと言い放ちます。
 少し飛んだあとの具体的な話を引用しましょう。ここはめちゃくちゃおもしろいです。

巖谷 ところでダイジェストといえば、たとえばメトロポリスですね。前からうかがってみたいと思っていたんですが、あれはまだフリッツ・ラングの『メトロポリス』を観ていない時期の作品だと書いておられましたが、本当にそうなのでしょうか。
手塚 ぼくは観てないんですよ。大体戦争中に構想を立てたもんですからね。だからフリッツ・ラングのものは……、あれは何年ごろかな、昭和十一、二年ごろじゃないですか?
巖谷 一九二六年ぐらいにできた映画で、日本で公開されたのもかなり古いと思います。
手塚 そんなものですか。見てないです。 それから『ロストワールド(失われた世界)』も見(原文ママ)てないし。
巖谷 すると不思議でしようがないのは『メトロポリス』がどうしてあんなふうに、フリッツ・ラングを彷彿とさせるようなマンガになるのか、なんですね。似てるでしょう?
手塚 あれに、ロボットが出てくるというのは漠然とだれかに聞いてたんですよ。
巖谷 しかし、ロボットのミッチイがつくられてゆくシーンがありますね、こういう鉄の枠にはめられて、頭にキャップをして……。
手塚 あれはまったく、偶然の……。
巖谷 偶然の一致ですか。
手塚 一致してるかどうかわかんないけど。
巖谷 いやほとんど同じですよ、あのイメージは。
手塚 そうですか。
巖谷 それともうひとつは冒頭の摩天楼のシーンですね。ニューヨークとおぼしきメトロポリスの摩天楼があって、そこをミッチイが飛んでるシーンがありますね。あれもフリッツ・ラングにそっくりなんです。
手塚 あれはね、『ブリンギング・アップ・ファーザー』の影響だと思うんですよ。つまり『ブリンギング・アップ・ファーザー』を描いたジョージ・マクマナスという人は、もともと建築設計かでして、どっちかっていうと、モダニズムが強調されていた二十世紀初頭の摩天楼かなんかの設計をやってるんですね。そういう人が描いた作品ならいたるところそういったデザインがありますね。それにモダンなインテリアとか……。それをやっぱり子ども心におぼえてたんでしょうねえ。
巖谷 フリッツ・ラング自身もそういうものから発想したのかもしれませんね。
手塚 そういう無意識の蓄積はあるでしょう。大城さんの『火星探検』のなかに天文台が出てくるんですけど、その天文台がそのころ設計された有名な建築家の建物とまったく同じものなんだそうです。あれはアメリカン・タワーじゃなくて、なんだったかナ、そうです、メンデルゾーンでした。
巖谷 ドイツ表現派ですね。
手塚 ぼくは知らなかった。それで、大城さんにそれを見たことがあるかって、松本零士さんがきいたんです。そしたらわからないっていうんですね。もしかしたら無意識に見ていたかもわからないっていうんです。そういうイメージの残像っていうかねえ、そういうのはあるんですね。
巖谷 それはおもしろい話ですね。はっきりと源泉は指摘できないけれど、なんだろうな……、大衆文化の巨大な記憶のプールみたいなものがあって、それがパターンとして個々の作品のなかに浮かび上がってくるということですかね。
手塚 そうなんです。ぼくが戦争中にドイツ映画を観たなかでいちばん強烈だったのが『大自然と創造』っていうものです。これは最近観る機会がありまして懐かしかったんですけど、その当時にしてみたらナチスの啓蒙映画ですよね。だけど大がかりで、原始時代から恐竜時代、それから未来まで、地球の最後まで延々と続くセミ・ドキュメンタリーです。それ一本に初期に僕のマンガに表れるシーンがやたらあるんですよ。『メトロポリス』のいちばん最初に恐竜が草食べてるところがありますよね、あれなんか代表的な影響です。なんとも強烈な印象でしたからね。

 
 おもしろいので延々引き写してしまいました。
 巖谷國士のいう「大衆文化の巨大なプール」とは、ここまで話してきた「地層」や「土壌」のような意味でしょう。そこからの影響を、それこそ発掘するように、子細に語ることのできる手塚治虫がいます。本当に『メトロポリス』も『ロスト・ワールド』も見ていないのでしょう。でも、その影響がどこかでつながると信じているために、ジョージ・マクマナスをためらいもなく出してきて、同じ「地層」を見ていた証拠を自ら検証しています。そして、そんなことで作品の価値というものが貶められるのではないことを当然知っています。

 大城のぼるの『火星探検』に出てくる天文台は、メンデルゾーンのアインシュタイン塔やそれに似た構造を持つ国立天文台三鷹の太陽塔望遠鏡だと思われますが、そういう「イメージの残像」が表現に表れるのと同じようなことが至る所でくり返されている、こういうことを、僕たちはあまりにも意識しなさすぎるのではないでしょうか。
 自分がたった今思いついたという考えがノートをめくればほとんどそのまま書いてあるという体験をしつこくくり返している僕には、『大自然と創造』を見返して自分のマンガと同じシーンを発見する手塚治虫の気分がとてもよくわかります。
 「インプットがないのに、アウトプットは出来ません」と言うのは、本当にただそれだけの意味なのです。

手塚 ぼくの場合は、もしかしたら二十世紀の印象を小器用に編集してるんですよ、情報をね(笑)。で、適当に味つけをして……、編集者の個性かな。
巖谷 でもそれは、文学の世界ではもっと意識的におこなわれてることで。引用だけで終わらせちゃう文学者が現れたり。
手塚 ああ、それはそうですね。あれは文学といえるかどうかわからないけど。
巖谷 いや一種の文学ですねえ。とにかくいろんなものを並べてカタログ的に編集してゆくエッセイみたいなものもいまだにはやっています。その流行が本格化したのはまあ(一九)六〇年代後半でしょうけれど、ある意味では手塚治虫のほうが早かったわけで、手塚マンガに慣れた読者はたいして驚かなかった(笑)。
手塚 カタログ文化の発祥ですかね(笑)。
巖谷 いや、いわゆるカタログ的な冷たさはないんですね。カタログというのは、ひとつ写真があって、それに値段が出てるとか、あるいはこれはこういうもんだっていう定義だけを出す。
手塚 つまりインフォメーション。


 つげ義春水木しげる石井隆。彼らは確かに個性的です。わかりやすく、つげ義春水木しげるにしぼって書くいてみたいと思います。
 本当なら、ここに上げられていない人たちにも言及したいところですが、藤子不二雄石森章太郎赤塚不二夫横山光輝を出すより、これらの人の方がわかりやすいでしょう。手塚の劇画コンプレックスもうかがえますし。

 

 

別巻14 手塚治虫対談集(4) (手塚治虫漫画全集)

別巻14 手塚治虫対談集(4) (手塚治虫漫画全集)

  • 作者:手塚 治虫
  • 発売日: 1997/08/09
  • メディア: コミック
 

 

 

昔話の形態学 (叢書 記号学的実践)

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