『契れないひと』たかたけし

 

 「同人誌仲間」のことばかり書いていると、作品だけを見つめた感想は難しい。

 あんなウンコの漏らし方をした人間がその後、同じ職場でまともに働き続けられるとも思えないが、ギャグマンガの伝統と方便がそれを可能にさせるという、それ自体は珍しくもないけれど、急にエリアマネージャーとか上下関係とか仕事のいやな部分が垣間見えることで、そうした現場にいる人間同士の一線を越えない不干渉が人間のやさしさのようなものにすり替わりかねないところに、このよくわからないマンガのよさとわからなさがある。

 そんなことを考えると、エリアマネージャーが中野に言う「絆されるなよ」の言葉と視線は、読者の方にも向いているように思えるし、無意識だとしても、作者の方にも向いているのだろうと思う。

 自分は、この作者と笑いやマンガの話をしたことは一度や二度ではないけれど、そんな話をしながらアルバイトのコンビニ夜勤明けで目が真っ赤だったり下着に穴が本体ほどの穴が空いていたりするひどい生活と運動不足と惨憺たる納税ぶりにまみれ、ギャグと生活の綱渡りをしてきた姿を思い出す。
 そこで自分が触れた精神は、作中、遅い初詣のあと川の土手に座って仕事の話をしてしまう場面に、どう描けばこんなに不潔になるのかわからないようなホームレスを同席させるところに息づいている気がする。

 長いことそんな生活を続けられたということは、本人には何かしら道が見えていたのかも知れないけれど、そのいきあたりばったりぶりを見ていたところでは、その道はたぶん、カフカが次のように書いたのに近いものだ。

 真実の道は、たかい空中ではなく地面すれすれに張られた一本の綱のうえに伸びている。それは歩いて渡らせるためというより、むしろ躓かせるためにあるようにみえる。
(「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」『カフカ全集3』p.29) 

  そんな作者の描く登場人物たちは、だからことごとく「地面すれすれに張られた一本の綱」に躓いているように見える。そのせいで、そのたびに放たれる「こんな事なら昨日シコらずにソープ行けば良かった」とか「平和だなあ」とかいう言葉が、働くことなんかよりよっぽど「真実」だったり「人生」だったりするように思えるのだった。

 それさえも結局はギャグで片付けられていくところに作者の凄味と本意を感じてきただけに、連載を終えるマンガの常ではあるけれど、「たかい空中」にある「真実の道」を見上げるような形で、不干渉が人のやさしさにすり替わってしまうような形で、志半ばで終わらざるを得なかったことは、とても残念だ。
 どんどんよくなる君のマンガを見ていたかったと安西先生のように思うし、何より、そうなっていくたかたけしの中に、「たか」としか言えないあのわからなさがどう残されていくのか、本当に見たかったと思うから。

 

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 

契れないひと(2) (ヤンマガKCスペシャル)

契れないひと(2) (ヤンマガKCスペシャル)