『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』新発売!

ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ|国書刊行会 

『最高の任務』で第162回芥川賞候補となった現代文学の新星、乗代雄介がデビュー前から15年以上にわたって書き継いできたブログを著者自選・全面改稿のうえ書籍化。
 総数約600編に及ぶ掌編創作群より67編を精選した『創作』、先人たちの言葉を供に、芸術と文学をめぐる思索の旅路を行く長編エッセイ『ワインディング・ノート』に書き下ろし小説『虫麻呂雑記』(140枚)を併録。

 

 母親は単身赴任の父親のところに泊まりに行ったから、家には誰もいない。明日は日曜で学校もないし、ぼくは徹夜して、窓の外がほんの少しだけ白んできた朝方になってもブログを書きながら、録画した「サイボーグ魂」を見ていた。すると、どこからともなく音楽が聞こえてきた。


The Kinks - Mick Avory's Underpants

 後ろを振り返ると、男が一人、土足で立っていた。その足下では、貫禄ある長い中国髭を生やした裸の年配の男たちが一心不乱にシックスナインをしていた。
「シックスナイン!?」とぼくは叫んだ。「ちょっと、何して……!」
 それでも一向に互いのお口ピストンのアクセルはゆるまらない。滴り落ちるよだれや汗や何かがフローリングを汚すのを、黙って見ていることしかできなかった。近寄りたくないから。
「そろそろ説明を始めてもいいかな?」と男が言った。
 今すぐにでも出ていけと叫びたいところだけど、静かにうなずいた。説明は欲しかった。不安だから。
「そうだな」男は言い、僕に委ねるように軽く手を広げた。「何から説明しようか」
 確かに、何から聞けばいいのだろう。
 男は何者なのか、どうやってここに来たのか、シックスナインしている男たちは誰なのか、なぜシックスナインしているのか、なぜやめないのか、気持ちいいからやっているのか、ゲイなのかバイなのか、年は離れていて一人は老人だけどどういう関係なのか、シックスナインという名前はどこの誰が考えたのか。
「1790年のフランスで出版された『娼婦達のカテキズム』という本が、今まで確認されている最古の記述だそうだよ」
「へぇ……」とぼくは感心した後で、寒気がした。「今、ぼくは一言も喋ってないのに……どうしてわかったんですか?」
「その質問といっしょに、今きみが思い浮かべた他の質問にもまとめて答えよう。時間は限られているからね」
 ぼくは固唾をのんで男の顔を見つめた。足がふるえる。どうやら、とんでもないことが起こっているようだ。
「まず、私は未来から来た34才のきみだ。18年後のきみだ」
「え!?」
「そして、彼らは気功の達人だ」
「ええ!? 気功の達人がなぜシックスナインを?」
「気功の達人だってシックスナインぐらいするが、それとは別に理由がある」
 そう言うと、男はシックスナインの傍らにしゃがみこんだ。
ポテチ光秀のマンガで、シックスナインをしている気功の達人たちの体の隙間に高速で突入すると、二つの体を循環する気の流れ――」そこで男たちの体を回る楕円上の気の流れを指で示した。「との摩訶不潔な作用でタイムスリップができるという話がある」
「あるんですか」
「ある。これは、ポテチ光秀のそれだ」
「ポテチ光秀のそれ……」
「バック・トゥー・ザ・フューチャーでいうと、デロリアンが気功の達人で、雷が気のエネルギー、そこに飛び込んだ私がマーティーというわけだ。そして、彼らがシックスナインをやめないのは、一度やめると気の立ち上がりに時間がかかるので、いっそ泥のようにやり続けるという方法を選んだからで、決して気持ちよさを目的にしているわけではない。彼らはこれが気功の探究の一助になると確信して協力してくれた。逆に、それぐらいの求道者でなければ、これほどの気を生み出すことは不可能なんだ。そこらへんの奴らみたいに欲求を満たしながらぬるぬる道を進んで食っていけたら万歳なんてことは毛ほども思わずなんでもやる、そういう人間になりたいものだね」
 男の話を信じざるを得なかったのは、ぼくが心に抱いた疑問を全て把握していたからだ。この男も、16才の時に未来の自分の来訪を受けて、今のぼくの立場で同じことを考えたことがあるのだ。というか、それが全部、ぼくなんだ。
「それで、どうして過去に来たんですか」
「きみは今、ブログの更新をしていたところだね?」
「はい」
「そのブログは2020年、34才の時に書籍化される。国書刊行会から7月17日頃刊行、予約受付中だ」
「ええ! すごいや!」
「装画はポテチ光秀が描いてくれたよ」
「え、さっきの……」
「とにかく、きみはなかなかよくがんばったと思う。しかしだ」
 男は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべ、首を横に振った。
「きみは、本の帯文を松本人志に書いてもらうのはどうかと編集者と盛り上がって正式に打診するが、面識がないからという理由で断られることになる」
「なんてまっとうな理由なんだ……!」
 男は口を結んで小さくうなずいた。認めざるを得ないという感じだった。終わりの見えないシックスナインを一瞥して、再び僕を見た。
「だから、君には、なんとしても松本人志と面識を作ってもらいたい。今のうちに」
 呆気にとられているぼくに、男は続けた。
「面識がないから断られたということは、面識があれば帯文を書いてもらえるはずだろ?」
 そうか? とぼくは思った。体よく断られるだけなんじゃないか? でも、いつの間にか血走ってきている男の目を見ていたら、そんな口を挟むことはできなかった。
「そうと決まったら、早速行くぞ!」と手を引っ張る。「ついて来い!」
「ぼく、『サイボーグ魂』見てたんですけど……」
「いいんだ、そんなもんは!」
「そんなもんって……松っちゃんの番組……」
「最終的にアマチュア女子の総合格闘技の番組になるんだよ!」吐き捨てるように言った男の目に、もう白い部分はどこにもなかった。「水野裕子とかの!」
「えっ……!」
「それでも見たが……あとお前アレだぞ、松っちゃん、結婚してムキムキの金髪になるからな」
「噓だ!」ぼくは反射的に叫んでいた。「未来人だからって勝手なこと言うなよ、わからないと思って! 松っちゃんが結婚してムキムキの金髪になるわけないだろ!」
 男はぼくの怒声に面食らったようだった。それから少しずつ、目の色が白くなっていった。すっかり元に戻る頃、何か自分の過ちに気づいたように悲しげな表情を浮かべ、ぼくをまっすぐな目で見つめた。
「きみは全てが終わったあと、気功の力でわずかに胡麻に似た成分が足された達人二人の唾液や汗や何かを牛乳に溶かして人肌程度に温めて飲むことで、今日のことはきれいさっぱり忘れてしまう」
「え……?」そんな……。
「その後、今日知りかけた一つ一つのことを、生きるうちに本当の意味で知っていくことになる。うれしいことも、悲しいことも」
 本当なんだとぼくは思った。松本人志、金髪でムキムキになるんだ、もしかして映画撮ってワイドショー出て、とんねるずと共演とかするんじゃ……。ぼくは黙り込んでしまった。
「ただ、その未来人ってやつの立場から言わせてもらえば、それはなかなか乙なものだったよ。生きてりゃ同じ人間のままじゃいられないけど、それでも変わらないものが、その人間の価値を決めるんだ。君だってそうさ」
「じゃあ……」ぼくはそれ以上言わなかった。がんばろうと思えた。
「さあ、松本人志と面識を作りに行こうじゃないか」
「はい!」
 いつの間にか、外はすっかり明るくなって、音楽もやんでいた。ぼくの部屋のフローリングは達人たちの唾液や汗でべちゃべちゃだけど、もう気にならなかった。
「そういえば、まだ答えていない質問があったね」
 男は僕の肩に優しく手を置いた。
「バイで、親子だ」
「親子!?」

  

ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2020/07/18
  • メディア: 単行本