ワインディング・ノート12(スタージョン・先生の手紙・パクり)

 もしかしたら、どこを開いても引用まみれのこの文章を読んでいる人は、こんなことを思うかも知れない。
「こいつは自分の頭で考えられないのだろうか? どうして全て他人の言葉を借りて済まそうとするのだろうか?」
 でも、果たしてこれはそういうことなのでしょうか。
 ここから文体が変わります。飽きてきたのと、「意見の述べられた調子」の効果を低減するためです。つまり、僕はこれから穏やかでないことも言う予定です、わからないけど。
 言語が恣意的であり、それに縛られていると思い知ることが、「全世界を異郷に思う」条件の一つである、みたいなことを前に書きました。
 人は、多くの場合、どこかで聞いたような意見を言い、どこかで読んだような小説やマンガを書きます。そのとき、オリジナリティ(と自覚されているもの)がどこにあるかと言えば、たいていの場合、「それを、なにはともあれ自分で書いた」という事実の存在にその多くを頼んでいるのです。ちょうど、レゴのキットを買ってもらった少年が、見本通りにオバケの棲んでいる城を作り上げ、それを「自分の作品」と思ってほれぼれ眺め、背の低い本棚の上に飾るような具合です。
 だから、小説でもマンガでも、何か自分で作ろうという人の90%が、畢竟カスになります。シオドア・スタージョンはこう言いました。

私はスタージョンの黙示を繰り返す。これは、私が20年というもの、SFを人々の攻撃からひぃひぃ言って守ってきた経験から絞り出されたものである。奴ら(訳注:SFを攻撃する人々)はこの分野における最低の作例を引っ張り出しては叩き、SFの90%はカスだと結論付けた。
(『Venture Science Fiction』誌 1958年3月号)

 

 やさしいやさしいスタージョンは、90%がカスだからといってSFというジャンルを叩くなと主張します。それなら、全てのものの90%はカスなのだからと。なのに、どうして90%のクズから例を引っ張り出してきてSFはカスだと叩くのかと。
 これが、人口に膾炙されている形とちがって、スタージョン自身がはっきりと明言せず「黙示」と言うのは、先のニーチェの言ったことをスタージョンがわかっているからでしょう。
 人はみなカスなんて呼ばれたくない。では、カスでないためにはどうしたらいいのでしょうか。
 それは、僕が考えるかぎり、その出典を、引用元を、参考文献を、いいね、パクろうとちょっとでも思ったものを、限りなく意識することなのです。

 この文章を書くにあたり、僕は引用を抑えることもできました。簡単です。それを読んでないことにすればいいだけなので。この、アクセス解析を見るに母集団の300から少なく見積もって1日30人ぐらいがちゃんと読んでいるのではないか、と思われるブログですが、この30人が読んでいないと確信できる本の些細な一文も僕はいっぱい引き写しており、そこに書いてあることであれば、引用という形ではなく、自分の意見ということにして、なんなら文章もちょっと変えて、さりげなく差し出すことは、その失礼千万さとは裏腹に、異常に簡単なことなのです。指摘されても、「なんせ5年前に読んだから、忘れてるだけなんですよ…いやはや……」と後で言い訳することもできますし、「まったく同じことを考えてた人がいるなんてスゴ、スゴッ!」とすっとぼけることも大いに可能です。
 厄介なのは、むしろその方が「作家」としての能力をアピールするためには都合がいいのです。なぜなら、読者はサリンジャーが言うように、成熟していない者も多分に含むのですから。
 そして、大学の頃、僕はまさに失礼千万であり、「作家」としての能力をアピールすることの方に重きを置いていたのでしょう。その分、その文章は、隠蔽した凄味が自分の力の方に上積みされて、実に魅力的に映ったはずです。
 先生にもう一度登場してもらいましょう。

 あなたの文章を読むたびに「めまい」がします。私が好きな江戸時代の画家に伊藤若冲という人と曽我蕭白という人がいます。若冲の描く樹木は、上から、下から、空中から、同時に眺めているようで、その枝はこちらの空間に突き出し、あちら側にも突き抜けます。蕭白の獅子は、走りながら空中を落ちていて、それを見あげながら、同時に、見下げているのです。遠近法のもくろみのように、「私はここにいる」という定点を自分に見出すことはできません。だからめまいがします。
 あなたの文章は読む者の定点を揺らがせるのです。そして次に、思考の渦に投げ込む。


 僕の文章が「めまい」を引き起こしたのだとすれば、それは、僕がその頃から大量にため込んでいた引用を惜しげも無く投下し、それでいてその爆弾が手製のものであるかのように振る舞っていたからです。パクっていたからです。不届き物を叱ることもできない偉人たちのおかげで、僕の文章の視点は増殖し、交錯していきましたし、文体を模倣することも不得意ではありませんでした。
 なにぶんいちばん厄介なのは、他人の言葉で語るという恐ろしさをはっきりと自覚していないので、その振りがかなり大振りなことです。これはもう「パワー型池沼」と大差ないではありませんか。若冲蕭白と比べるなんて、とんでもない話です。

 

 

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