ワインディング・ノート13(作家倫理・福満しげゆき・手塚治虫)

 僕が当時漠として抱えていた「不快」は、この一点に存していたのかもしれません。
 つまり、なぜこんな風に書くことしかできないのか。それが認められてしまうのか。
 おそらく僕をいちばん苦しめていたのは、先生に引用と模倣と隠蔽だらけの文章を見抜く力がなかったとかそういうことではなく、それを見抜く術自体が、はっきり言って「ない」ということかもしれません。誰も、他我をわかることなどできないのです。
 全ての影響を隠蔽すればいくらでも可能だということ。影響に気づきもせず、まかり通って、それが「個性」と呼ばれるこの社会が、どうにも居心地が悪かったのです。

 自分が受けた影響を細部まで自覚するかしないか、それをわからせるようにするかしないかは、人それぞれの倫理のみに寄りかかっているといえるのではないでしょうか。
 そして、倫理だからこそ、自覚しなきゃ罪というものでもないのです。
 そして2014年師走の僕は、これまで上げてきた人々の力を借りて、それを自覚し隠してはならぬと煩悶する者こそ、作家と呼ばれるのだと確信しています。ノートを見るにつけ、そう思うのです。
 でも、だから不快は和らいで、その代わりに文章ははっきりした色をなくしています。また手紙に戻ってみましょう。

ほめても意味がない。ほめた結果、あなたが「文章で食べられるかも知れない」と思ってしまうことも、恐れています。私はあなたの文章に惚れ込んでいます(そういう表現しか思いつかない)。しかし、その文章やその才能が、出版界で「商品」として売れるかどうかは、別問題なのです。本屋に並んでいるヒドイ本を眺めていれば、商品とはどういうものか、わかると思います。

 
 ほめられた結果、僕は「文章で食べられるかも知れない」とはまったく思いませんでした。思っていたら、それを望んでいたら、先生にかじりつけば何とかなったでしょうから。だってあなた、法政大学の総長ですよ。
 でも、自分の文章が一から十まで他人の言葉で語られていることに、僕は耐えられませんでした。そして、その文章がほぼ最大限の賛辞を与えられたことに、妙な居心地の悪さを感じたのです。
 それを先ほどのような言葉にすることはできませんでした。そのような時に使用すべき言葉は本でたくさん目にしました(個人的には、ショーペンハウエル高橋源一郎が書いていたことがすぐに思い出されます)し、それこそせかせか引用もしていましたが、これが若さというものか、それほど身に沁みなかったのです。言葉というものについて、まだ考えが浅かったのです。

 なるほど、先生の言うとおり、本屋に行けば倫理のない商品が並んでいます。その倫理が書き手側だけに、一方的に課されているのだということを知らない90%の者たちによるものです。彼らの胸の中に、「太っちょのオバサン」はいません。実体ある読者だけが彼らの味方なのです。なんて世の中だ……!
 ごくりとゲボをのみこんで書き続けましょう。マンガもそうです。福満しげゆきがこう言います。(僕はけっして文学バカではない)

手塚治虫クラスのパイオニア的な人間以外は、先人が築き上げてきた土壌があるから「マンガ家」なんていうバカバカしい名前の職業でやっていけるのです。そーいった歴史のある土壌の中で、ある一時代に「天才マンガ家」が1人いれば、30~40人の「その他大勢マンガ家」を喰わせていけるシステムなのであります。その天才にしたって、もちろん「その他大勢マンガ家」も「オレ様に才能があるから、オレの努力と実力で、このポジションに来れたのだ!」なんて思い込んだらイカンのです」
(『僕の小規模なコラム集』)

 
 今のマンガ家なんて、手塚治虫がマンガ映画文学音楽美術医学科学なんかを全部総動員して開墾した肥沃な土壌で作物を育てて遊んでいるに過ぎないのかもしれない。これまで述べたことから考えますと、そういう福満しげゆきの思いは、実に倫理的な態度といえます。というか、福満はここで作家倫理について語っているのです。
 よく、美男美女というのは、全ての人の顔の平均だなんてことがいわれます。手塚治虫という本当のバケモノみたいな人はその平均に限りなく近い存在になるような感じが僕にはするのです。で、後世に現れた有象無象の手塚の子孫にまちがいのない各マンガ家が、目がカワイイ、口が特徴的だよね、足が長いね、短いのが逆にいいねえ、「個性」的だよね、などと褒められたりしているわけです。いや、確かにそれはそうなのですが……読者はともかく、作家自身がそれを受け入れていい気になっていいものでしょうか。それは根本的に恥ずべきものではないか……?

 もちろん、これは文学だってそうです。そうですが、他ジャンルよりも遙かに、たった一人の人間に多くを依って作り上げられた日本のマンガという土壌が、10%、福満しげゆきはもっと厳しく2~3%と見積もってますが、それぐらい少数の作家によって耕されつつも、それ以上に数十年荒れに荒らされながらなお在るというのは、やはりとんでもなくすごいことだなあと僕は思うわけです。それだけマンガという分野に、まだ他の芸術の土壌がつぎこまれていなかっただけかも知れませんが、そうだとしても手塚治虫というのはその土を大量に運び入れたわけですし、ちょっとどう捉えていいかもわからないぐらい破格の存在なのです。だからこそ、それをさかのぼって意識しない作家なんて、倫理的にどうなのかと不遜なことさえ思うわけです。
 これだけいうと、マイナー作家の群れという対抗馬にしがみつき、出ムチをくれて突進してくる人もいるかもしれませんので、今後ちゃんと考えることにします。

 その前に言っておきます。僕はもはや、個性についてこう考えています。
 個性とは、影響の連鎖を断線させて目をつぶった時に、まぶたの裏側に浮かび上がってくる安らかなものである。

 

 

 

僕の小規模なコラム集

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