『鷗外随筆集』千葉俊二 編
昔から、これに入っている「サフラン」が好きで、時々本棚から出して読む。
「これはサフランという草と私との歴史である」という文にまとまる随筆だが、歴史といっても短く、すぐに「これを読んだら、いかに私のサフランについて知っていることが貧弱だか分かるだろう」と続けている。
貧弱といえ、幼少期、蘭医だった父との干したサフランの思い出から、上野の人力車上から花売りの蓆にサフランを見かけ、後に白山下の花屋で買い求めて庭で実際に育ててみるという流れに、鷗外の見識の広さとフットワークの軽さと生活の程度が自ずと現れていて、サフランに限らず、何についてもこのくらいのことを書いてくれるだろうと思わされる。
買い求めた翌年、勢いよく葉を出したところへ水をやってみる鷗外は、こう考える。
鉢の土は袂屑のような塵に掩われているが、その青々とした色を見れば、無情な主人も折々水位遣らずにはいられない。これは目を娯ましめようとする Egoismus であろうか。それとも私なしに外物を愛する Altruismus であろうか。人間のする事の動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く容易には自分にも分からない。それを強いて、烟脂を舐めた蛙が膓をさらけだして洗うように洗い立てをして見たくもない。今私がこの鉢に水を掛けるように、物に手を出せば弥次馬と云う。手を引き込めておれば、独善と云う。残酷と云う。冷澹と云う。それは人の口である。人の口を顧みていると、一本の手の遣所もなくなる。
(p.11~12)
なんとなく、『草枕』の冒頭を思い出すが、その住みにくい人の世で、鷗外はサフランぐらい疎遠なものにもこうしてたまたま接触点があると述べた上で、「物語のモラルはただそれだけである」としている。
1914年3月に雑誌掲載した「サフラン」だから、「雁」の連載を終えた1913年5月から一年と経っていないところだ。下宿に「僕」の嫌いなサバの味噌煮が出たために岡田の散歩についていくこととなって、途中で戯れに雁に石を投げてみたら当たって死んでしまうし、そのために石原まで出てきて雁を服の中に隠して持ち帰ろうと三人くっついて歩き出したせいで、岡田を待ちぶせていたお玉は恋心を伝えることができなかったという話の下のような一節を、「サフラン」の「物語のモラル」と関連付けないのは難しい。
一本の釘から大事件が生ずるように、青魚の煮肴が上条の夕食の饌に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまった。そればかりでは無い。しかしそれより以上の事は雁と云う物語の範囲外にある。
『雁』p.152
鷗外は『雁』のあとで、歴史に材にとった小説を経て史伝に向かっていく。武鑑(大名・旗本などのプロフィールをまとめた江戸時代の『日本タレント名鑑』みたいなもの。主に町人が取引相手の武士の家を判別するための実用目的で毎年発行された)に首っ引きで歴史人物を調べていく中で、自分と同じように医者で官僚で武鑑を集めていた人物、渋江抽斎と出会う。その顛末は『渋江抽斎』自体に書いてある。
抽斎は宋暫の経子を求めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも玩んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横丁の溝板の上で擦れ合った筈である。ここにこの人とわたくしとの間に馴染が生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
(「その六」)
コンタンポランは同時代人という意味だが、同じように「コンタンポランであったなら」という人物を探して回っているようなところがある自分には、鷗外の楽しみと情熱はよくわかる気がする。
それら史伝に世間の評価が伴わなかったのに対して、石川淳なんか「努力のきびしさが婦女幼童の智能に適さない」とかすごいこと言っているが、「人の口を顧みていると、一本の手の遣所もなくなる」んだから仕方ない。逆に、そう思っているからこそ、生きていようが死んでいようが関係なく、親愛することができる。
エレファントカシマシ「歴史」では、「されど凄味のある文章とは裏腹。鷗外の姿はやけに穏やかだった。晩年の鷗外。」と歌われる。
宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。
(p.12)
そうだとすれば「サフラン」のこんな文に書かれたことが基調になって顧みない者同士の袖が擦れ合う喜びをもたらしていたからだろう。なんてことを、サフランライスの黄色を見るたびになんとなく思い辿るのだった。