社長の息子マジックショー

 社長の息子(二階堂)は前に出てくると、吉野家に通い慣れた人のような横柄な態度で教室のみんなを見回した。真ん中あたりに座っているノブヒコは、両肘を突いて不穏な顔。その憎きダブルのスーツをじっと見つめていた。
「社長の息子です。ではマジックショーを始めます」
 先生に促されるようにして拍手が起こり、社長の息子はうんうんと頷き、両手を前に出した。そしてそのまま前に歩いていって、一番前の小島君のところまでやって来た。
「僕が合図をすると、小島はもう動くことが出来なくなります。はいいくよ、ズンズンズンズンズンズンズズン」
 ミスターマリックのテーマを口ずさみながら、社長の息子は片手を内ポケットに突っ込んだ。それからその手を抜くと、机の上にたたきつけた。バシンと大きな音がした。そして、小島君は動かなくなった。
 いや違う、小島君の右手だけがまだ動いている。ノブヒコを含むクラスの何人かが、小島君の右手と二つにたたんだ一万円札が、一緒になってポケットにすべりこんでいくのを目撃した。
「ジャンジャジャーン」
 社長の息子は、拳を握った両手をあげて少し横に引く動きで、一つ目のマジックが見事成功したことを示した。また先生をはじめとして、拍手が起こった。
「小島ぁ、マジかよ。お前本当に動けないのかよー!」
 教室の後ろの方から石井の声が飛ぶ。
「う、動けない」
 小島君は言った。
「す、すげーな!」
 石井はそこで初めて大きな拍手をした。
「じゃあ次、その石井君いっちゃおうかな」
「まじで!」
 社長の息子は石井の方にずんずん歩いていく。ノブヒコは社長の息子が横にきた時、すっころばしてやろうと足を出した。社長の息子はそれをまたいだところで、ノブヒコの方に首を回した。社長の息子は小さい声で言った。
「よしてよ。亀山君」
「嘘つきめ」
 社長の息子は何も言わず、そのまま歩いていった。唇を真一文字に結んだノブヒコのことを、隣の的場さんが心配そうに見つめている。その視線に気づくと、ノブヒコはこんな時でも少しドギマギしてしまうのだった。
「石井君、じゃあいくよ」
 みんなに背を向けるような場所に立つと、社長の息子は石井に語りかけた。その時、石井の「えっこんなに」という小さい声が、また何人かに聞こえた。
「石井君は、ひっくりかえったカブトムシになる!」
 石井の声をかき消すように、社長の息子は大声を出した。みんな、マジックを見ようと、椅子の上に膝で立った。
「ズンズンズンズンズンズズン」
「う、うわー!」
 石井はそのまま椅子ごと倒れてひっくり返った。そして、勢いそのまま椅子から放り出されると、床に仰向けに寝転がり、肘と膝を内側に曲げて、一斉に上下へ動かし始めた。
「起こしてくれー。お願いだー」
 感心するような声がところどころから上がった。「トリックだ」が口癖の石井が、ここまでどっぷりマジックにかかってしまうとは思わなかったのだ。
 ノブヒコだけは、その様子を見ずに、座って前を向いていた。しかし、拍手が起こり始めると、怒りに任せて立ち上がった。一瞬にして静まった教室を、ノブヒコは石井のところまで歩いていった。社長の息子は、それを避けるように石井のそばを離れた。
「嘘だろ石井君! おいてめえ石井!」
 ノブヒコは石井の頭のそばに立ち、のぞきこんで声をかけた。
「か、亀山ー。お願いだ起こしてくれー。俺はカブトムシだー」
「まだ言ってんのかよ!」
「樹液」
 それから石井は黙った。
「みんなこっちに注目!」パン、パン!
 社長の息子の声と手を叩く音で、ノブヒコも、みんなもそっちへ振り返った。石井がひっくり返っているちょうど対角線上の席、その机の上で、花形君がビートたけしのギャグ、コマネチの動きを繰り返していた。
「やばい。止まらないよ。コマネチが止まらないんだ。よせよ二階堂君、ほんとによせって!二階堂!」
「花形君……学級委員長の君まで」
 ノブヒコは立ち尽くした。コマネチを見てこんなに沈んだ気分になってしまうなんて初めてだった。花形君は視線を逸らして斜めに俯いたが、コマネチは決して止まらなかった。
「みんな、本当にこれでいいのかよ」
 ノブヒコはみんなを見回してから、足元でカブトムシになっている石井を見下ろした。手と足はまだ動いていた。
「先生、こんなこと、許されるんですか」
 小川先生は女の先生でまだ二十代と若く、生徒にからかわれてしまうタイプだった。カーディガンの一番上のボタンをいじりながら、小川先生は二歩、前に出た。
「あのねえ、亀山君。なんでも疑ってかかるのは先生、よくないと思う。心の目で物事を見るように、4月に約束したはずね」
 ノブヒコは黙り込んだ。
「二階堂君のマジック、凄いと思わない?どうしてそんな態度を取るの。先生は、飼育係をしている時の亀山君の目がキラキラ輝いて、大好きなんだけどな」
「そんなこと今関係ないだろ!」
 ノブヒコは先生に近づいていった。すると、先生の動きが止まった。いや、少しだけ動いている。
「亀山君、先生、動けないわ」
 先生は震えながら、なんとか社長の息子、二階堂の方を見て、そっちに向けて手を出した。
「やめなさい、二階堂君、先生にマジックをかけるのはやめなさい」
 社長の息子はその瞬間、サッと先生に向けて手をかざした。
 ノブヒコは、川を渡ろうとしたら仲間がワニに食べられた草食動物のような悲しげな目になって、そこで立ち止まった。そして言った。
「先生、一つだけ聞かせてください。先生はどうして小学校の先生になろうと思ったんですか」
 ノブヒコが言い終わらないうちに、先生は、今完全に動くことも喋ることも出来なくなった、とでも言うように、やや下を向き、目を見開いたまま、ロボットダンスのような体勢で、一切の動きを止めた。
 実を言うと、ノブヒコには、先生の机に茶封筒が置いてあるのはずっと見えていた。ノブヒコは孤独な戦いになることを承知で立ち上がったのだ。
「先生はそのお金で何を買うんですか。まったく、日本の教育は腐りきっている」
 そこまで言っても先生は、大人の本気のパントマイムを続けていた。
 そして、ノブヒコは席に戻っていった。全身の力が抜けたような気がして、このあとの給食当番がだるかった。
「ていうか、マジックじゃなくて超能力か催眠術じゃないか」
 ノブヒコは、机の端におでこだけを乗せ、頭を腕で囲い、床をじっと見ることで5年2組の全てをシャットダウンした。そして、自分だけの世界へ帰っていった。その世界では、ノブヒコの大好きな恐竜たちが全員うつむいて歩いていた。今、ノブヒコの心はかつてないほどやさぐれていた。
 いつの間にか、社長の息子が近寄ってきていたらしく、すぐ近くで声が聞こえた。
「僕の家の会社は既に上場している。ウサギだ。的場さんはウサギになります。ズンズンズンズンズンズズン」
 少しして、ノブヒコは隣でがたがたと椅子が動く音を聞いた。
 的場さんは、ノブヒコからはそれが見えないが、頭の上にウサ耳代わりの手をつけており、その左手(左耳)から今もらった三万円がはみ出している。ノブヒコに見えるのは的場さんの腰から下だけだった。
 最初のウサギ跳びで、机の横にかかっていたノブヒコの道具袋が的場さんの足に引っかかった。道具袋がもっていかれるのがノブヒコにも見えた。的場さんは気にする様子も無い。
「ピョンッ」
 ウサギを演じられているかどうか不安になったのか、的場さんはそう言うと同時にもう一度跳んだ。ノブヒコの道具袋が勢いよく戻ってきて机の足にぶつかり、ガチャンと大きな音がした。
 わからない、わからないけど、とうとうノブヒコの目から涙がこぼれた。