パンツの潮騒さようなら

「今日思ったけどさ、やっぱり女子のスカートが短くなってきてるよ」
「太陽に誘われて上へ上へと伸びてきた生足がスカートの中で風通し良く可憐な花を咲かせる最良の季節の訪れだな。よかったな。松波、ホントによかったな」
「なんだよその言い方は。うるさいな」
 お昼休み。プールの裏の植え込みの後ろで磯貝くんと松波くんはお母さんが作ってくれたお弁当を食べては校舎から体育館に続く、ガラスと格子に囲まれた渡り階段を見上げていた。
 その時、まさにそこのあたりからまとまった足音が聞こえた。
「あっ」と松波くんが声を出す。
「ダメだ。強いぞ」と磯貝くんはお弁当に視線を下ろした。
 その通りに男子が一人駆け抜け、それから四人ほどが追いかけていった。全員、上半身はビビッドなTシャツという出で立ちで、制服の裾をまくっている者もいた。
「なんだよ、アイツらいつもいつも紛らわしいことしやがって。お昼にわざわざバスケなんかしてアタマ悪いよ。見せつけるようにあんなカッコしてバッカ糞くそしい、湯沢も取り締まれよ」
「そのバッカ糞くそくそしい連中に松波は何度だまされたら気が済むんだ? 毎回毎回、バカの一つ覚えのように口を開けて見上げちゃってみっともない」
「それで逃したらもったいないからそれでいいんだよ。一回、ミスるだけで取り返しがつかないんだから、こういうことは。オレはそう思うな」
 2階から3階にあたるその階段は、昼ごはんを食べ終えた生徒が体育館へ遊びに行くときに通る場所だったが、99%は男子で、なかなか女子は通らなかった。二人はクラスが別になってしまった1年2ヶ月前からここでお弁当を食べるようになった。
「たった一つ問題があるとすれば、首が凝ることだなあ」と松波くんは首を回した。パキと甲高い音が鳴った。
「どこも凝らないノゾキ行為などないぞ」
「確かに…」と松波くんは感心してウインナーを見つめた。「あ、今日コーラおごれよ」赤いから思い出した。
「むっ?」
「むっじゃねーよ。昨日約束したじゃん。すぐ忘れるなお前は!」
「お前は今までに見たパンツのシオサイを覚えているか?」
 やった、ジョジョだっ、と松波くんは小さな声で言った。
「2年4組 小島宏美 アクアティント#c3fff5。3年1組、久高友子、ベージュカメオ#eee9e6にアクアティント#c3fff5の縁取り。1年2組 賈秀園 パウダーピンク#ffd9e3」
「え、覚えてんのかよ色コードまで……普通じゃないぞ」
「松波がパンツの色を気にするから覚えてんだぞ」
「そのオレがわからないのによぉやるなぁ。アクアティントってどんな色?」
「松波にわかるように言うと、プールのお水とか南の島の海とか、お空みたいな色にすごく似ているな」
「水色ぐらいは大丈夫なんだけど。あ、だからアクアなのか」と松波くんはうんうん頷いた。
 その時、磯貝くんが何かに気づき、顔をみるみる青ざめさせた。
「ど、どうした…? 顔がアクアティントに……」
「さっきのクラスは全て在籍時のものだが、今のクラスも言った方がよかったか…?」磯貝くんは心配そうに言った。「すまない」
「そこまで求めてないからいいよ別に、そんなの!」
「久高友子はニシ高で成績が落ちて、この中学の同級生だったワルの連中と付き合うようになって、この前なんか原動機付き自転車の2人乗りと信号無視3回で補導されたらしいぞ」
 松波くんの顔がくもった。「ね、な、なんで知ってるんだよ、そんなこと。久高先輩のことなんて」
「オレは松波の知りたいことなんでも知ってるぞ」
「そ、そうか」
 2人はしばらく黙々とお弁当を食べた。とつぜん、磯貝くんが言った。
「久高友子が好きだったことも知ってるぞ」
「げ、げ、げ」松波くんは顔を真っ赤にして、食べかけていた卵焼きを弁当箱に戻した。「なんで」
「オレはなんでも知ってるぞ」そして口だけでニカと笑った。「友だちだからな」
「オレは磯貝のことなんにもわかんないけどな。約束を守らないことぐらいは知ってる」と松波くんは言った。「まあ、友だちだとは思うけど」
 松波くんは腕にはまっている傍から見るとすごくダサいデジタル腕時計を見た。お弁当は半分ほど残っているのに、昼休みはあと10分になっていた。
「早く食べないとっていうか、今日もダメそうだなあ。1年以上見上げて3人だけか……」と松波くんはため息をついた。「もっと、もっと見たいなあ」
「松波はもっともっとパンツが見たいか?」
「そりゃあ見たいよ。磯貝だって見たいだろ。ここを見っけたのも磯貝じゃないか。スケベ」
「オレは松波がパンツを安心安全に見たいと言うからここを探し当てただけだ」
「調子いいこと言うなあ」
「それで、好きな久高友子のパンツを見せてやったじゃないか」
「そうだけど、そりゃ偶然だろ」
「偶然じゃないぞ」磯貝くんは背筋を伸ばして首だけねじった体勢で、松波くんをじっと見た。「松波はパンツが見たくてここに来てるか?」
「そりゃあ、そうだよ」と松波くんは口をとがらせた。
「なるほどな」と言って、磯貝くんは立ち上がった。「ちょっと待ってるんだぞ」
「え? ああ」
 磯貝くんは手をまっすぐ振ってずんずん校舎に入って行った。
 そして1分もしないうちに戻ってきた。落下して。
 松波くんのいる植え込みの反対側に、磯貝くんはモノも言わずに落ちた。バンというすさまじい音と、細かい血しぶきが起こった。地面の揺れが松波くんのお尻に伝わってきた。
「え?」と松波くんは言った。松波くんは磯貝くんがコーラを買ってくるものだとばかり思っていた。
 校舎の窓が次々に開いて、弁当や箸を持ったままの生徒たちが顔を出すのと同時に、松波くんは立ち上がった。校舎の側からすぐに悲鳴が上がった。植え込みのせいで、松波くんからは磯貝くんの死体は見えなかった。
 松波くんは、磯貝くんのお母さんから、警察から、学校の先生から、自殺の原因を訊ねられた。松波くんはわからないと言った。ケンカをしたとか? してません。いじめられてるとか相談はあった? ありません。どうしてあんな所でお弁当を食べていたの? あそこが一番落ち着くから。君もつらいだろうけど、ごめんな。いいえ。
 それから松波くんはクラスの自分の席でひとりお弁当を食べるようになった。時折、顔を上げても見るべきものは時計しかなかった。その上、もう食べ終わりそうなのにまだあと45分もあった。磯貝はぜんぜん約束を守らない、ぜんぜんオレのことを知らないよ、と松波くんは考えた。ごめんごめんごめんごめんと考えて、隠れてぽろぽろ涙をこぼした。
 体育館へ続く階段はよく風が吹くようになった。それを松波くんが知ることはなかった。