勇気一つを友にして

 遠いところにいる人は、私なしでも元気にやってそうでなんだかつらい。かと言って、毎日ふさぎこんでいて欲しくはない。でも、誰に対してもそんな気持ちになれなかったら、心底つらい。
「トラ子、私わかったの。太陽は遠くで燃えているからちょうどいいのよって。近くにいたらクソ暑くてウザくてしょうがない。これ、真理」
 優花はツヤツヤした長い髪の毛をちょっと神経質に引っ張ってそんなことを言うけれど、すぐに内くんの話をするから真理どころか嘘だと思われて、あたしも成層圏とかオゾン層とかそういうのを全部取っ払ってお肌に悪い紫外線でもなんでも直に浴びて溶けてしまいたいと思う、好きな好きな人のそばで。
 そういえば、なんだか優花には余裕がある。とかなんとか言ってるうちに思い出した。
「ねえ優花。イカロスっていたよね」
「むかしギリシャのイカロスは、ってやつ?」
「そう、授業で歌ったよね」
「勇気〜一つを〜ともにし〜て〜」
 私はそんなところ覚えてなかったから、ちょっと言葉に詰まった。出だしのとこしか覚えていない。
「うん。あれってさ、太陽を目指してたの?」
「ああ、だから思い出したんだ。そうでしょ」
 そう言って優花はまた歌い出す。
「太陽〜め〜ざし〜飛んでいく〜」
「じゃあそうなんだね。よくそんなに覚えてるね」
「いいじゃん、遠距離って」
 優花は突然、そんな意地悪をいう。そしてまるで全部わかってるように微笑んでくる。
 でも基本はバカだし何にもわかってないに決まってる。だって遠距離恋愛してるなんて、全部真っ赤なウソだから。なのにどうしてそんな顔ができるのかわからなくて、だから私は優花を友達と思う。



 イカロスの父、ダイダロスは大工職人だった。仕えていたのはミノス王。王妃の生んだ牛の子ミノタウロスを幽閉するために、ミノス王はダイダロスに脱出不可能な迷宮ラビリントスを造らせた。そこでミノタウロスは生け贄を貢がせながら暮らしていたが、志願して生け贄となったアテナイの英雄テーセウスに殺されてしまう。しかし迷宮ラビリントス、そのままではテーセウスは脱出することが出来ない。しかしこの時、テーセウスに迷宮からの脱出方法を教えていた人物がいた。ミノス王の娘アリアドネーだ。アリアドネーはテーセウスに惚れてしまったのだった。それで施工主のダイダロスに迷宮を出る方法を聞いて、テーセウスにこっそり伝えていた。糸玉を持って伸ばして行き、それをたどって帰って来る。脱出方法を教えたことが発覚して、ダイダロスはミノス王の怒りを買い、息子イカロスとともに塔に閉じ込められた。ダイダロスは蝋でかためた翼を二人分作り、息子と共に塔から飛び立つ計画を立てる。いよいよという時、息子に言った。『イカロスよ、空の中くらいの高さを飛ぶのだ。あまり低く飛ぶと霧が翼の邪魔をする。あまり高く飛ぶと、翼が太陽の熱で溶けてしまう。だから空の中頃を飛ぶのだ』イカロスはうなずいた。
 そこまで読んで、私はイカロスの気持ちを思う。才能に溢れ尊敬できるお父様の愛ある忠告を聞きながら、身につけた翼の不思議な重さに既に空の軽みに浮かぼうとする心を思う。
 二人は飛んだ。農夫や羊飼い達は、神々が天をゆくと思いそれを見上げた。イカロスは若さのゆえか、父より高く高く上昇しようとした。イカロスの翼は,ある一時の融解点にどっと溶けて崩れ落ちた。そして墜落した。
 お父さんは見てたのかしらん。きっと見ていたはずだ。
 イカロスは太陽を目指してたってことなのかしら。私に考えさせたらイカロスは私になってしまうし、太陽は王子様になってしまうし、お父さんのことは知らないし。
 この世界から遠く高く舞い上がって、羨ましそうに見上げる人々の顔も見えなくなったら、もう太陽しか見えなくなるに違いない。それは近づくほどに暖かくてまぶしくて目を閉じても、まぶたを透かした光が遮るものがないと知らせてくれる。安心して、どこまでもどこまでもすばらしい。
「空の中頃を」
 無意識に上がった自分の声で我に返ると、夜はもう更けていた。壁が不思議と何か言いたげに、壁紙に閉じ込められた空気がぺくぺく脈打つ音を立てるような時間。
 どんなに太陽のことを考えていても、一人で歯を磨く夜の廊下の足は冷たい。口の中でふくらんだ清涼感の薄れたあぶくを飲んで、何かを深く納得させる。いやな気分にならないと納得したように感じられないから、気づけばいつもイヤなことを探している気がする。



 誰に向かって言うのか、そういえば私の名前を山野虎杖という。イタドリ。春先いっせいに芽を出して、無闇に丈夫な茎をもち、夏場にやたらと生い茂り、ふさふさした花をつけるその植物は、たくましい茎がトラの杖となるそうで、私の名前はなんなんだよと思う。
 トラ子と呼ぶのは優花だけで、他はだいたい山野さん。そんな感じの山野虎杖。
 人間関係の網の中で窮屈しているつもりはないけれど、それでもどれだけ人をやっつけたら、こっそり、きっとどこかにいるはずの、憧れの王子様に会いに行けるのかしら。何もかも捨てて、恋だけさがしに。
 優花には悪いけど、友達にこっそりぐらいは上手くやれる。心は痛むけど、やってみせる。もう高校生。例えば少しゆっくり歩くようになっても、お母さんは目を光らせている。お父さんは一人娘の旅行なんて許しはしない。なら私は大人になろう。かと言って、大人になった私をあの人、好いてくれるかわからない。
 何の解決も出ないまま考え込むのは子供っぽいけど、考え込んでいたら大人になってしまう。しなくてよかったことまで、しなくてはいけないようになってくるし、まがりなりにもやるだろう、それがなんだか悲しくもある。
 いつまでもいつまでも、人形と紙雛さまとを相手にして、ままごとばかりして居たらばさぞかし嬉しき事ならんを、ええイヤイヤ大人に成るはイヤな事、何故このように年をば取る、もう七月十月、一年ももとへ帰りたいに。
 私の選び取ってきた言葉は、私の息を詰まらせる。私の弱さを支える振りして、思い切り弱いままに生かしてやろうと試みてくる。優花とはまるで反対のやり方で私を安定させようとする言葉は苦くて甘い。でも本当は、安定なんてそんなことをしてはいけない。
 くたびれたパンツ一丁で椅子にあぐらなんかをかいているので、かたい椅子でもお尻がじっとり湿ってくる。気にせず、じっと手を見る。開いた指には隙間がある。この指を固く絡ませるなら、好きな人だけに決まってる。でも、指の間の水かきみたいな柔い皮が触れ合って、思いも寄らない本当が伝わるのが怖い。どんなに張り詰めて暮らしていても、そんなところは油断しているだろうから、きっと流れ出してしまうだろう。恐れているそのことを、相手に気づかれてはいけない。決して。



 そんなある日、虎杖は女教師に殴打され、目元に青く黄色く色を変えるような痣をこしらえた。その哀しい顛末を聞くがよい。
 発端は数学の一学期の期末試験であった。
 虎杖はそれほど頭が悪くない。むしろ良い方だ。心配性の面もあって勉強もしないわけでないし、だから親に無用な心配をかけることのない成績を修めている。
 時間も早くに解き終えて、姿勢良く構え時々、眉の濃く、冷たく澄んで大きなる目元を伏せては休めていた。
 すると、隣に座っている野球部のエース、沼田くんの様子がおかしい。とはいえ沼田くんはテストの時はいつもおかしいのだ。十分ほどするとそわそわしだして、特徴のない涼しい顔をきょろきょろさせて、首を回したり、そのうち虎杖の方に頭を寄せる。こちらを見るのは、反対にいる須賀さんが頭脳に不安を抱えているからだ。突っ伏して何か書いている振りをして、隠れた視線は虎杖の手元に向けられている。
 それで虎杖は隠しもしなかった。むしろ見せてやっていた。姿勢を正して前を向き、沼田くんのいる右に寄せて解答用紙を置き、問題用紙を縦に並べて少し重ねる。それから、頃合いを見て、少し解答を直す振りをして、振りではいけないから本当にわざわざ書き直したりして、見やすいところへずらしてやる。沼田くんの方がいつ見たのかはわからないが、間を置いてそそくさと書き始めるのがわかる。
 今日も彼女は同じように、何食わぬ顔で紙を机の脇にちょっと垂らした。それほどわざとらしい手つきでもなかったが、どうあれそんなことをするのだから、彼女の虚栄心はなお働いているに違いない。肝心の所では、見られているとも気づかずぬけぬけと解答を写し取られるボンクラとも思われたくなかった。そちらの気持ちは大分弱いものだったが、沼田くんの大根ぶりも相まって、たまたま目ざとい中年女教師のささくれだった心の返しに引っ掛かった。まあ、もともと嫌われていたかも知れない。
「山野さん」
 しかし、証拠など無いし、彼女はテストの後でそんな風にちょっと不穏に涼しげな声をかけられて、放課後の職員室に呼び出されるだけであった。どうしてそれが殴られることになるのか得心のいかない方もおられようが、ここからが彼女の屈折した心の咎の為せる業である。
「あなた、答案を見られてるの気づいているでしょう」
 奥まった場所に導かれ、虎杖は乱れのない制服ブレザーの前で手を組んで沈黙している。座っている教師の頭頂部が見えて、女性にしては頭皮のはっきり見えるのが気になった。
「悪いのはあなたじゃないのはわかってるけどね」
 虎杖には、なぜ教師が沼田くんを呼ばずに自分を呼ぶのかもわかっている。火のないところに煙は立たないが、火を消すより煙を散らした方がいくらか易い。しかも、沼田くんは学校ぐるみで期待をかけられている野球部の一年生エースなのだ。それでいて、それを受け流して、要はみんなに一目置かれている。モテてだっているらしい。
 そんなことは大いに関係がある。けれどもだから虎杖には関係が無いのだ。
 虎杖は己の定めたルールにいささか強情に従って、何を言われても黙している。心は教師のところには無く宙に浮いているから、時々後ろを通る男性教師が控え目にのぞきこみ、虎杖の古風に整った顔や、凛と張った体のわずかな流線をなぞり見るのもよくわかる。女教師の方でもその両方を感得しているのだろう、なお角が立ってくる。
「聞いてるの?」
 虎杖はうなずいた。
「どうして何も言わないの」
 虎杖はまたうなずく。
「喋りなさい!」
 教師は小声ながら、はっきりと苛立った調子で、虎杖の腕を乱暴につかんだ。刹那、ふいに体を揺すぶられた虎杖の口の端から水がツイと一筋の線になってもれた。
 教師は面食らって手を離し、虎杖も大きく目を見開き、腕で口元をぬぐった。
 ブレザーに弾かれて飛び石のように残ってきらきら輝く水滴と、リノリウムの床に浮かんだ水の玉。それを見比べる教師が視線を上げると、まだ口から顎にかけて水の線を残しながら、ちょうど、ぐびと大きく喉が動いた。
 虎杖の怯えた顔と、わなわなと震える教師の目が合った。
「口に水をふくんでいたの? ずっと?」
 どうしようもなく薄く笑いかけた虎杖のこめかみに、一拍置いて、平手ではなく、固く閉じられ隙間のない握り拳が飛んできた。
 虎杖もか弱き婦女子である。思わず一歩後ろにふらつき、殴打された部位を押さえて痛みにしゃがみこんで涙ぐんでしまった。教師は憤怒の火にあてられ、肩で大きな呼吸を発している。
「大丈夫でしょう。行きなさい」
 教師はあしざまな構えを崩さない。虎杖は立ち上がる拍子にためた涙を落としてしまい、それが口中からこぼした水滴の横に落ちるのを見た。
 そこいらに散った莫迦らしい水の跡がなんだか全て涙に見える。矢も楯もたまらず、殴られた場所に髪をよこして早足で出て行った。
 これは幸いにも他の職員の陰で起きた出来事であり、虎杖は口に水などふくまなくとも沈黙を貫く女らしい強情な心と天賦の個性があり、表立った問題になることはなかった。きっと教師もそれをわかって虎杖を帰したのだろう。
 しかしこの一件は当然二人の間に遺恨を残し、虎杖の心に深い影を落とすこととなった。



 日曜の朝、殺してやりたいと思った。
 野球部一年、沼田よしおは窓の外を黒目がちのアニメキャラみたいな目でにらみつけた。ちょうどスズメが口を開けながら横切ったので、少し追いかけてしまった。
「苦手な先輩を殺したいな……」
 スズメ程度にこの気持ちを乱されるわけにはいかないので、口に出して言ってみる。
 よしおは勉強はできないけど、それは全然できないけど、部活を頑張っているからいいのだ。強豪校の一年エースとして突っ張った実力とド根性。性格は陰湿。苦手な三年生の杉田先輩をぜったいに殺したいと考えている。
 杉田先輩は帰宅部だ。全然関係無い。全然関係無いのに、殺したい。
「どうして僕は、こんなにも、杉田先輩のことを、殺してやりたいほど、憎んでいるのだろうか。喋ったことはあるけど、何かイヤなことをされたわけでもないし、嫉妬でもない。ただ単に苦手な先輩なんだ。僕の苦手な先輩なんだ。無意味に苦手という、これが一番殺したい。改善の余地がないからだ」
 沼田くんは一人きりで、姉が遠方の大学に行く前に作ってくれた朝ご飯をぱくつきながら念入りに言葉を選んで言った。
 ズドン、ストラーイク!
 朝からの鬼のようなシゴキ練習が四時に終わった後でもまだまだ走っている球を野村先輩に投げ込みながら、沼田くんは野村先輩が腕時計を見始める瞬間を気にしている。居残り練習は、手伝ってくれる人以外に見られてはならない。また、手伝ってくれる人に見たいテレビがあれば、礼を言って送り出さなければならない。先輩ならなおさらだ。
 球が沼田くんの手を離れ、ミットに収まるまでにわずかな間に野村先輩が腕時計を見るようになったらおしまいの合図だ。
 チラ、ズドン、ストラーイク!
 一応、ボールが山なりに帰ってくる。
「見たいんですよね先輩、帰ってください」
「すまん、沼田。見たくてな……」
「ええ、わかっています」
「見たい思いがどうしてもな……」
 先輩はユニフォーム姿のまま足早に去っていった。沼田君は先輩が見えなくなるまで深々としたお辞儀を崩さない。しかしその手の中でボールをしきりに握り直していた。
 そして先輩が視界から消えた瞬間、グラウンドの隅に目をやる。壊れて傾いた、筒状のジャムおじさんの形をした綿あめ作り機に向かって振りかぶり、いたずらに力を込めた球を投じた。
 縫い目に私憤のかかった球がまともに飛んでいくはずもなく、球はコック帽をわずかに打ち欠いただけだった。プラスチックの破片が飛んだ。
「どうしてこんなところに、綿あめを作る機械があるんだ」
 掃き捨てるように言ってベンチまで歩きながら、沼田くんは手からグローブを抜いた。そして、いつも指を入れずに外している薬指の革の中から、ひしゃげた煙草とマッチを一本ずつ抜き取った。
 俺は俺だ。だから煙草をすってもいいんだ。
「大体そんなに見たいテレビが、高校生にもなってあるか?」
 煙草に火をつけベンチに腰掛け、さらに寝転がる。
「練習中に腕時計つけやがって」
 腕を枕に横を向いたとき、フェンスの向こうに見える市営野球場の真上だけ空が少し明るいことに気づいた。
 タバコをくわえたまま起き上がり、フェンスにはりついて見ると、明るいばかりか、わずかにピンク色のもやがけぶっていた。何かとてつも、とてつもないことが行われているという心に発した一瞬の迷いが目を背けられぬほどに誇張されていく。
 俺は野球人だ。だから行くんだ。
 沼田くんはそうして自分を納得させ、鼓舞しながらずっしり重いエナメルバッグを担ぎ、燃え尽きそうな煙草をいつも監督が座っているところに押しつけると、朝からネクストバッターズサークルに停めていた自分の自転車に飛び乗った。
 俺は一年生エースだ。だからグラウンドにチャリで乗り付けるんだ。
 沼田くんはこいだ。夕暮れ迫る中、チャリをこぎ何度も登板経験のある市営野球場に向かった。



 球場の門はなぜか閉じられておらず、難なく入ることができた。階段を下りるようにして中に入り、通路を通ってまた上がると、見慣れた広さのグラウンドに出る。
 いざ中に入って見上げると、ピンクの靄は認められない。学校まで戻って確認したくなるほどの妙な未練に、露わになった首もとを撫でる風が落ち着きをはがし取っていくようだ。暮れかけた空では、掏り鉢状になった野球場が外の明かりを遮り、ぐるりと境界線を成した淵に沿って、一面の空よりもぼんやり明るい乳色の光が染み出しているけれど、それが、暗くなるうちだんだん結晶のように伸びてくる。閉じかけた目玉を並べたような照明が当然灯の入ることも無いまま、くっきりと全体のシルエットを浮かべ始める黄昏のひと時だ。
「おい、沼田!」
 突然呼ばれて耳がえぐられる。条件反射で苦手な先輩の声だとわかった。帰宅部の杉田先輩の声だとわかった。
 どこにいるかと思ったら右中間、人間がパネルを入れ替えなければならない方式のスコアボードの上にいた。杉田先輩は「7」を脇に抱えていた。
「よく来たな、沼田。必ず来ると思っていたぞ。何が何だか考える間もなく、貴様には女子マネージャーと手を繋いでもらおう!」
「え、そんなこと……いいんですか!? ふざけているんですか!!」
 沼田くんは言いつつ、その一事に心を奪われた。
 もうやってられないよと言わんばかりにグローブを思いきり、野球部なのに地面に叩き付けてみたが、心の中では、女子マネージャーが登場するのを今か今か、早よ来い、と待っていた。
「でも待って下さい! うちの野球部に女子マネージャーはいないはずだ! 性同一性障害の黒羽根兄弟って双子がマネージャーやってて……あれは一応男子で!」
「この場合、女子マネージャーとはもっと抽象的な存在のことをさすので大丈夫だ。君が求めているものが来るぞ」
「僕が求めているもの……」
 ちょっと恥ずかしいけど、ならよかった……なら、早よ来い……ならば先輩の気が変わらないうちに、早よ来い……。
 しかし、待てど暮らせど女子マネージャーは現れなかった。今にも、先輩が我に返って自分の命令のおかしなことに気づき、待ったをかけるのではないかと気が気でなく、体をゆすぶって四回目の小さな「なんだと」を言い、一応「待ったなし」とつぶやき、そうだグローブをもう一度叩き付けようと拾って両手で持ったところで、ようやく三塁側ベンチにそれらしき影が見えた。
「待ってました」
 つぶやいた沼田くんの声が、野球場のスピーカーにこだました。本当にびっくりした。どういう仕組みだろうか。
「ハーッハッハッハ!」
 先輩の高笑いが聞こえて、顔が燃え上がる。
「くそっ、恥ずかしい」
 そうこうしている間に制服を着て野球帽をかぶった女子マネージャーが近づいて来ているので、沼田くんは黙りこくった。い、今の声、聞かれただろうか…? いや、これだけ大きな音、聞かれたに決まっているけど、彼女それを言い出さないだろうか……。
 女子マネージャーは運動靴を履いているのに、つかつかという感じで寄ってきて、いかにも事務的な感じで沼田くんの隣についた。よろしくの一言もない。待ってましたの件を指摘されないのはありがたかったが、どこか期待を裏切られたような気もした。なぜならバラエティ番組みたいな印象を持ってしまったから。
 自分の言葉にインスピレーションを受けて地面を見ると、ピンク色の石灰で『女子マネ』とバミられている。そこに小さな靴がぴったり、ちょこなんとおさまっている。もっと自然な感じで出来ないものか。こんなこと敦賀の叔父さんは信じないだろう。そもそも敦賀の叔父さんには会いたくもない。
「さあ、手を繋ぐんだ! しかも街角の恋人達がするように、指と指を絡ませて!」
 苦手な先輩の声が降ってきた。ステキな命令をきっと沼田くんが断らないことも承知しているのだろう。
「聞いてた? よろしくね」
 彼女は沼田くんに一瞥もくれないで、まっすぐ前を見て言った。さっきはあれほど言って欲しかったよろしくの一言も、そんな態度も相まって、一拍遅れた今では輝きを失っていた。にしても何故だろう。何故、女子マネージャーは何にもしねえくせに制服に野球帽をかぶるのだろう……? 一体感というまやかしが二回戦に散っても不安は無いのだろうか。ひどく問題にしたくなる。嫌味と皮肉と乾いた心情が、そのかさぶたを無理に剥がさせようと自らその端を持ち上げて誘いかけてくる。
 沼田くんは対抗意識を燃やしてろくすっぽ答えもせず、自分より背が低い彼女の頭を見下ろした。しかし、そこにばっちり釘付けになってしまった。
 野球帽から一枚の縮緬となった緑の黒髪が野球帽の縁を一斉にくぐり抜けている。まったく常識外れに整然と鮮やかな列をなしているが、女の髪というのは莫迦じゃないだろうか。きれいなお姉さんが一流の訓練を受けて作った隊列を上空から見上げたらまさにこんな感じだと思わせてくれる。あと十年は安心だと、そんなことを思わせてくれる。
「よろしくって言ってるの」
「よろしこ」
 ふいをつかれて木村拓哉が出てしまった。よりによって、ここで僕の十八番、木村拓哉が。なんてところで木村拓哉が出るんだ。ここで出るか? ふだんは家で家族でテレビ見てる時しかやらないくせに。しかも姉ちゃんがいる時だけやるくせに。
 バカタレ、恥ずかしさにえぐり尽くされそうな心から遠ざかろうとして、すっかり日が暮れかけてきたことに気がついた。見上げればちょうど、赤みを帯びた乳白色の空にラベンダーを燻した煙のように紫立って掠れた雲が散って消えかける瞬間だった。このように巡り変わる空に、ピンクのもやも消えてしまったのだろう。
 キムタクから数秒、女子マネージャーは今さら何にも言わずにちょっと笑っているのだろうか、細い肩が動いて、ふいにグラウンドに漂っていたものとは違う空気が香ってくる。何のにおいもしないが沼田くんの鼻が押し切られたように確実に微笑んでしまう。空気中に最も多く含まれている窒素が女性特有のフェロモンと結合し、無香の香にドキドキしてしまうという未知の研究成果だろうか。
「くそっ、う、うれしい」
 帽子の庇のせいで、あと全然こっちを見てくれないせいで頬と顎しか見えないけれど、この女子マネージャーはとびきりの美人だと沼田くんは思った。そんな人にウケたらうれしい、たのしい、大好きになるだろう。どこの誰でも、男ならそう思わないか…?
 こんな人と、罰ゲーム的なこととは言え手をつなげるとは、今日の朝に家を出るときは全然思わなかった。もっと、辛い練習、砂を噛むような出来事や、おばあちゃんの家で全然甘くない自家製のスイカを紙袋で持ち帰るよう言われた時のような途方もない労苦の惨憺たる気配を感じていた。僕は精神病だ。砂糖漬けの虎だ。
「五秒前!」
 苦手な先輩の声。今なら不思議と、あまり苦手な感じは感じません、そんな気がするっす。本当にありがとうございます。
 緊張に任せて手を開いたり閉じたりする。無意識に、指一本分の隙間を空けていることに気づく。
「四秒前!」
 女子マネージャーはまっすぐ前を見ている。それは覚悟か諦めかどちらにしろ興奮だ。
 その瞬間、手を握らんと間隔をとった手の形が人間にとって凄く自然な形であることに気づく。
「三秒前!」
 きっと指は二十本ではいけなかったし、四本では少なく、六本では多かった。人類は猿の時分、その毛むくじゃらの手で主に木々をつかんでいた頃、進化の分岐点でこのときめきを嗅ぎつけ予感していたのだろう。定めし人は恋人繋ぎをするために生まれてきたのだ。毛もグッと減らして。
「……」
 二秒と一秒はどうやら言わないらしい。本当にテレビ収録みたいだ。
 とても静かな瞬間。高まるコンセントレーション。安田大サーカス団長をはじめとして、全ての芸人がゼロの瞬間を待望し、勘で喋り始める前の静寂……。
 それがどこまで迫っていたのか最早わからないが、女子マネージャーの手がふらりと長い振り子のようにやって来て沼田くんの手に触れて一度戻った。同時にどこからか発生した静かで弱い電流に柔らかく刺激され、沼田くんの指が全体に軽く曲がり、なだらかな膨らみにふいに置かれたような形を作る。それはきっと、女性の身体のどこに手のひらをあてても作られる形なのだろう。その間も手のひらを陽炎のように燻っている気配はやはり幻でなく、すぐにそれが現実として触覚を刺激する。親指以外の四つの指、第二関節から根元にかけて弛緩した肉に何かが同時に触れる。その前触れの一瞬後で急に、突然に、指先が、確信を持って五本の指の四つの股にもぐり込んでくる。隙間無く収まると思われた空間はやや狭く、両側から肉をあえかに圧し、また圧されながら徐々に埋められてゆく。指には股が、股には指が満たされるその様を誰ひとり見ていない。爪という機能的な存在など忘れて全てやわらかな印象で事は運び、ふたをするように密着した手の腹が暖かな空気を閉じ込める。二人の手が生まれてこの方持ち合わせていた隙間がすばらしく無駄のない手順で埋まった頃には、もうそれは別の感触に、別の歓びになっている。
「くそっ、し、幸せだ」
 この右手から、どろどろに溶けていきそうに幸せだ。全身が温かい鼻水になったようだ。いや、本当にそうだろうか…。鼻水はあんまりだ……。
「沼田!」
 しかしまだ彼女の身体にゃ隙間がある。偶然でないと思うが、今握り合った手の真っ直ぐ横に……。暗く乾いて明るく湿ると噂だ。そこを埋めにかかるのが男の仕事だろう。
「やい、一年エースの沼田!」
「え?」
「聞こえないフリしやがって。調子いいんだから。エッチな顔して」
「なんですか先輩! 沼田です! 一年生エースの沼田です! エッチな顔はしていません!」
「お前、俺を、殺そうとしてるでしょ!!」
「え!?」
「お前はぁ、俺にぃ、殺意を抱いているでしょ!」
 沼田くんは呆気にとられてしまったが、女子マネージャーと手をつないでいるので何となく不思議な余裕を持って受け入れていた。バレたか、程度の気持ちだった。その上で思考を巡らせ始めた。
 いや、今朝そんなことを思ったのは本当だけど、でも、なぜその気持ちがわかったんだろうか。僕は先輩への殺意なんておくびにも出さない生活を送っていたはずだ。先輩がそれに気付くのは相当面倒で小賢しい計算を何度もくぐり抜けなければならないはずだ。そんなことが傲慢でがさつなあの先輩に出来るはずがない。
「簡単よ」と女子マネージャー。
「え?」
「今、私たちは手をつないでいるのよ? 何でもわかってしまうわ」
「わからない」
「手をつないでおいて、自分の気持ちがバレてないなんて虫のいいこと思ってるの?」
 言われているのに、絡めた右手を離すことができない。ずっとこうしていたいって言うか、完全にくっついている。そういえばまるっきり皮膚も肉も血管も全部つながって、自分の血液が相手の腕へそれから心臓へ、拍動を同期させながら流れ込んで体中に染み渡るようではないか。彼女が言っているのはそういうことだろう。
「手をつなぐってそういうことよ」
「でもおかしいな。僕には、君の考えてることが何にもわからないぞ。君の言うことが本当なら、こんなの不公平じゃないか」
「そんなだから、モテないのよ」
 沼田くんは両耳の後ろの髪の毛が、びりびりと不快な音を立てながら、二十本ぐらいまとめて枝毛になるのを感じた。
「これでなかなかモテるんだ。野球部のエースだから」
「いやモテないね。何かがどうこうする前に、あんたは女の子をガッカリさせるもん。絶対にそう」
 いやな喋り方だ。馴れ馴れしいのにそうでもない。街を歩いていたら、突然、自分の掛け布団を頭からかぶされたような気分だ。思わず聞いた。
「君、うちの学校の人?」
「あんた、まだ気付かないの?」
 女子マネージャーは帽子を取った。髪の毛も一緒に滑るようにくっついていき、スプラッタ映画のえぐいシーンを見たようなゾッと短い高音の鈍痛が脳の裏道を原付で時速五十キロぐらいで走った。
 野球帽の下から子どもの頃から朝晩見慣れた猫っ毛が現れ、もうそれで鈍痛が今度は胸に急に下りてきて心臓が止まりそうになった。
「姉ちゃん……!」
 さっきまで女子マネージャーだったのに、隣にいて手を握っているのはいきなり姉ちゃんだった。こんなことがあるだろうか。普段から人の何を見ているというのだろう。
「いきなり姉ちゃん……」
「とにかくアンタは大馬鹿モノってことよ。弟ながら情けないわ」
 嫌悪感にほだされて沼田くんは手を振り払った。お姉ちゃんはそんなこと気にしない様子でただ手を離した。きまりの悪い顔を浮かべそうになるのをなんとか抑えて喚いた。
「どうして姉ちゃんが先輩に協力してるんだ!」
 姉ちゃんは心底呆れたという冷ややかな表情を浮かべて、それから言った。
「あんたバカ?」
 先輩を見ると、見るって言っても遠くて見えないが、スコアボードの上に気を抜かしたように棒立ちになって、どうも同じ顔をしているようだ。二人が二人とも僕を無表情で、いや違うな、これは無表情じゃないな。少し哀れむような、なんというかもっと僕の所在無さを際立たせるような問題物件……。しかも二人の距離は場外ホームランぐらい離れているというのに、この不思議な一体感。僕はあんなところまで飛ばされたことなどないぞ……しかし今、その距離と以心伝心の時速の相乗積に比例して、二人の思いがのしかかってくるようだ。体中の毛がライオンズカラーに凍り付いた。
「まさか、二人は……」
 お姉ちゃんはニコリともしない。ここは外だから、野球場だから、家とは違うから、いつものようなふざけた調子で「そのまさかよ」とも言ってくれない。ロマンスに酔いしれた若い二人は、今宵こんなに大がかりな仕掛け花火をこしらえて、二人きりの文化祭実行委員を満喫しているんだ。僕はピエロだ。弟ピエロットだ。
 足下に、愛欲の海に引きずり込まれるような強い、タラバガニ達さえ飲み込まれるほどの引き潮を感じる。二人の海では息が続かないだろう。愛し合う二人は呼吸法を常人と異にし、口づけ合って息を交換してそれで平座にして折り重なっているばかりだ。殺す気だろうか。生まれたての赤子のように自分の息を必死で探す。くっついた喉の皮膜を無理に引きはがして叫んだ。
「もしや二人は恋人同士!?」
 破廉恥なセリフが野球場に響き渡る。また音声を拾われて、流されてしまった。どういう仕組みなんだ。
「く、屈辱だっ」
 それでもなんとか二人の愛の海から自分を浜まで取り戻した僕の中に、今度は姉への怒りがぶり返すような苛烈さでぐつぐつわいてきた。
「やい姉ちゃん、どうして先輩が好きなんだよ。こんなこと言いづらいけど、姉ちゃんならもっといい人がたくさんいるはずだよ」
「私は恋をしたのよ」
「聞きたくなさすぎる」
「聞きなさい。特にあんたは聞きなさい。いい、私はこの頭に運命を刻みつけてやったのよ。理想の人の、人となりを。顔を、声を、仕草を、言葉を、好きな音楽を、好きな映画を、マフラーの柄だって、耳の裏の形だって、いびつに切られた爪の直線、本の持ち方なんでもいいの。とにかく全部を考えてみせたわ。彼の好きな野球選手は誰? ペガサスとユニコーンならどっちが好きかしら? アンジェリーナ・ジョリーの慈善活動に対してどんな意見を持ってるの? どんな他愛の無い質問にも全て答えるつもりでやったのよ。そして、頭に描いたその顔に出逢ったら、その声に出逢ったら、その仕草に出会ったら、たまさか全部を兼ね備えた男に出会ったら、言い訳なんてさせないわ。運命というのはそうやって自分でこしらえて、忘れた頃に自分で巡り会うものなのよ。私の瞳が、脳裏に映るのとそっくり同じな耳の裏の形に釘付けになり、私を捉えて離さないなんてことは、あるんだから」
「それで姉ちゃんの頭に描いたのが、そっくりそのまま杉田、先輩だったってこと?」
「違うわ。全然違ってた。何から何まで。でも、アンジェリーナ・ジョリーの慈善活動について聞いてみた時……」
 恥ずかしながら僕はドキドキしていた。一刻も早く答えが知りたかった。
「彼、無邪気に笑って『そんなことやってるの?』って言ったわ。それから、『トゥームレイダーの人?』って」
 拍子抜けする僕を見透かしたように、ぬけぬけと姉は言った。
「だから好きになったの」
 女の言うことは全然わからない。こういうのを思わせぶりって言うんだ。こんな時でさえ、血を分けた弟でさえ、男を煙に巻くことを考えているんだ。なんておもしろくないんだ。女って、なんておもしろくないんだろう。全然おもしろくないよ。だから先輩なんかを、あんな大したことない人を好きになるんだ。意味がわからない。
「姉ちゃん何を言ってるんだ」
「たとえば一人でいる時に、ある一つの表情とか、えくぼとか、風で乱れた髪の毛を正す時にわかった頭の形だとか、本人が無心に示した一瞬の動きを思い出す時のつらい気持ちなんかがわからないなら、あんたは地獄に落ちるのよ」
「ぬ」
「恋する人が言いかけてのみ込んだ言葉とか、自分の名を呼んだときの、声というよりも息といったもの……。お腹の中でふいごの役目をしてる横隔膜の振動によってつきあげられた空気が滑らかに丸めた束となるのがあなたに見える?」
「ぬぬ」
「彼の平熱まで温められたその丸い束が、あらかじめ彼によって意図された形の咽喉の門を通って、思うだけでも目がくらむような秘密の舌、長い人生でもってそのように並べられて動かしようもない歯、うるわしく湿った口の中のいたわりと拒絶の中を経て、息となってあらわれたもの。私、それを誰もが同じ意味にすることのできる言葉だとは思いたくないの。はっきりした吐息。そんなふうに感じなければおさまらない、この気持ちがあんたにわかる?」
「ぬぬぬ」
「わからないでしょ」
「プロ野球選手になりたい……」



 暮れ方の市営野球場は、申し訳程度にあてがわれた街灯の点がつないだ翳りのある空洞の中に、より深く硬い闇として浮かび上がっていた。生暖かい風がその周りをゆっくりと渦巻くように吹きつけて、なんだか不気味な雰囲気だ。
 虎杖は飼い犬を連れて、その風に向かうように野球場の円周にある小径を散歩していた。気分が暗く沈んでも、背筋を伸ばしているのはいつものことである。
 虎杖の犬の名前をニーナと言った。膝ほどの体高の似合う白の雑種で、長い毛足はほつれたように広がって年中まとまることがない。風になびいてもクセがあってすぐに戻るから、カッコの良いように虎杖が切ってやっていた。だからニーナはずいぶんオスに見られる。本人は気にする様子はなく、名付け親である少女趣味を多分に残した祖母が亡くなった今も、小柄なニーナは前足をかきあげて近所に愛想を振りまいている。
 鬱屈とした飼い主の気取りなんか我関せずと言うように四つ足を交互に、軽やかに運んで進む背中を見て、虎杖は自分の心をたずねる。
 ニーナあなたが特別ノーテンキじゃないのと同じように、私が特別くよくよしてるわけじゃないんでしょうね。誰もがみんな複雑な状況の中にいて、それには励まされるけれど、みんながみんな、みんなもそうだと考えないのは残念だわ。ニーナあなたの世界は私には限られているように見えるけど、それなら私の世界はどれほど広いというのでしょうね。
 ニーナが立ち止まったので手元がゆるみ、虎杖は無意識に足を止めた。顔を上げると、細く伸びた黒い水の流れに行く手をふさがれていることに気付いた。
 野球場の方から黒い水が流れ出て、あちこちで小径を横切り、至る所の側溝を見つけては流れ込んでいる。後ろを振り返ると、球場のいくつもの出入り口から黒い流れの先端がじわじわ伸びてくるところだった。
 急に充満してきたのは、鼻孔に鉄粉をふいたような血のにおい。
 電灯に照らされたところでは、それは血液だと納得できる程に赤く鈍い輝きを放ち、砂を水より遅く押して進んでいた。
 虎杖は不安そうにあらぬ方向を振り返りながら、黒い水に寄っていこうとジャンプをくり返すニーナのリードが体を引っ張るそのせわしないリズムに、夜の闇も相まって酩酊してくるようだった。
 コーヒーゼリーにミルクをかけるように、足場がどんどんなくなっていく。フラフープの輪ほどに残された足下の地面も、やがてぷつんと音がして血になった。
 下品な音がする。
 見ると、ニーナがめちゃくちゃに、むさぼるように血をなめている。
 虎杖はそれを黙って見つめた。巻かれた舌が薄い血の海に叩き付けられて、わずかにのぞいた白い犬歯が赤い水滴に覆われる間もなく破けるように血がぱっと弾かれて、すぐにもとの白い歯になる。まめに歯みがきしてあげた歯の汚れの無さに少し安心する。
 ニーナのくせのある毛は毛細管現象によってかなり多くの血を吸い上げて、足はまるで赤い靴下をはいたようになり、鼻は目元まで深々と血に浸ってしまった。
 血液の川というか湖は、今も確実に新たな支流を作りながら広がっていた。野球場から放射状に広がり、街を覆い尽くさんばかりだ。虎杖はもはやぬるい赤に染みこまれてしまったスニーカーの中で窮屈な足の指を、二度、三度、地面に根を生やすように力を込めて押しつけた。
 それから、重ねて縛り付けた雑誌のように動かないニーナのリードを、二度、三度強く引っ張って合図すると、野球場に向かって歩き出す。自分と同じように血を跳ね散らしてニーナがついてくるのを感じる。
 どういうわけか鍵の開いた門から入ると、通路が一度、半地下になっている。十メートルほどの通路に大量の血が溜まる中を、虎杖は躊躇もせずに腰まで浸かった。なんとなくプールの消毒液を思い起こしながらニーナを抱え上げる。ニーナは抱き上げられながらも、身を乗り出して下へ下へと首を伸ばし、お構いなしに血を飲んでいるらしい。下腹部の前で鼻息の洩れる低く慌てた音がする。ニーナの動いて跳ね散らかす血が顔の皮にはりつくたび、虎杖は顔をしかめた。でも、不思議に捨て鉢な決意に導かれて構わず歩を進めた。
 入る時より段数の多い階段を上がるとグラウンドに出た。血は足首ほどの深さ。濡れた下半身はぐっしょり重くて、鼻孔を突く血のにおいで後ろ暗い気分になる。ニーナを離してやると、もう満ち足りたのか、そのまま凛と立っていた。
 文字通り血の海といった風情のグラウンドの中央、一面に凪いでいるその海の上に浮かぶように立っている一人の男がいた。
 虎杖には、一目で沼田くんとわかった。
 どんな魔法であんなふうに血の上にいるのだろうか。天草四郎時貞という名前が浮かんで、なんだか無性に興醒めする。脳というのはちょっと不便だ。不思議と高揚するような何か起こるはずのこの夜に、いらない言葉はどこにもいらない。
 この血はみんな、沼田くんから出たものかしら。
 転ばぬように下を見ながら一歩踏み出すと、月明かりに薄青く浮かんだ自分の形よい膝小僧に目が付いた。この惨状にも血のあと一つ無いその出っ張りから赤い沼に沈み立つ足首までの脚線に、虎杖は自分で見とれて戸惑うほどだった。ちょっとO脚気味だけれど、脚には自信が少なくない。しなるように曲がったなめらかな脚と脚、その隙間に血のにおいがするする蛇のような螺旋を描いて忍び込んでくるようで、ゾクゾクした。
 自分に耽って歩みが止まっていたところへ、前へ前への気を削がれたニーナが振り返った。
「ごめん、行こ」
 こんなに広くひらけた場所なのに、声はすぐどこかに落ちてしまう。にも関わらず、こんなに液体で満たされたどこにも波紋は広がらない。私の言葉はどこへ行くやら、ただ空気を震わせておしまいになる。でも、ニーナには届いていたようで、もう安心して前を行っている。何かを信じるために何かが目の前で起こらなければならないなんて、勝手な自分にイヤを感じて、血のにおいが強くなる。
 沼田くんのいるところに近づいてみると、虎杖はそこがどうやら少し小高い丘になっていることに気づいた。野球に明るくない虎杖にはわからなかったが、沼田くんはマウンドに立ち、腹部を押さえて苦悶の表情を浮かべているのだった。
「沼田くん、どうしたの。大丈夫?」
 いよいよそばにいくと、血はマウンド上にいる沼田の腹から絶え間なく流れ続け、今なお広がっていた。だから自然に話しかけていた。
「痛いというよりも、恥ずかしいという気持ちが強い!」
 沼田くんは肩を落とし、本当に恥ずかしそうな苦悶の表情を浮かべて言った。出した声に思わず傷が痛んだか、片膝ついてしゃがみこんだ。
「何があったの?」
「俺、だまされた」
「だまされた?」
「だまされたというか、信じすぎた。信じすぎたし、嫌いになりすぎた。度を超して……」
「あ、ごめん、私の犬が……」
 なめていた。永遠に血の滴り落ちる沼田くんの腹の傷口をしきりに、むさぼるようになめている。
「いや、気にしないでいいよ。あったかい」
 沼田くんは言った。けれども、舐めるニーナのその舐めが、いたわりの舐めではなく、食欲の赴くままに現れた舐めだという、あっけない、見たままの真実が二人の頭を離れない。
「でも……すごい舐めてる」
 だから二人は恥ずかしく、しかしまたその思いを共に抱いた暖かい事実に思い当たる。その関係の行き先はまだわからないから揃って笑うには至らない。しかし、何か柔らかい違和感が二人の間にあるのを、二人が二人、勘付いている。
「山野さん、いつも答えを見せてくれてありがとう」
「え?」
「テストの答えさ。ほんとにごめん。この前、早川に呼ばれてたけど……」
「そう、あれ、そのことだった。沼田くん、気づいてたの?」
「ごめん」
「気にしないで。本当にあたし、気にしてないし」
「でも、そこのあざ、その時できたやつだろ。殴られたの?」
 虎杖は目元のあざに手をやり、確かめるように自ら圧して、痛みに顔をゆがませた。もう強く圧さなければ痛まないのにそれでも強く圧してみせるのは、この痛みさえを二人の秘密の証明するためだ。これがわからない人は、たとえどんなに勇敢でも、正直でも、どうにもならない。
 幸い沼田くんはそんな人でなかった。その様を目撃した沼田くんの腹から血がひときわ大きく湧出し、ニーナの顔を隠すほど派手に濡らした。虎杖はそれに気づかないほど話に夢中になっていた。無論ニーナも気にしなかった。
「沼田くん、私、職員室で先生に怒られてるとき、水を口にふくんでて、途中でこぼしてしまったの。それで怒らせて、それで殴られたの。だから沼田くんは全然関係ないよ」
「なんだよそれ……」
「私がいけないから」
「おかしいよ……おかしいけど、だからかも知れないけど俺、実はずっと……」
「え?」
「いや……」
 なぜ、え? なんて言ったのか。きっと、もっと永く、何かが予期される、バカみたいに単純で白々しく酔わせるようなその瞬間を味わいたくて、それで次の言葉を遅らせようとしたのだ。虎杖は深く後悔して、追いすがることのできない今を憂う。憂いながらも不便な脳から話題を取り出して、何とかしゃべりだす。
「沼田くん、この世を上手く渡っていく方法を知ってる?」
「いや……」
「空の中頃を飛ぶの。人や噂を気にして低く飛んだらつまらないし、夢や憧れを追って高く飛びすぎたら身を滅ぼすから。沼田くんはすごく野球が上手いから、きっと高く飛べる人よ。でも、高く飛びすぎたらいけないの。気をつけて」
「でも、高く飛ばなきゃつまらないよ……」
「そんなことないよ」
「でも、俺には野球以外ないんだ」
「ウソだよ」
「ウソ?」
「そう、ウソ」
「私もウソをついてたの。人に。いいえ、自分にも。だから、沼田くんがウソをついてるのがわかる」
「山野さん。一つ聞きたいんだけど」
 沼田くんが一躍神妙な顔をしたので、虎杖は身構えた。
アンジェリーナ・ジョリーの慈善活動についてどう思う?」
 知った名前であったが、虎杖はふいに、魂の抜けるように哀しくなった。扉を閉めて明かりの消えた冷蔵庫のように心許なく気分の音を失った。
「なんでそんなこと聞くの?」
「それは……」
 予期せぬ不穏の空気に沼田くんは言いよどんだ。その空気は最初はかすかに、だがだんだん強くなってくる。彼を追い立てようとする方角が、彼にも、彼女にも、徐々にはっきりしてくるためだ。
 しかしそんなことにはしたくないと内なる心で無意識に抵抗するためか、虎杖は涙ぐんでいた。
「ごめん」
 どちらが言ったか虎杖にはわからなかった。自分が言ったかも知れないし、相手の口から出たかも知れない。どちらにしても何の慰めになるだろう。
 運命にまかせて一方は眺め、一方は重力に拘引されんとあふれた涙がしきりに揺らいで黒目も一緒に引っ張られる微妙を感じていたが、とうとう負けて、いつの間にか一面の血の気を吸って充血していたその目から、涙が一つ、二つとこぼれて落ちた。
 その数滴は足下の血の海に落ちて砕かれたようになった。その一帯を、自分の腹から流れ出た血のうねりが飲み込み押し流していくその光景を、沼田くんは取り返しがつかないという思いでやはり眺めた。
 もう涙がこの場を離れて溶けていったと思われる頃になると、自然の摂理に任せてあらゆる段差に血の落ちていく音が遠くから聞こえてくる。山奥に湧く水は、遙か下流で海に入り初めて出くわす波の音を聴くだろうか。しかしそんなことより、こんなに目の前では女の子が泣いている。
 なぜ泣いているのか、わからないというより、もうとうに忘れてしまった。
 でも沼田くんは強く思う。あの涙さえこぼれなければ好きと言えたのに。
 傷の痛みと流れ出す血の案配、傷ついた女の子の心象の滲みに影響されて、決してここから立ち去ることができない。痛いというより恥ずかしく胸を突く何ものかを沼田くんは恨み、また浸り、そのたびに持てあました手を広げたり閉じたりしながら、虎杖の手に視線をやる。
 犬のリードを握る右手も、一方の左手も、真一文字に三段かたく閉じられた長い指の隙間をもう開かない。さっきまではどうだったろう? さっき何か悪いことが起こるまで、あの手は何かを待つような歯がゆく淡いあの自然な形に開いていたとでも言うのだろうか。見ていない時に。
 そんなことは沼田くんにはわからないところまで遠ざかってしまった。すっかり全身赤に染まりきった彼女の犬も、自分の腹に開いた傷を舐めるに飽いて、失意の飼い主につかず離れず寄り添っている。
 遙かに見れば、一面の血の向こう、スタンドを越えた空の下、遠く広がる街の光が、明るく白く平たい光を球場の外から立てかけている。
 さあ、ここからどう身を返そう。もう誰もそんなこと求めていないのに、痛みも音もなく血だけが流れ続けて、この身を永遠に不安にさせるようだ。