社長の息子マジックショー

 社長の息子は前に出てくると、日高屋に通い慣れた人みたいな横柄な態度で五年一組の三十六人を見回した。
 ならんだ机のまん中あたりに座っている亀山ノブヒコは、両ひじを突いて不満げの顔で、その憎き小さい、小さいダブルのスーツをじっと見つめていた。
「出席番号二十三番、社長の息子です。ではマジックショーを始めます」
「はいみんな拍手~!」
 顔の横で手を打つ先生にうながされるようにして拍手が起こった。
 社長の息子はうんうんと深くうなずきながら、両手を胸の前にかざした。そのまま三歩前に出て、一番前の小島くんのところまでやって来た。
「僕が合図をすると、小島くんはもう動くことが出来なくなるよ。家がクリーニング屋だろうがなんだろうが、そんなの全然関係ないよ。ハイいくよ、ズンズンズンズンズンズンズズン」
 問答無用でミスターマリックのテーマを口ずさみながら、社長の息子は片手を自分のスーツの内ポケットに突っ込んだ。と思いきやすぐさま抜いて、勢いよく机の上にたたきつけた。バシンと大きな音がした。みんなびっくりした。小島くんは動かなくなった。
 いや違う、小島くんの右手だけまだ動いている。そして「すいません」という小さな声も聞こえた。ノブヒコを含むクラスの何人かが、小島くんの右手と二つにたたんだ一万円札とが固く団結してポケットにすべりこんでいくのを目撃した。
「小島くん、どう」と社長の息子。「動ける? 無理じゃね?」
「無理」
「ザッツ・オール!」
 社長の息子は、拳を握った両手をあげて少し横に引く動きで、1つ目のマジックが見事成功したことを示した。
「はい拍手~~!」
 また先生の合図で拍手が起こった。
「こりゃあ幸先がよさそうだぞ」
 社長の息子は、すぐに落ちてくるスーツの袖を何度もまくりながら言った。
「小島、マジかよー。お前本当に動けないのかよー」
 後ろの方の窓際から疑り深い石井くんの声が飛ぶ。
「う、動けないよー」と小島くんが答える。
「トリックじゃねーのかなー」
「じゃあ次、その石井くんいっちゃおうかな」社長の息子は指を鳴らして歩き出した。
「ホントに!」
「そうじゃなきゃ、納得しないんでしょ」
 社長の息子は、うんうんうなずく石井くんの方に向かって、自信のみなぎった足取りでずんずん机の間を縫っていく。
 我慢ならないノブヒコは、社長の息子が横にきた時、思わず足を出した。
 遠く前を向いたままで気づいた様子は無かったのに、社長の息子はその手前で立ち止まった。ゆっくりとノブヒコの方に首を回す。そして小さい声で言った。
「よしてよ。亀山くん」
 ノブヒコは俯いたまま肘をついて手を組んで、息子の手術を待つ父親のように動かない。
「マジックでわかっちゃったよ」
 ノブヒコは何も答えない。無口な方だからそれでいいだろう。密かに視線を動かして、その下半身を見つめる。折り目のついた半ズボンからのぞいたきれいな膝の小僧を焼き尽くさんばかりに見つめるが、すぐに視界を出て行った。
 その最中にも集中力散漫なノブヒコは気づいてしまった。憎きあいつのきれいな膝小僧の下半身。その奥にある、それとは大違いの、柔らかく折り曲げられて運動神経をたたえた、しなやかで細い足。的場さんの足。その微妙にひねられた向きだけで、体をつないだその上に、隣の席の自分に向けられた視線があるであろうことに気づいてしまった。
 的場さんが自分を見つめている。
 こんな時でもノブヒコはどぎまぎして、みんながみんな社長の息子の動きを追って、椅子を引き引き見物の体勢を整えるのも気にせず、うす黄色の短いソックスからのぞくくるぶしや、自分のと違って申し訳程度の汚れが浮かぶだけの清潔な白い上履きを横目で見ていた。足を出したイジワルを見られただろうか……。足を出したその場面を……。
「石井くん、じゃあいくよ!」と大きな声が聞こえた。「石井くんは東西一の幸せものだよ!」
 クラス全員に背を向けるようにして石井くんの前に立つと、社長の息子は語りかけ、掌を思いきり机に叩きつけた。その時、石井くんの「えっ、こんなに」という小さい声が、また何人かに聞こえた。「三島のおじいちゃんだってこんなには……」
 その声をかき消すように、社長の息子は大声を出した。
「石井くんは、君は今からひっくりかえったカブトムシになるよ!」
 遠い人はこいつは見逃せないと椅子の上に膝立ちしてしまって、その行方を見守った。石井、本当なのか。身も心もひっくりかえったカブトムシになってしまうのか。
「ズンズンズンズンズンズズン」
「う、うわー!」
 石井くんはそのまま、運動神経はそんなに良くないし、そんな度胸も無いはずなのに、派手に椅子ごと倒れてひっくり返った。ガタタタズダーンとすごい音がして、勢いそのまま椅子から放り出された石井くんは、床に仰向けに寝転がり、肘と膝を内側に曲げて、一斉に上下へ動かし始めた。
 社長の息子はすべりながらしゃがみこむと、その口元へ、マイクを差し向ける振りをした。石井くんは顔をそちらに少し向けた。
「起こしてくれー。お願いだー。カブトムシからの、お願いだー」
 感嘆の声がところどころから上がった。「トリックだ」が三度の飯より口癖の石井くんが、ここまでどっぷりマジックにかかってしまうとなると、こいつは本当にホンモノなのかもしれないという気分が充満してきた。
「はい拍手~!」
 先生の声も俄然、明るいのだ。ノブヒコだけは後ろを見ていなかった。神妙な顔の的場さんが途中で後ろを向いて膝立ちしてしまったのを盗み見てからは、ずっと前を、黒板を見ていた。
 しかし、やんややんやと拍手が起こり始めると、ふつふつと煮え立つような気持ちがノブヒコの胸を騒がせた。ノブヒコはそれを必死で抑えつけようと、床をじっと見た。こんなこと、気にすることはないじゃないか。やらせておけばいいじゃないか。やりたい人にはやらせておけば。そう考えても、ノブヒコの腹はどんどん熱くなって、その暗い熱が、頭の方まで上ってくるようだった。
「天才だ!」
 そんな誰かの声を引き金に、ノブヒコは立ち上がってしまった。ズダダダダダと機関銃を撃つようなけたたましい椅子の音が鳴り響き、一瞬にして静まった教室の視線が、特にマジックをしているわけでもないノブヒコに集まる。きっと、的場さんも隣で僕を見上げていることだろう。
 ノブヒコは社長の息子には一瞥もくれず、ひっくりかえったカブトムシ状態をキープしている石井くんに向かって歩いていった。社長の息子は、体の前で手を重ねた大人の「やすめ」の体勢のまま、やや大股で一歩、二歩、後ろへ下がって石井くんのそばを離れた。
「嘘だろ、石井くん」
 ノブヒコは石井の頭のそばに立ち、のぞきこんで声をかけた。
「その声は亀山かー。カブトムシになっても、友だちの声は忘れないぜー」
「いいから石井くん、起きてくれ」
 石井くんは少し黙って動きも止めたが、やがて、曲げた手足を交互に動かし出した。
「お願いだ起こしてくれー。俺はカブトムシだー。ひっくりかえっちまったー。短い短い、夏だってぇのによー」
「もう止めて、目を覚ますんだ。今ならまだ正直者でいられる」
「石井くん、今、欲しいものは」横から社長の息子が笑いを浮かべて口を挟んだ。
「スイカだろー」と石井くんはそちらにのろのろ答え始める。「樹液に、マリオパーティー」
「石井くん」
「メスカブト」
 それから石井くんは目を閉じて黙った。
「石井くん。トリックだろこんなのは。ねえ! もしもし!」
「……」
「ねえ! ちょっと! 今日遊べる!? 石井くん!!」
「……」
 いつもなら、こんな風にちょっとふざけて話しかけるだけですぐに吹き出してしまう石井くんがまったく、お地蔵さんのようにまったく動かない。でも待てよ、石井くんは途中でマリオパーティーとつぶやいていた。みんなで一緒にゲームして遊ぶたび「アレあったら最高なんだけどな、アレ、なんつうの? ああ、マリオパーティーか」と喉から手が出るほど欲しがっていたゲームソフトの名前を。ひっくりかえったカブトムシなら知るよしもない名前を。
 クラスは少し重苦しい雰囲気に包まれた。でも、誰も何も言わなかった。先生も拍手を始めようという手つきを顔の横に添えたまま、声を出すのはためらっているようだ。
 パン、パンと手の叩く音がした。
「はい、みんなこっちに注目!」
 その音と声は先生ではなく、教室の反対側、廊下側の一番前から聞こえた。そこに、社長の息子がいつの間にかふてぶてしい顔で立っていた。
 そしてなんということだろう。その机の上では、学級委員長、塾通い、チタンフレームのメガネ、ELLEのハンカチの花形くんが立っている。
「コマネチッ」
 そしてあろうことか、ビートたけしの往年のギャグ、コマネチの動きをくり返している。みんな、その様子を唖然と見上げた。
「コマネチッ……やばい。コマネチッ……止まらないよ。ハッ、コマネチッ……が、止まらないんだ。よせよ二階堂くんコマネチッ……ほ、ほんとによせって二階堂くん! 二階堂バカ野郎この野郎」
 ノブヒコは立ち尽くした。コマネチを見てこんなに沈んだ気分になってしまうなんて初めてだった。いつもなら、本当バカだな~たけしは、あと何喋ってるかわからないな、という思いはあるにしろ、おおむね朗らかな気持ちで見ているのに、今はただただ、そのぎこちない動きがむなしい。
「花形くん……学級委員長の君まで」
「いやこれはすごい…マジッ…コマッ…ネチッ……だよ。痛い痛い、ちょっと痛い! 節々が痛い! コマネチッ……何だコレは…すごいぞ! 疑ってたけど、かかってみたらわかる。正真正銘、混じりっけ無しのマジックだなコイツは!」
 ノブヒコはどんな言葉にも動かなかった。
「花形くん、こっちを見てくれ。コマネチをしながらでいい」相手が見ないのはわかっていた。だからノブヒコはすぐに続けた。「君は、最高の学級委員長だった」
 花形くんはノブヒコからますます視線を逸らして斜めに俯いた。首をコキコキさせるのは忘れなかったけれど、コマネチのアクセルは少しゆるんでいた。
「君が挨拶と笑顔と正義にあふれる最高の5年1組をつくると言うから、僕は君に投票したんだ」
 花形くんの唇がぎゅっと細くなった。その不安を見て取ったか、社長の息子が後ろに回り、花形くんのバックポケットに手を突っ込んだ。クシャリという音が響くと同時に、花形くんの口からは「あんちゃん、投票ありがとう!」という掠れた声が飛び出た。それから、ぜんまいを巻かれたように次次しゃべり出した。
「オイラに言わせりゃ、あんちゃんの方がよっぽどエラいと思うけどネ。で、もっとエラいのが若いおネエちゃん(笑)。石坂浩二さんはね、女を口説くときにベランダに出てハイネの詩を読むんだよね。ともかく何が言いたいかっていうと義太夫のかみさんはブスって事だな。そしたら離婚しちゃったでやんの(笑)……コマネチッ……」
 今までで一番斜めにふんぞり返り、引き攣った顔で天井を見つめたまま、花形くんはそこで動きを止めた。
「はい、拍手~!」
 その通りに教室は拍手で埋まった。モノマネに対する拍手も少し混じっていた。
「みんな、本当にこれでいいのかい」
 その声はもうみんなに届かなかった。次は誰か、俺か私かと一心に社長の息子を見ているみんなを見回してから、ノブヒコは足元でカブトムシになっている石井くんを見下ろした。固く固く、震えるほどに目を閉じていたが、まだ手足は少しだけ動いている。弱りゆくところを表現しているらしい。
 石井くんはカブトムシになってもノブヒコの声は忘れないと言ったが、カブトムシになったらそれは忘れるべきじゃないかということをノブヒコはやるせなく考えた。そして、顔を上げた。
「先生!」と叫んで、再びノブヒコに注目が集まった。
「こんなこと、許されるんですか」
 小川先生は女の先生でまだ20代と若く、少し生徒にからかわれてしまうタイプだった。親からも頼りないと言われないこともなかった。小川先生は、拍手を終えたままだった手を顔の横ですり合わせながら、胸の前までゆっくり下ろした。
「あのねえ、亀山くん」それから黄色いカーディガンの一番上のボタンをいじりながら、小川先生は小股に三歩進んで二歩下がり、結果的に一歩前に出た。「なんでも疑ってかかるのは先生、よくないと思うの。心の目で物事を見るように、桜舞い散るあの四月に約束したはずね。今とは席がちがうけど、この教室で約束したのよ。みんな、とってもいい声で返事をしてくれた。先生には、亀山くんの声が一番よく聞こえたんだけどな」
 ノブヒコは唇をかんで黙り込んだ。
「二階堂くんのマジック、すごいって、そう思わない? こんなにすごいのに、どうしてそんな態度を取るの。石井くんも花形くんもあんなに見事にかかっているのに、どうしてその言葉を信じられないの?」
「先生、ぼくもですっ」
「小島くんもそうね、かかってたね、ありがとう。亀山くんには、あれが嘘に見えるのかな。石井くんと亀山くんって、大の仲良しでしょう……? こんなこと言うのはずるいかもしれないけど、先生、実を言うと、ちょっとだけがっかりしちゃったの。先生は、飼育係でハマちゃんの世話をしている時の亀山くんの目がキラキラ輝いて、大好きなんだけどな」
「そんなこと今関係ないだろ!」
 クラスで飼っているウーパールーパーの世話が楽しいことなんか、今は関係ない。先生はずるい。本当にずるい。ずるいと面と向かって言う価値も無いほどに。
 ノブヒコは先生に近づいていった。すると、先生の動きが止まった。いや、少しだけ動いている。力をこめてやっと少し動けるというように、わずかに震えながら手を前に伸ばしている。
 その異様さに、ノブヒコは歩を止めた。
「アラ、亀山くん、先生、動けないわ!」
 先生は震えながら、急に顔を引き攣らせると、なんとか社長の息子、二階堂の方を見た。そっちに向けて、大きく広げた掌を、苦しく喘ぐように徐々に伸ばして突き出した。そして、五月の理科の時間にみんながふざけていた時、突然ヒステリーになって金切り声を上げた時以来の大声で言った。
「やめなさい! 二階堂くん、先生にマジックをナニするのはやめなさい!」
「ナニする……?」社長の息子は不安げに小首を傾げた。
「先生にマジックをかけるのはやめなさい、という意味!」
 先生は苦悶の表情を浮かべて、一番前の小島くんと吉春さんの机にそれぞれ両手を突いた。そして尻を突きだして、風呂の縁につかまる上島竜平のような体勢になったあと、もう一度叫んだ。
「絶対にマジックをかけるな、という意味!」
 ハッと目を見開いた社長の息子はその瞬間、サッと先生に向けて手をかざした。
「ズンズンズンズンズンズンズズン」
 大人の日本語の勉強にもなる一連のやりとりにノブヒコは、大きな川を渡ろうとしたら仲間がワニに食べられた草食動物のような悲しそうだけれど本当にそう思っているのかはわからないえらくえらく澄んだ瞳になって、そこで立ちすくんだ。もう歩を前に進める気力は出なかった。
「先生」とノブヒコは言っていた。「先生はどうして小学校の先生になろうと思ったんですか」
 ノブヒコが言い終わらないうちに、先生は、今完全に動くことも喋ることも出来なくなった、とでも言うように、やや下を向き、目を見開いたまま、ロボットダンスのような手足ばらばらの体勢で、一切の動きを止めた。しかしわずかに、野生のシマウマと化して神経が常に死と隣り合わせの暮らしによって研ぎ澄まされたノブヒコにだけ聞こえる声が洩れた。
 ドラム式洗濯機……。
 実を言うと、ノブヒコには、先生の机の上にぶ厚い茶封筒が置いてあるのはずっと見えていた。ノブヒコは孤独な戦いになることを承知で立ち上がったのだ。
 ノブヒコはたっぷりと先生を見つめた。しかし、先生は大人の、本気の、悲しいパントマイムを続けていた。教え子たちは、こんな時だけ日頃の教え通りにお口をチャックし、固唾をのんでその様を見つめていた。
 やがて、開きっぱなしになっていた先生の口元からよだれが垂れて、床まで粘り輝く糸が引いた。それでも頑なに石像となっている先生を見て、ノブヒコはとうとう諦めたように目を伏せ、丁寧でわざとらしい「回れ右」をした。
 先生、僕がここで学んだものは、こんな悲しい動作だけなのですか……?
「セコな連中ばかりだ」
 みんなの視線を受けてノブヒコはつぶやいた。席に戻ると全身の力が抜けた。無邪気に風の子でならした小学生とは思えないほど疲労しており、このあとの給食当番がだるかった。
「だいたいみんなマジックとか言ってるけど、超能力か催眠術じゃないか」
 それだけ言うとノブヒコは、机の手前の淵におでこだけを乗せ、頭を腕で囲い、床をじっと見ることで5年1組の全てをシャットダウンした。そして、自分だけの世界へ沈潜していった。今度はシマウマではなかった。ザウルス系で埋め尽くされたシダ植物の世界。
 しかし今、図鑑そのまま好ましいはずの世界では、ノブヒコの大好きなザウルスたちが全員うつむき、あばらを浮かせ、胡乱な目でほっつき歩いている。時折立ち止まったかと思えば、全員下痢気味で、またよたよた苦しそうに歩き出した。今、ノブヒコの心はかつてないほどやさぐれていた。
 でも、まだ恐竜たちはなんとか動き回っている。南の空にお日様が出ているからなんとかやっていける。的場さんがまたこっちを向いているのが、視界の端に引っかかった上履きの向きで期待できる。さっきの神妙な顔は、この教室で幅を利かせている不正に対して、間違いなく疑いをもっていたのだから。
「僕の家の会社は、僕が生まれる八年も前に一部上場しているんだよね」
 いつの間にか社長の息子がそばまで近寄ってきていたらしく、すぐ近くで声が聞こえた。
「さぁ~てウサギだ! 次は女子だよ! はい、的場さんはウサギになります!」
 次次と隕石が心臓にめちゃくちゃに降り注いだようだった。ノブヒコの中でザウルスたちが一斉に体を持ち上げ、苦しそうな高い悲鳴を上げた。
「え……」
 ちょっとかすれた的場さんの声は戸惑いに満ちていた。
 間髪入れず、平たく非常に便利な紙が何枚か、的場さんの爽やかなカリフォルニア・オレンジ色のワンピースの首元に、カサリと価値ある音を立てて差し込まれるのを、教室の上空を飛行中のプテラノドンが発見した。びっくりして一瞬口を開けて、そのまま苦しそうに血を吐いて、錐揉み状に落ちていく。ハマちゃんの水槽へ派手な水音を立てて墜落する。血で染まった水の中で、ハマちゃんは窮屈そうに、巨大な体を少し動かす。
「ズンズンズンズンズンズンズズン」
 不吉な音に耐えかねて恐竜たちが次々と息絶え、パネルを外すように外の世界が徐々に露わになる。その最初の兆候として、ノブヒコは隣で椅子が動く音を自分の耳で聞いた。
 下を向いたまま隣に目玉をスライドさせると、音を立てないようにすこし持ち上げられて動く椅子と、すくと立つ力をこめてまっすぐになった的場さんの足が見えた。
 それから、これはノブヒコからは見えなかったが、的場さんはすでに頭の上にウサ耳代わりの手を添えていた。でもやっぱり、腰から下しか視界に捉えることができないノブヒコにも、白く長い、耳らしく見えるように親指を畳んだウサ耳がはっきりと見えていた。
「本」
 机の間の通路に出てくるそんな声は本当には出ていなかったが、ノブヒコにはたまらないほどよく聞こえていた。そして実際にその音がノブヒコの鼓膜にヒビを入れてしまった。気付くと涙があふれている。顔の下はすぐに涙でいっぱいになり、暑い湿気を放っている。机の淵からは涙が穏やかな滝のように音もなく流れ落ち、床に大きな水たまりを作り始めている。気づく者はいない。
 ビチャッ。
 最初のウサギ跳びで、涙の海の一番先の、かなしく愛らしいおばけのような丸みにそのつま先を着地した的場さんも、まるで何にも気にも留めない。
 さらに悪いことに、少しよろけて咄嗟に踏ん張った的場さんの足に、ノブヒコの机の横にかかっているごつごつ膨らんだ道具袋が引っかかった。
 足に触れた道具袋が身をよじるように、いやむしろ的場さんの足にその身をこすりつけるように動いているのがノブヒコに見えた。やはり的場さんは気にする様子も無いどころか足に力がこもって、どうやらそのまま飛ぶらしい。
「ピョンッ」
 ウサギを演じられているかどうか不安になったのか、的場さんは短く言ってまた跳んだ。踏みにじられて砕かれて、細かい涙の飛沫が舞って消える。
 未練がましくまとわりついていたノブヒコの道具袋は、大きな跳躍で遠く離れた的場さんの足を、弧を描くように離れた。勢いよく戻ってきて机の脚にぶつかると、ガチャンと大きな音を立てた。その音はノブヒコの鼓膜をとうとう破いただけではとても足らず、あんまり研ぎ澄まされていたもので、鉄の脚を伝って直接ガチャンと響くや机にたまった涙を飛び上がらせて、しっとり乾いていた灰色の脳みそをびしょびしょにして溶かしてしまった。
 ぽかんと空いた頭の中にクシャリと乾いた音がした。それは的場さんの手の中に入って、的場さんはそれを隠すように、両手で丸めながら口元に持っていった。
「にんじん、ポリポリポリポリッ」
 それなりに長い言葉を喋ると、声にはかすれた印象が少しずつなくなっていく。ノブヒコはその喋り始めの、容姿とちぐはぐな、自分にしか聞こえていないようなその声が好きだった。でもその声は、二度と同じようには聴くことができない。ウサギは遠くに行ってしまった。今度は自然にわき上がった拍手に送られて、恐竜が絶滅した。