ほっといといて!

 博士の新たなる実験とは、今まさに砂埃をあげてケンカしている二人の中に餃子の材料を放り込んだら餃子がいつの間にか後は焼くだけという、スーパーで異様に安売りしている状態まで持っていけるのではないかという、宇都宮人にしてみたら夢のような実験であった。
「いいかね。私の予測では、ケンカしているお二人さんの顔があっちこっちから出てくるのと同じ感じで、餃子が皮に包まれていく過程を断続的に観測することができて工場見学の気分を味わえるだろう」
「博士、実験成功の勝算はあるのですか」
 助手が、粉末をマグカップに入れてお湯を注ぐだけで、なんちゃらラテ的なシャレた飲み物が出来てしまう飲み物を作りながら言った。助手はヤカンを頭の位置まで上げて湯を注いでいた。これは横着であり、高いところから湯を注げば、かき混ぜる棒を使わなくとも自然に混ざるのではないか、なぜなら滝湯はめっちゃ威力があるからなという考えに基づいている。そしてそもそも、かき混ぜる棒よりもスプーンの方が混ざりやすいという事実。
「勝算はある。この前、そういう機会があった時、二人がケンカをしている最中に全然関係ない雑種犬を放り込んだところ、最終的に犬の一人勝ちになっていた。いわんや餃子をや、だ!」
「混ざってない。全然混ざっていない」
 助手はマグカップを上から眺め、やや大きめの声で言った。ちなみにその声の大きさをエックスとしたところ、イコール脱衣所から風呂に入っているお父さんに声をかける時の大きさとなり、バスマットの面積が非常に簡単なやり方でもとまったという。縦×横だったという。
「とにかく始めるよ。まず、ジャイアンとのび太の用意はできているね」
「無理です。マンガですから。代わりに、名前の似ている小学生を用意しました」
 助手が言うと、きっとドアの向こうでタイミングを見計らっていたのだろう、小学生が二人、ゆっくりドアを開けて、照れた半笑いでこっちに歩いてきた。そして、ややくっついた位置で横並びになった。
「香田武史です」「堀公太です」
 博士は、小太りの香田武史はともかく、それより太っている堀公太で明らかに気分を害したらしく、口を結んだまま、首をやや傾けて上目遣いになって気持ち悪かった。
「博士、さっそく実験を始めましょう」
「もう、いっ」
 もういいという意味の言葉を短く発して、博士は早歩きで自分の部屋へ向かおうとした。しかし、最近まめに筋トレをしている助手に腕をつかまれてしまった。その拍子に肘のところがポキッと鳴った。
「ちょっと。どうしてなんですか博士。実験しましょうよ」
「止めて、離して。今ポキッて鳴ったよ、離して」
「ダメです。実験しましょう」
「もう、やっ。ほっといて。堀公太なんかで実験なんかしないから」
「本名にのびのびが入ってる奴なんていませんよ」
「もう、ほっといといて!」
 博士はかなり必死な動きで体を一回転させると駆け出し、部屋へ飛び込んで鍵をかけた。
 博士がベッドにうずくまると、外から助手が声をかけた。
「いじけないで実験をしましょうよ」
「実験実験」
 ドアのすぐ向こう側からあまり抑揚の無い、でもなんだか楽しそうな子供の声が聞こえて、それが香田武史か堀公太の声かわからなかったのがなんだかしゃくに障って、博士はいきりたった。うぎぃぃぃ。あいつら……あいつら、絶対ろくな大人にならないよ。太っちょ!
「実験実験」
 うぎぃぃ。博士は立ち上がると、机の上のスケスケの緑色の下敷きを手に取り、ドアの下の隙間から思い切り滑らせた。
「あっ」「下敷き」
 向こう側から声が聞こえて、博士はまたベッドに突っ伏した。
 しばらくしてなんとなくドアの方を見ると、ドアの下からなんだろう、あれなんだろう、何かが飛び出している。茶色くて、ギザギザしている。
「いらないよそんなの!」
 博士は何かわからないけど言ってやった。
 サイズ的に入らないらしいが、向こうは構わずゴリゴリ押しこんできて数センチほど見えるようになった。すると博士には、それが何かわかった。
「スコーンなんて今いらないよ!」
 普段から食べているのだ。ドラッグストアで78円で安売りしているのだ。手が汚れるのだ。
 中のスコーンが明らかにくだける音がするし、密閉された空気がドアの向こうで引っかかっているのもわかった。
「ドアの下からスコーンなんて入るはずないよ。つぶれたらおいしくなくなっちゃうんじゃないの。食べる気しなくなっちゃうよ。空気がひっかかってるんでしょ、空気とスコーンが」
 すると、スコーンが引っ込んで、向こうでボフッと袋を開ける音がした。そしてまたギザギザ頭を出すスコーン。ガシガシくだける音をたてながら、スコーンの袋がどんどん押し込まれてくる。
 そしてやがて、こちら側に、若干のスコーンが入った薄っぺらい袋だけが丸見えになった。スコーンと書いてある。それが、最後は勢いをつけて小さく飛んだ。結構飛んだ。
「ねえ、袋全部開けたでしょ。そんで全部そっちに出ちゃったんでしょ。そりゃあそうなるよ。どうするの全部出ちゃって。床も汚れたでしょ。こんなことになってしまって、どうするの。こんなことをしてるのは誰」
 向こうは何も答えず、それどころか、すぐにスコーンの欠片がいっぱい、ドアの下をくぐって飛ばされてきた。床に足をすってスコーンを蹴り飛ばしている音がする。それがずっと続いて、一袋分と思われる分が、全部博士の部屋に広がった。一番飛んだ奴はベッドのそばまできており、あとは一個、大きいのに形が崩れていない奴があって、博士はそれをジッと見つめた。部屋汚れちゃった、と思った。
 すると、向こうでテレビのつくチュピンという音がかすかにして、「一方そのころベッキーは……」という声が聞こえ、それから番組のにぎやかな感じのほかは何も聞こえなくなった。音量が下げられたのだ。