猿時計、電波の彷徨い

 起床。家族5人そろって朝ごはんを食べるというそれが変わらぬ日課で、日曜日の朝も例外ではなかった。適度にバターが塗られたトーストや脂ののったベーコン、コブサラダ、フルーツを平らげてしまうと、もう一度寝入るなんて器用なマネはできない。チンパンジーだから。
 インドアな趣味と退屈をもてあます姉貴や妹の喧噪に巻き込まれるのはごめんだから、唯一のコーディネートであるB-BOYファッションに着替えて、気に入りの黄色い肩掛けカバンにフルーツをつっこんで出かける準備。後はわずかな小銭のほかに特に持ち物はない。チンパンジーだから。小さい頃から持たされたから持つようになっただけだ。
「あれ、出かけるの?」と洗面所で入れちがいになったスウェット姿の姉貴が驚いた様子で言った。「ちょっと待って!」姉貴は俺の肩をたたいてそう言うと、こちらの反応も見ずに階段をかけ上がっていった。
 チンパンジーとしてホキャキャと追いかけそうになるのをグッとこらえて玄関で佇みドアをじっと見ていると、戻ってきた姉貴が勝手に俺のバッグを開ける音がして振り返った。
「駅前、行くでしょ?」
 姉貴は大仰なベルのついた青い目覚まし時計をわしづかみに持っていた。「ガオオ」と意味不明に小さくうめいて、それを俺の顔へ近づけたり遠ざけたりして俺はびっくり。思わず唇をめくれ上がらせ歯ぐきを見せる。排泄時もすぐめくれ上がるのだが、それはチンパンジーだから。
「コレ持ってって」と姉貴は言った。腕の動きが止まる。
 あっけにとられて時計を見つめて、デジタル表示が3度変わった。そして触ってしまう。確かめたいから。確かめたいからテレビとかもすぐ指で触ってしまう。リンゴがもらえるかもしれないしと思ってしまう。もらえた実績があるから思ってしまう。
「昨日言ってたじゃん。電波、駅前なら入るでしょ」
 うちには電波時計の電波が入らない。妹が自分のを探知機のように家中うろついてみたけどダメだった。俺が屋根にのぼってもうんともすんともない。父さんのをベランダに一晩出しておいても無駄だったし、夏場だったのがいけなかったか、朝露が液晶にまじって内出血したように黒くなった。誰も時間にルーズじゃないから何となく電波時計を買ってしまうくせに、うちの時計はみんな少しずつずれている。そういう話を昨日の夕飯の時にしたんだった。
「あ、お兄ちゃん、あたしのもお願い!」どう聞きつけたのか、妹もリビングから声を張り上げて二階に上がっていったし、母さんも何も言わずにスリッパをパタパタいわせて寝室の方に行った。その間に、姉貴は俺のたいせつなフルーツたちをいったん取り出して床に置いた。
「これで包んだ方がいいんじゃない?」
 母さんが二つの時計と一緒に持ってきたフルーツを包むネットを姉貴に渡し、時計はひとつひとつ丁寧にくるまれた。母さんは姉貴の手元を見ながら「これで壊れたりはしないでしょ」と得意げに言った。姉貴は余っていたネットでフルーツも包むと、ごった返す時計たちの上にそっと置いてカバンをしめた。
「ももがつぶれちゃうから、気をつけて歩きなさいよ」と姉貴は言って俺の肩を小突いた。
 気をつけよう。そう心に決め、俺は石でも詰めたように重くゆがんだ黄色いカバンを肩にさげて家を出た。

 チンパンジーが明るいうちから繁華街に一人で出かけて何をするわけでもない。
 カバンをのぞくと、大小5つの時計がねむっている赤ん坊のように静かに時をきざんでいる。時……。意味わからないけど、時をきざんでいると思ってしまう。そう言っているのを聞いたことがあるから。聞いた実績があるから。
 あてどなく2時間歩きまわっていつの間にか住宅街にいた時、角から警官が二人現れた。
「いたぞ!」間髪入れずに警官が叫んで身の毛がよだつ。
 一人が大きな網を持っていたので、俺はもう手をついて逆方向に走り出していた。これまでに何度も、警察に大きな網を持たれたことがあるから。その時ろくなことが起こらなかったという実績があるから。わけがわからなくても、わけがわかる前に走り出してしまう。そのような本能がチンパンジーの遺伝子に組み込まれているらしい。
 密着したバッグが跳ねて時計の重量が骨身に突き刺さるようだった。それでも駆けた。住宅街にもけもの道はある。細く硬いその道を駆けた。建物の反対側から、多くのヒトの足音がバラバラバラバラと機関銃のように遠く響いている。わずかに空いた家と家の隙間の室外機の上に飛び乗り、少し何か食べたい。新鮮なオレンジなどを。バッグを体の前に回した時、窓辺のカーテンが動いた。ガラスの奥にヒトの白っぽい顔がのぞき、そいつが大げさに動くと同時に俺が飛び退いた塀の上、そこに右からまっすぐ届いた大声。見やると道路に面した塀に警官。その顔だけが「こっちだ!」とまた大声で叫んだ。俺は風通しのある方へ急ぐ。B系ファッションで急ぐ。
 道の方へ出ようと、卒業を控えた小学生が校内の敷地に植えるような幼木ほどの高さの塀から飛び降りた。突然、衝撃とともに背後から上半身を締め付けられ、背中から壁に激突、たまらず発した己の獣声を己の耳で聞いた。
 俺は宙づりになって塀に押さえつけられていた。喉から漏れ続ける獣の金切り声が俺をあせらせ、重たいバッグが塀とフェンスの隙間に引っかかったのだとわかるまで時間がかかった。
 辺りを旋回していたバラバラバラバラ、という足音が急に目的を持った感じで、みるみる大きくなってきた。そこら中で窓が開きかける音が聞こえた。
 こんな筈はない。俺はせき立てられるように考えかけたが、様々な不安の物音が言葉の羅列を引き裂いて剥いてしまった。俺は一瞬のうちに暴れた。大暴れした。チンパンジーとしての力を覚醒させ、悪鬼のように暴れ狂った。獣の声が漏れるのも構わず、四肢でもって手近なものを手当たり次第につかみ、無闇にそれを引きはがそうと滅茶苦茶に動き続けた。それでも一向に事態は改善しない。
 息を吸った。目を開けた。はたと気づけばヒトが間近にいた。何人も。行く手をふさぐように狭いところに列なして詰まった紺色の群れ。わずかな風も出入りができずにもうやんでいる。声を止めた俺がまったく動けないのを悟ってか、紺色の群れは躊躇しつつもあせる様子なく、そこらで相談事を囁きながら一定の距離を保ってこちらを見つめている。
「病気は?」「わからん」「何ザルですかね?」「わからん」「アジア系ですかね、動物園で人気ない細いサル」「かなり深刻な病気をもってそうだな」と緊張感のない会話が聞き取れたその時だった。
 ジリリリリリリリ!! けたたましい金属音と強烈な振動が俺の背中を撃った。

 気づけば音はやんでいて、俺の荒い呼吸の音ばかりが幅を利かせていた。俺は地面に立っていて、バッグもしっかり体にくっついていて、そこらに液体というか尿がまき散らされていて、どうも俺が放射したものと見えた。警官たちは先ほどよりも半歩後ずさり、一様に身と顔を強張らせ、強い警戒の態勢をとっている。そこには不潔や伝染病への恐怖というような理性的なものではなく、より単純な弱肉強食に由来する恐怖がうかがわれた。
 ぐにゃりと折れ曲がったフェンスが目の端にかかって息を呑んだ。恐ろしいことが起こったにちがいない。だけどこうしてはいられない。身を翻して塀に跳躍し、ヒトのいない方へか細い塀を一目散に走った。

 街にもどった俺は激しい後悔を抱きながらマクドナルドの窓際の席に腰掛け、なけなしの金で買ったQooすっきり白ブドウを飲んでいた。喉が渇いていたせいだろうか、30秒かそこらで飲み干してしまった。喉が渇いていたせいだろうかと言ったが、すぐ飲み干してしまうのはチンパンジーだから。いや、チンパンジーでもないらしい。
「アジア系ですかね、動物園で人気ない細いサル」
 警官はそう言った。良くも悪くも様々な知識を複数のメディアから摂取していそうな現代風の知的な若者だった。そんな彼がいやしくもチンパンジーのことをアジアの細いサルなどと呼ぶだろうか。呼ぶはずがない。
 気づくと、ストローが無残に噛まれて穴だらけになっていた。すぐこうなってしまう。苛立ちの故ではなく、アジアの細いサルだからこうなってしまう。
 さっきの事もそうだ。完全に飛んでしまった。チンパンジーだったら理性を保てていたのではないか? チンパンジーやゴリラの類であれば、警官に囲まれようが目覚まし時計が鳴ろうが、叫び立て尿を漏らすなんてことがあるだろうか。
 思い出したくもない様々な記憶が数珠つなぎに呼び起こされる。
 サルでもわかる○○的な本を読むとたちどころに内容が頭に入ってきて一時期ハマってしまったこと。「チンパンジーやないか」とダウンタウンが発言した時にテレビの前で「なにを失礼な」というリアクションをとりつつ心の中ではかなりウケてしまっていたこと。動物園で、アジアの細いサルを展示しているゾーンからにおいが漂ってきて、かなり手前フラミンゴの所ですでにギンギンに勃起、実際に足を踏み入れるといとも容易く射精してしまったこと。余裕のあるB系ファッションのおかげで勃起も射精も家族にバレずに済んだこと。
 B系ファッションのことを除いた全ては、俺がアジアの細いサルであることに起因するのではないか。ヒトでなくてもチンパンジーならいいかと、正直そんな風に思っていたが、蓋を開けてみたらアジアの細いサル。街でもチヤホヤされないわけだ。こうしてマクドナルドでチョコンと座って可愛らしい飲み物をすすり、持ち込んだフルーツを両手で持って少しずつ前歯だけで食べる感じを実践していても完全に無視されているわけがわかった。努力や工夫は全て、天が与えたものの前では無駄骨に終わるほかない。過剰な期待をすればするほど、自分の首を絞めるロープは長くなっていく。
 ヒト、OL風の細身の女性が後ろを通った。その身がさりげなく感覚を研ぎ澄ませているのを感じ取る。サルだからはっきり感じ取る。このような警戒心のさざめきを俺は何度も味わってきた。アジアの細いサルとして。これがチンパンジーであれば、子どもたちは遠巻きに集い、OLは写真を撮影しSNSに鋭意投稿、拡散、誰もがかしこいかしこいと褒めそやし、こちらが掌を上にして腕を伸ばすだけで、チキンナゲットの一つや二つ、恐る恐るではあるが善意で差し出してくるに決まっている。途中で腹が満たされて床に転げ落とそうがなんだろうが、無邪気なしぐさと喜ばれ、彼女たちは言うことになるだろう。あらあらと……。

 その時、背後から肩を叩かれた。
 唇を最大限にめくり上がらせて振り返ると、同じクラスの吉仲という女だった。スポーツもやっていないくせにショートカットで、目が大きく唇のうすい女。
 吉仲は俺の形相に少し身じろぎしたが、特に何の感興も示さず言った。「何してるの?」
 俺は沈黙した。
「偶然だね。ていうかいつもそのファッションだよね。もしかしてそれしか持ってないとか? チンパンジーだから。ってそんなわけないか。いろんなの着てる人だっているし、テレビで見たことある」
 俺は、空気を喉に吸い上げながら甲高い音を上げ、牙をむき出しにして威嚇した。
 吉仲はさすがに一歩引いたが、取り繕うような笑顔で唇をさらに薄くして、俺を見た。
 俺はその大きな目が気になってしょうがない。怯えと共に怒りが沸き上がってきた。なぜなら、俺はチンパンジーではなくアジアの細いサルであり、そんな俺の倒錯した苦しみが吉仲にわかってたまるはずがあるだろうか。俺にもわからないこの干からびながらいつまでも消え失せることのない苛立ちの正体について、吉仲が何を貢献するというのだろうか。
「それ、何入ってるの」手を後ろに組んだ吉仲はカバンに目をやった。
 俺は反射的に黄色い肩掛けカバンに両手を置き、振り返るような体勢で吉仲に向かって口を開け、牙を剥いた。
「何だっていうのよ。別に取ったりなんかしないし。気になっただけじゃん。何なのよソレ。おつかい?」吉仲の人差し指が俺のカバンに近づいた。
 それでもなお俺は俺をチンパンジーではなくヒトだと思っているところもあるから。ヒトに育てられたという実績があるから。俺はヒトだ。だから、とうとう吉仲の手に思いきり噛みついた。
 注射針を差し込んだように一瞬で事が終わった。口を離して身構えた俺の体液は冷たく血走り、沸騰したようでもあった。吉仲は身を固くしたが、一つの声も上げなかった。間もなく指先から血が滴り落ちて、油がコーティングされたように光る床に弾かれて玉をつくった。
 ジリリリリリリリ!! けたたましい金属音と強烈な振動。カバンを抱きかかえるようにして、俺は飛んだ。階段を駆け降りる。腰を抜かして真っ赤な階段を背中から転げ落ちた老人、早くも死亡しているがまだ落下を続けているその脇を抜ける。サルだから死がわかった。サルだから安心して通り抜けた。家へ一目散に駆けた。

「おかえり、ちゃんと電波入った?」
 帰ってくるなり、朝と同じ格好をした姉貴が出迎えた。俺は黙って腹が空腹。
「確かめてないの? なんか、電波の表示が出たりするでしょ。それかピッて音が鳴るとか」
 電波は入ったかもしれない。入っていないかもしれない。俺は姉貴を見上げてまばたきを打った。
「あきれた。それじゃあ何にもなんないじゃないの。それじゃあただ持ち歩いたのと一緒よ」姉貴は責めるでもない口調でのんびり言った。
 俺はただ持ち歩いたのだ。俺はなおも黙っていた。
「使えないの」ため息ついて姉貴は言った。そしてリビングへ戻ろうと歩きかけた。
 俺は姉貴の背中を見ながら、どっちにしたって時計はこれ以外にないじゃないか、と言いたかった。どういうわけか、今ならそれを言うことができるという確信があった。試してみる価値があるような気がした。初めてそう考えることができた。肺の方だろうか。喉元だろうか口蓋の付け根だろうか。固く小さな異物が列を組んでこみ上げてくるような感覚を覚えた。
 俺は唇がめくれ上がらぬよう慎重に口を開けた。それからゆっくり息を吸った。順序が少しちがうかもしれない。サルだし。