忍者牧場

 僕はやっぱり父さんと母さんが犯人だと思う。母さんが作って、父さんが食べさせたのだ。だから犬小屋に手を掛けておばあちゃんが泣いている横で、二人は平気な顔で立っていた。かわいそうな白いタロ……。
 曇天模様の空の下、ほこりっぽい道路をご自慢のボルボが走る。ここはどこだろう。ずっと窓の外を見ていたのにちっともわからない。僕がいないみたいにしゃべる男と女の声は、後部座席まで届いてこない。
 車はしばらく真っ直ぐ走ったあと、何度か窮屈そうに曲がって駐車場に入った。
「着いたぞ」
 父さんの声から逃げるとはっきりわかる、いいタイミングで車から降りてやった。そしてさっさと、何台か離れて置かれている車を横目に、大きな木の間に造られたわざとらしい門の方に歩いて行く。
 幹が長方形にくりぬかれて、そこに「忍者牧場 しのびの里」と彫られて、なかなかどうしてグーな雰囲気だ。
 後ろで車のドアが少し乱暴に閉まる音が今さら聞こえたのは、父さんと母さんが僕のことについてあれこれ無駄な相談したせいだろう。
 入場受付の小さなプレハブ小屋の中に、忍者がいた。紫の装束を着ている。そのそばには、忍者服を着た、変わり身の術の木だ。その腕にかかった看板に入場料など書いてある。
「大人ども 800円   こどもたち タダ」
 父さんと母さんにしては、おもしろそうなところへ連れてきてくれた。気が利かない観光ばかりでいい加減げんなりしていたところだった。
 興味のままに視線を動かしていると、レンガを敷いて斜めに置かれた傘立てにプラスチックの忍者刀がたくさん刺さっていたので、一本抜き取った。
 手狭な四角い受付の中の忍者が、その中にかかっている四隅がハゲてしまって真ん中の歪な楕円でしか光を反射しない鏡越しに見ているのに僕は気づいた。少し見つめ合う形になったけれど、忍者は何も言わない。何も気にすることはない。
 雨ざらしの場所に置いているとは思えないほど、忍者刀はぴかぴかで、市販のものより鋭く尖っており、抱えることのできる動物なら殺せるであろうほど丈夫な継ぎ目を持っていた。この状態を維持するには、毎日欠かさない濡れぶきんでのお手入れが必要だろう。それがどんなに面倒なことか……。考えただけでも絶望的な気分になる。
 ありがたく目の前にかざすと、誰でも良いから逆手に返した刃でもって、くたびれた喉元を搔き切りたい衝動に駆られた。そして自由の身となって、タロとふたり旅に出て、ラーメン屋で食い逃げ、中学サッカー部の練習試合で置き引き、一生その繰り返しの生活をしたいんだ。ラーメンにハマっている奴らは全員むかつくし、中学生は試合の後いっぱい飲み物を買うんで安定して2000円ぐらい持って来ているから……。天気は毎日変わっても、人はラーメンを食べ続けるし、中学生は練習試合をし続けるだろうから……。
「あら、けっこうするのね」
 ゾクゾクしてくる背筋に母さんの声が当たって落ち、我に返った。振り向くと、母さんは眉をひそめて変わり身の術の看板を見つめている。イライラする、と僕は思う。だって、タダじゃないか。いや、父さんと母さんは自分達のことしか考えていないんだ。
「そうでもないよ、タダじゃないか」
 遅れてきた父さんがそう言って券を買った。さすが営業の長い人間だから、セールストークが機嫌に左右されない。でも、どうせ出すしっぽの長さを僕は知っている。それが無性にむかつくんだ。
 父さんが窓口に金を差し入れた瞬間、受付の忍者の目が父さんの肩越しに、離れた僕に向かって赤く光った。僕の視線がふらつきながら吸い込まれる。
 その瞬間、ビビった。僕と忍者の眼球が一本の針で串刺しにされ、一直線に、そして若干、視神経につっかえるようにして一気呵成に、ただならぬ指示が脳味噌に押し寄せてきて、僕の声で再生されたんだ。
(殺せッッッッ!!!!!!!!)
 でもそれは一瞬の出来事だった。全てのビックリマークが出終わる前に、忍者のトーンは基準線までダウン、お金をジャラジャラさせて「釣り銭400円だってばよ」と暢気なことを言っている。ものわかりのいい父さんの肩が少し動いた。
 なんだ、今の……。
 僕の心臓は早過ぎるほど打っていると思ったが、むしろ極端に鼓動が抑えられていた。脂汗の意味を初めて知りながら忍者刀を握りしめ、門をくぐった。
「何にも無いわね」
 森の中をぶらぶら歩きながらパンフレットを見て、母さんがまた文句を言った。無表情でのぞきこもうとすると、母さんが僕のためにパンフレットの位置を下げた。
 母さんは僕を見ないまま。こんな小細工に反応してはいけない。なるほど、敷地の真ん中に、東京ドーム内野分の忍者牧場があって、それだけらしい。
 離れて忍者刀を手のひらに打ち付け、あちこち見回しながら歩こう。決して目立つわけでもない一本の木に手裏剣が刺さっているのを僕は見た。赤い錆をふき、そういう茸のように木に馴染んでいた。僕はそこにタロが死んだ空間と同じような静かなにおいを感じた。タロへの愛を嘆くおばあちゃんも、それからもちろん犬殺しの二人も感じているように思えなかった、あの空気。何も入っていない中古ゲーム屋のショーケースの中みたいな空気。忘れられた手裏剣……。
 木立を抜けると、ゆるやかな下り坂の奥に、谷のように地面が落ち込んでいる場所が見えた。傍らに白い建物もあった。
「あれが忍者牧場ってわけか」
 間を埋めるための台詞がますます僕を間抜けにさせる気がする。舌打ちをするのも疲れ果てて、僕は今まで自分がどうしていたのか実に不思議に思う。いつかの僕は、ほんとだね、と答えていたのかも……。
 忍者牧場は東京ドームの内野分より広く思えた。ぐるりと柵が囲っていて、一周したら何分もかかりそうだ。動物園の猿山のように10mぐらい低くなった敷地の中には、木が生えて、川が流れて、まるで森の中だ。
「見て、川も流れてるし、ほら池もあるわ」
「こんなもんよく造ったなあ」
 ど真ん中にそびえ立つ杉の木は、外から見る目線より高くて、見上げるほどだった。僕たち三人は、どうやらみんなそのてっぺんを見ていたらしい。僕がそれに気づくのと同時に父さんが叫んだ。
「忍者だ!」
 杉の幹の細い先端に絡みついた柿色の服を着た忍者が、木ごとゆっくり左右に揺れていた。父さんの声に驚いたのか、幹をがっしりつかんで力ずくで滑らせた手の力で木片をはがしながら一気に猿のように滑り降りて、真ん中あたりで、びっしり生い茂るとがった葉にまぎれてわからなくなった。はがれた木の皮がゆっくりと舞い落ちていった。
「あはは、すごいね! 見た今の!? サルみたいに!! 忍者ってすごいわあ!!」
 母さんは本当に驚いて、テンションが上がっているようだった。なら、最初から文句なんか言わなきゃいいじゃないか。それとも、やはり僕のために気を遣って、わざとアッパーを装っているのだろうか。どうだっただろう。
「筋力と敏捷性がハンパじゃないな」
 営業部の方は、忍者を見ても家でわざわざBSで野球を見ている時と同じような物言いをしている。
 忍者はこんなに凄いのに、ズボンにさした忍者刀は、シャツの下で地肌にあたってひどく冷たい。僕は少し楽しいのに、真面目な顔に浮かべたへの字の口を、頬杖の上でゆがめてみせている。それもこれも誰のせいだ。タロを殺して忍者を見せる、二人のせいだ。
 僕は手すりにつかまりながら移動していったが、二人は少し距離を置きながらついてくるのだった。そのせいで、話し声は一番腹の立つ音量で聞こえてきた。
「見ろ、あそこの忍者はジャージ着てるぞ。傑作だな」「どこのメーカー?」「知らん。にしてもさっきの忍者デカかったな…2メーターぐらいあったな」「ねえこれ忍者同士戦ったりしないのかしら。ケンカとか?」「エサとかもらってるんだろう」「なによエサって」「イモかなんかだろ」「なんでイモなのよ(笑)」「干し肉とか」「ねえ、なんなのこの施設」「しかし、ぱったり出てこなくなったな」「普通こんなとこ来ないわよ? バカよねえ」
 うるさい、くだらない、つまらない。ゲボの臭いを必死で思い浮かべる。
 ちょうどその時、忍者が木と木の間をさささと横切って行った。
「あ、よぎった!」
 母さんが短い声を出す。
「よぎったじゃねえよ、タコ」
 聞こえないぐらいの声で言っても何も変わらない。いや、ちがう。僕は目をこらす。たった今よぎった忍者が木陰の池の縁、二人からは見えないところで何かのプレートを洗っていて、こっちを見ている。頭と口元は覆われて、目元の隙間から、本当に小さい、赤い光が、まただ。
(殺せッッ!!)
 一瞬で頭を埋め尽くしたその言葉が呼び水となって何か刺激のある物質がしみ出る。気分が悪くなってきた。お腹の忍者刀がますます冷たくなってきた気がする。
 具合が悪くなってきた僕は、なるべく木の緑を見るようにして、忍者のちらちら飛び交うフィールドの周りを一周して、さっきは寄らなかった白い建物のところまで戻ってきた。
「けっこうおもしろいじゃないね」
 母さんが話しかけてくる。忍者を見たぐらいで、タロを殺したこと、忘れてるんじゃないだろうか。あの言葉が頭をよぎる。ところがお腹の忍者刀は、本当の刃物になってしまったように冷たくひっついて、僕の腰は引けている。背筋を伸ばすだけでお腹が切れてしまいそうだから。
「いや、ここは、おもしろいぞ」
「でもさ、何のために生きてるのかわかんないわよねえ。こんなところで、かわいそうに。あ、エサだって」
 見ると、のぼりに「エサ 500円」とあった。屋台の中にはリンゴやバナナが、ぞんざいに積まれていた。
「うん」
 自分で言ったくせに、母さんはその場に漂った何かを納得させてたたみ込むようにつぶやいた。
「あげようよ」
 僕は言った。わずかに渋い顔と顔に向かって。
「よし」
 父さんは母さんをあごでしゃくって、母さんはカバンを前に回して財布を出した。
 すると、屋台の下から忍者が顔を出した。母さんが、あっ、と女の声を出した。
「リンゴとバナナのセットで500円だってばよ」
「これって、忍者はこんなものばっかり食べてるわけか?」
 えらそうな口調で訊ねる父さんの背中が僕はいちばん嫌いだ。
「いかにもだってばよ」
「イモとか、干し肉とかは食わんの?」
 母さんがちょっと笑って、僕の方ではお腹の忍者刀がキンと鳴って痛みが走る。めくってのぞいたら、忍者刀は霜を走らせて、僕のお腹の肉に冷たくバリバリとくっついていた。柄を持って引っ張ると、肌がぴんと膜を張った。
 忍者は目を閉じて言った。
「イモを食べさせると、味がどんくさくなるってばし、肉を食べさせると、味が下品になるってばよ」
「味?」
「そろそろお昼ですから、お食べになってはどうですか」
「ん?」
「どうですか」
 父さんと母さんが顔を見合わせる。
「忍者をか?」
「他に何を?」
 なんだろうこの感じは。深い谷底からにらむものがある。うしろから僕をにらむ青いものがある。霜走った忍者刀にどくんどくんと熱い血が流れる。これをひっぺがして使用するなら、相当の痛みを覚悟しないといけない。そんな勇気が僕にあるのかはわからなかった。そのままにしておく方がずっと楽なことはわかっている。
「食べられるのか……?」
 少し動じた父さんは真面目な口調になった。さっきなめた口をきいていたのが、みっともない。僕はシャツを戻して、冷えた手をポケットに突っこんで言った。
「食べようよ」
 その言葉で、忍者は話し相手に僕を選ぶことにしたらしい。
「そうこなくっちゃってばよ。自分で捕まえることもできるってばよ」
「どうゆうこと?」
「上から、忍者を仕留めよう。仕留める道具はレンタルしてる。ってばよ」
「道具って?」
「手裏剣も、吹き矢も、忍たま乱太郎に出てきたやつは大体あるってば。ところが忍者は素早い……ファミリーにはなかなか難しいから、忍者が使わない弓矢も、拳銃も、子どもたちの憧れナンバーワン武器、バズーカも用意してるってばよ」
「ちょっと、本気……?」
 淀みない説明に怪訝な顔した母さんを無視して忍者は僕に続けた。
「バズーカは、そのまま当てずに近くを撃って爆風で気絶させなきゃ弾け飛んじゃって意味無いってばよ」
「忍者の肉ってどんな味?」
「鳥のササミみたいな味…だってばよ」
 心なしか、言うと思った、という気がしたけれど、僕は無性にそれが食べたくなった。
 それを食べたら、いや、食べてもいいと二人が許してくれて、僕のためにお金を出してくれるなら、このゴールデンウィークのつらい出来事が、全部とは言わなくても、少しは報われるような気もした。そして、この先の人生の散々な穴ぼこやひび割れを埋めるだけの厚い布きれを持たされるような、そんな悪くない気分になるだろうと期待した。
「ハジメ、行くぞ」
 でもやっぱりダメだった。父さんは様々な感情に背中を押されてもう歩き出している。タロは殺したのに、忍者は殺してはいけないし、食べてもいけないのだと、考えずに感じているらしい。
「ハジメ」
 父さんを追いかけはせず、母さんがその場で僕を呼ぶ。ほらあっちへ行こうと誘いかける、何度も聞いたその声。僕の名前を呼ぶ声。
 父さんが厳しい態度をとっているのは自分に対してだし、母さんが甘やかしているも自分自身だ。そんな言葉をかけるぐらいなら、僕を信じて、僕の思った通りにさせて欲しい。僕の名前を、他の誰もしないような、特別なように呼ぶのなら、なぜもっと僕のことを考えてくれないのか。
 忍者刀はもう熱い。霜が溶けて、ズボンのゴムが濡れている。
「もう、帰ろ」
 いやだ。母さん、僕に忍者を捕まえさせて。そしてその肉を食べさせて……。
 僕は意を決して忍者を見る。この忍者の目は僕を脅してこない。それどころか、僕に良く考えろと忠告をするみたいだ。僕は忍者を捕まえたいわけでも、殺したいわけでも、食べたいわけでもない。自分でもよくわからない......。
「ハジメ」
 登里ハジメ。気の毒な男の子。忍者を食べることもさせてもらえなかった。何も忍者を殺したかったわけじゃない。僕の名前を知っているだけの人から、朗らかな声でもって、あなたはどんな人間かと聞かれて無理やり自分を褒めなければいけない時に、口ごもることなく少し笑って、子供の頃に旅行して、忍者の肉を食べたことがある。そのためだけでもよかったのに……。
「あの、エサだけもらえますか」
 母さんは、立つべき場所も言うべき言葉も失った僕の前に出て、500円玉を忍者に渡した。
「ありがとうございます」
 服の上から思い出したようにお腹を撫でると、忍者刀の先端が斜めに何センチか肉にもぐってしまっていて、柄の部分を体に沿って押しつけると、くっついてしまった肉の継ぎ目が外へ引っ張られてちょっと痛んだ。
「バナナ1本、サービス」
 左手で人差し指を1本かざしながら、バナナ2本とリンゴ1つを忍者は僕に差し出した。
 やけにざらざらした傷だらけの果物。埃がまとわりついたようにくすんだ赤や黄色。忍者のサービス。怒りと恥じらいで僕は胸がつまった。
 目の前にあるこんなものに僕は負けない。こんなものを許し合い関わり合うきっかけにしたくはない。お願いだから、そんなものを差し出さないでくれ。
「いい、私がやる」
 不機嫌そうに忍者のエサを受け取った母さんは、忍者牧場とは名ばかりのコンクリートで象った大穴へと足早にずんずん歩いて行った。その見慣れた足取りの奥で、父さんが木陰のベンチでタバコを吸っているのが見えた。そこだけ日陰の涼しい空気に青っぽい煙がわだかまっていた。
 手すりまで来た母さんはかがみこんでバナナとリンゴを地面に置き、バナナ一本を下に力を込めて投げた。
 なんとなく後をつけていた僕がのぞきこんだ時、バナナはちょうど、ぱしゃんと虚ろな音を立てて、池に落ちて、ゆっくり浮き上がってくるところだった。バナナが浮くのに驚いた。
 そして、バナナが水面に顔を出した瞬間から、僕は目を奪われていた。
 四方八方から、忍者が一斉に飛び出して、1本のバナナに向かって抜き手を切ってバシャバシャと泳いできた。派手な音を立てながら、水面があっという間に忍者だらけになる。遅れて木の上から飛び込んだ忍者のせいで、派手な水しぶきが上がる。先に届いた波に担ぎ上げられて、バナナは1mも上下している。
 一足早く、一人の忍者がバナナをつかみ取ると、忍者達は争うこともなく、また一斉に元来た池の淵に引き返し、水をしたたらせながらあらゆる物陰に消えて行った。またすぐに静寂が訪れて、池の波紋だけがあちらこちらで音も立てずにぶつかって消えていった。
 しばらく僕は呆然としていた。母さんも同じだった。
 派手な音を聞きつけて、父さんがタバコをくわえたまま駆けてきた。
「おい、どうなった。えらい音したな」
「すごいのよ、忍者」
 母さんは父さんに言いながら、父さんの方だけを見て、僕にリンゴを渡そうとした。
 それでも、僕は手を出すことができなかった。かじかんだ手は動かず、僕のポケットから、母さんがあきらめるまでいつまでも出てこなかった。うつむいた体勢では、忍者刀がなお刺さる。
「見てて。今度、リンゴね」
 母さんは無理やり明るさを含ませた声を父さんに向かって張り、リンゴを池に向かって放った。
 父さんが一瞬こちらを見るのが、視界にちらついた肌色の広がりでわかった。お腹の継ぎ目がかっと熱くなる。リンゴが池に向かってゆっくり回る。僕は母さんの陰から目をやる。それにしても、ここには全く風が吹かない。
 リンゴが水を打った。沈んで、そして、浮き上がる。忍者は一人も現れない。
 しばらく見て、きれいに広がった波紋もそのまま消えた。
 ぷかぷか浮かぶリンゴ。
「なんだ、何にも起こらんぞ」
「あれ? おかしいわね。さっきはあんなに……」
 母さんが力なく笑った。
 拍子抜けした僕たちは、きっと、こんな時だけ同じ思いになる。そして、それで機嫌を直したつもりになるのだ。でも、このとき僕は深く深く傷ついていた。些細な幸せに満ちたごまかしに決してだまされない繊細な弱さを大型連休のうちに身につけていた。実際、僕にはそれが気に入った。この服を着ていこうと決めてしまった。まして、それを人前で脱ぐ気になんてなれなかった。
 だから、再びバナナを投げて、忍者が一斉に出てきて母さんが思わず噴き出した時も、今度は少し奪い合いのような形になった時も、お腹の忍者刀の柄を握りしめていた。
「バナナが好きなんだな」
 そして、少し押しつけることで生まれる安心感に身を任せたまま、家族を見ていた。家族から見られないようにするために、見ていた。
「ねえ、あれ杉田さんじゃない?」
 再び下が大人しくなった時、突然、母さんが言った。
 ちょうど反対側を見ると、同じマンションの4階に住んでいる杉田さんの親子がいた。3人の子どもたちのうち、一番上の4年生の子がバズーカを持って悠々と先頭を歩いている。
「杉田だな。こらまずいな……行くぞ」
 父さんが言う。
「これ、どうしよう」
 母さんが不安そうにバナナを見せる。
「はやく、音立てないように隅っこに投げちまえ。忍者が騒ぐから」
 噛んでねじり上がったタバコを口の端に寄せながら、母さんから奪い取るようにしたバナナを手すりに滑らせるように落とし、行くぞと言った。
 気ぜわしく歩き出す二人の動きに逆らうように、僕は下をのぞいた。バナナは茂みに落ちたらしくてもう見えない。茂みから何者かに持ち去られるガサガサという音がして、すぐに遠ざかった。葉っぱの揺れも、ものの2秒で元通りになってしまった。
 これで予定は全部終わってしまった。
「ハジメ、ずらかるぞ」
 お腹でずぶりとくぐもった音がした。
 何がまずいんだ? お母さんが杉田さんとマンションの理事会でもめて以来、エレベーターで一緒になっても挨拶してもらえないから? 駐輪場に置いていた自転車がパンクしていることが何回かあったから?
 それが、旅先でサービスしてもらったものをどぶに捨てるほど大事なことなのか僕にはわからなかった。そして、こういうみじめな損をしながら、もっと大きな損をせずにすんだと胸をなで下ろして生きていくことが、自分をよりみじめな方に知らず知らず運んでいくのだろうと考えた。
 僕は、もう既に中ぐらいの大きさに見える父さんと母さんを省みないでそのまま立って、谷底を見下ろしていた。背中に感じる弱いしびれの無さにより、二人が僕をあきらめているのがわかった。それよりもここから遠ざかりたいみたいだ。
 僕はポケットから昨夜のまずい肉団子を取り出した。半分にかけた肉団子は乾ききって、親指でなでると挽肉の粒がぼろぼろくずれてくる。
 握り直して思いきり投げた。非力な母さんが投げた所よりもっとずっと奥、長くのびた池の中央まで届きそうな放物線を描いて落ちるその前から、もう忍者の連なる黒い輪が、池を取り巻くように飛び出してきた。バナナの時よりずいぶん数が多い。ここにいる全ての忍者が集まってきているのだろう。
 時を待たずに響いた猛烈な水音とともに、白い飛沫が池の淵から厚い層となって立ち上がり、灰色の点にしか見えない肉団子があげた小さな飛沫の方へと集まっていく。
 僕がもっと小さかった頃、どこかの池で家族でせーので鯉にエサを投げ与えた時、こんな感じだった。藍色に淀んだ水面の宙を埋め尽くした白いパンくず、その一瞬のことを、写真みたいによく覚えている。
 いま僕は独りになってしまったけれど、だから、何にも左右されずに、別のことをもっとよく、深く考えられるようになった。
 忍者、ガンバレ。ガンバレ、忍者。
 肉団子が沈んだ場所へうねるようにせり上がった水の寄せ集めを頂点にして、その近くにいる忍者から順番に、ドミノ倒しのように水中へ潜っていく。池に一瞬、藍色のひまわりの花が浮かんで、すぐ崩れていった。
 少しして、肉団子の落ちたところから、一人の忍者がゆっくりと顔を出した。口当てが下ろされて、顔が全部見えている。僕は嬉しくなった。
「モグモグ」
 その音がはっきり聞こえた。一番速くて、強くてたくましくて美しい、すばらしい忍者。そいつが僕のあげた肉団子を勝ち取り、食べている。
 他の忍者が一斉に浮き上がってきた時、最も強い忍者はそれを一度に全て吐き出した。苦しそうに、喉に手をやって。その動作で、声にならない声がかすかに聞こえるような気がした。タロもそうだった。
 でも、一度、意志を持って自分の中に入れたものを全て忘れることなどできやしない。それはみんなに平等にあたる罰(ばち)なんだ。
 忍者は頭巾も後ろにかきむしるようにやってしまって、意外に長い髪とハンサムな顔立ちをさらしながら、自分の喉に、恐るべき強さで指を突っこみ、そのまま手首まで入れてしまった。間髪入れずにその栓が抜けると、少し黄土色に色づいた水っぽいものが噴き出た。タロにそんな器用なマネはできなかった。
 池はそこだけ少し濁ったけれど、忍者はその中へ、甲斐無くゆっくり沈んでいこうとしていた。すでに弱くなった咳を、せめてもの慰みに、何度かこの世に残そうとしているように見えた。他の忍者は、その音を聞くために大人しくしている。
 これで忍者が食べられるかもしれない。そしたら僕は救われるかもしれない。その時、全てを揺るがす爆音とともに、僕の獲物が派手な水柱とともに吹き飛んだ。
 忍者でいっぱいだった水面に、氷が割れたような穴が空いて、蒸気がゆっくり水面を流れて、残った忍者の顔を隠した。少し遅れて僕の顔にも熱い風が届いた。
「ギャーーーーハッ!! ギャーハッハッハッハ!!!」
 見れば、家族四人でバズーカを構え、指をさして爆笑する杉田家。ヒーヒーと苦しそうな声。
 あいつらは最低だ。何が最低かわからないぐらい最低だけど、あの家に生まれていれば、僕はこんな思いをせずにすんだかもしれない。だってあいつらは僕に気づきもしないじゃないか……。
「いって」
 お腹はもう何ともない。背中から刃先が1ミリ飛び出して、僕のゴールデンウィークはもう終わり。