ホームステイの記憶

 日本にホームステイをして帰ってきたカールの様子がおかしいことに気付いたのはまず弟、そしてお母さんだった。お父さんはいなかった。アメリカに帰ってきて以来、カールが、これは前からだが全然部屋から出てこないし、出てきたと思ったら終始ポケットに手を突っ込んで伏し目がちだし前髪長いし、これも前からだが何やらアニメソングを小声で歌っているし、それに何よりだいぶ前から働いていなかった。一生のお願い、日本に行かせてもらえれば働く、と言っていたのにもかかわらず、働きやしないのだ。
 これはおかしいと心配になった家族はカールを病院に連れてきた。
「先生、お兄ちゃんは普通のお兄ちゃんに戻るんですか!」
「大丈夫だよ。何か原因があるはずだから、それを取り除いてあげればいいんだ。お母さん、お兄さんは日本にホームステイに行ったということですが、これは日本で何かあったのかもしれません。今から、催眠で探ってみます」
「お願いします。あんた、今から診てもらうんだからね」
「別に今話聞いてたし。勝手にしろよ。こいよ」
「なんでそういう口のきき方しか出来ないのあんたは!」
 穴の開いた小銭がないアメリカでは、代わりにドーナッツをヒモにぶらさげるのだ。どうしても左右にブラブラさせたいのである。そうして、催眠療法が始まった。カールはうとうとしてきて、ソファに横になった。
「カールさん、カールさん。あなたは日本にいますね?」
「う……ああ……オハヨウゴザイマス、オハヨウゴザイマス。日本の皆さん……」
「お兄ちゃん!」
「静かに。お兄さんは今、日本にいるんです。二日目の朝です」
「俺は……俺は秋葉原、アニメ伝説の地、秋葉原に行ければよかったんだ……それだけだったんだ……そのためにホームステイに申し込んだ……なのにどうしてこんな民家で……」
「あんた、そんなつもりだったの! そのためにホームステイしたの。何を考えてるのあんたは! お母さんをだましたんだね!」
アキハバラって何? お兄ちゃん、何!?」
「……秋葉原は、とにかく素晴らしい、夢のようなところだ……俺の胸を、アニメを見ている時のように高ぶらせたのは、現実の場所ではあそこが初めてだぜ……血が……沸騰する……!」
「あんた先生の前で何言ってるの! 秋葉原でなんだって!? あんたこの前、グランドキャニオンみんなで行ったじゃないの! 秋葉原がそんなにいいなら、グランドキャニオンはどうだったの!」
「あれは、別に……ただ茶色いところっていうか……」
「そんなふうに思ってたのあんた! せっかく連れて行ってあげたのに、本当に連れていき甲斐のない子だよあんたは!」
「お母さん、もういいですか。続けますよ。カールさん、秋葉原に行ったんならその話はあとから聞きますが、戻ってください。朝起きて、どうしましたか」
「うぅ……朝、朝起きて……そうだ……家族そろって醤油顔の奴らに、よってたかって無理やり起こされた……眠い……そうだ、深夜アニメを見せてもらえなかったんだ……それで悔しくて、眠れなくて……クソが、あいつらは本当にクソだ。その代わりに、夕方に……確か……あれはそう、サザエさん……? そんな名前のアニメを見せられた。萌え要素がまったく…いや、パンツが……いや違う。あれは違う」
「何が違うのあんた!」
「あれは違う」
「お兄ちゃん何が違うの!?」
「俺が求めているのはあんなのじゃない……あいつらは何もわかっちゃいない。これがザ・日本アニメだとかなんとか言っていたが、何をとち狂ったことを言ってやがる……俺は日本といえば、ジブリに並び立つ存在は京アニだと常々ブログで批評を……なっ……まさかこいつら、俺のブログを読んでいないのか……?」
「あんたはさっきから何をわけのわかんないことを言ってるの! 人にわかるように話しなさいっていつも言ってるじゃないの! だからあんたの話は通じないんだよ! おじさんにも言われたろ!」
「カールさん、早く朝ご飯を食べてください。朝ご飯はどうですか?」
「朝ご飯……? これは、朝飯なのか? う……うわー!」
「お兄ちゃん!」
「なんだ……なんだその茶色い腐った豆は……食べたくない、止めろ、食べたくないって言ってるだろ。……いやだから………なんだ、さてはこいつら……こいつら、俺がこれを口に入れて、まずそうな顔をするまで止めないつもりだ……それが見たくて見たくてたまらないんだ。こいつら、いったい何人の外国人を食いものにしてきたんだ……こいつらは決して止めないんだ……そろいもそろって歯を見せてニタニタ笑っていやがる……止めろ、そんな目で俺を見るな……食べたくない。うう……シリアルを出せ、シリアルを……」
「あんたそういうのは食べればいいじゃないの、せっかく出してくれてるんだから! 郷に入りては郷に従えって言うでしょ! 本当に言葉知らないんだからあんたは! 大体あんた、腐った豆って、納豆も知らないの! 有名でしょ! いったい何のために日本に行ったの!」
「だから聖地巡礼のためだって言って……」
「なんなのそれは! なに聖地って、秋葉原のことなの! 何をわけわかんないこと言ってるのあんたは! お母さん、そんなことのためにホームステイさせたわけじゃないのよ! 日本文化を学びたいっていうから、ちゃんと勉強してくると思ってお金出してあげたのに、これじゃ遊びに行っただけじゃないの!」
「うるせえよババア……マジうるせえし……」
「何うるさいって! お母さんがいなきゃなんにも出来ないくせに! インターネット代だって、お母さんが払ってるんだからね!」
「別にあんなもん定額だし」
「定額って言ったって、お金なんだからね! あんたはありがたみを知らないんだよ! 自分で稼いだことがないからわからないんだよ!」
「お母さん、落ち着いて。普通に会話しないでください。さて、カールさん、納豆をいやがって、日本の皆さんはどうしましたか?」
「醤油顔の悪魔ども、それでも茶色いネバネバをすすめてきやがるとは……おっ、おふ…泡だってんじゃねえか! ブクブクじゃねえか。その、容器の、何で出来てんだその容器。発砲スチロール? 気持ちの悪……ん? だから食べねえって……こいつら、まったく聞き分けがないのか……? いよいよ、俺がこいつを口に入れるまで止めないつもりだな……いい度胸だ、こいよ……こうなったら意地の張り合いだ……NOと言えるアメリカ人の底力、思い知らせて……やめ……それ以上しつこいようだと温厚な俺も……な……え……あっ一緒に? ご飯と一緒に……?」
「お兄ちゃん物腰弱っ!」
「食べたんですね?」
「……」
「あんた、ちゃんと食べたの!?」
「お兄ちゃん、おいしかった!?」
「日本の奴らめ、上機嫌で笑っていやがるぜ……俺が仕方なく食ってやったというのに、へっ、俺の手の平の上で暢気な奴らだ……」
「お兄ちゃんかっこ悪っ!」
「どうしてあんたはいつもそうなの! どうして素直になれないの! そうやって人を見下して、いつまでもそれじゃ生きていけないんだからね!」
「食べ終わって、何をしていますか?」
「なんだ、何を持ってきて……なんだそのカラフルな紙は。折って……折って遊ぶだと……? テレビゲームがあるのに、わざわざ紙で……? 自分達でNES(Nintendo Entertainment System)を生みだしておきながら……正気か……? イエローモンキーの考えることはわからねえ……まるでスーパーモンキーズだ……くくく……後のMAXかよ……こりゃいいや! 俺は、お前らの指図になんかのらねえ……そんな紙遊び、俺は絶対に、絶対に…………あっ青の、じゃあ青の紙で……」
「お兄ちゃん物腰弱っ」
「なっ……手が湿りすぎているから拭いた方がいいだと……うるせえよ、誰に抜かして……余計なお世話だよ。ほんと余計なお世話。手汗じゃないよ。言うな……そういうこと言うなよ……なんでそういうこと言うんだよ。折り紙が濡れて透けちゃってるとか……そこまで言う必要……」
「お兄ちゃん手汗すごっ」
「なんであんたは手をキレイにしておかないのみっともない! ハンカチ持っておいてこまめに拭きなさいって日頃から言ってるでしょ! あんたハンカチ五枚持ってったじゃないの! 新しいのも二枚入れてあげたでしょ! どうして使わないの! お母さんが恥ずかしいんだからね!」
「うるせえし、うるせえし…………大丈夫だし。ほらほら……見ろ、こうやって拭けばキレイになるんだから。手汗っていうか、たまたま濡れていただけなんだ。もともとはキレイなんだ。そうだよ……日本に来てわからないことだらけだったから、手もいつもより濡れたんだ。ていうか湿気……日本は湿気が凄いのは本当だった……そうなんだ。体質とか言うな……なんで手汗とか体質とかそういうこと言うんだよ……うるせえよ、わかってるよ……」
「そうだ! お兄ちゃんのマウスパッドはプールサイドみたいになってるんだぞ!」
「そのとおりだ、思い知ったかくそやろうどもめ。家では靴を脱ぐくせに、人のプライバシーに土足でどかどか……黙ってろよ。折り紙を折るんだろ、いいから早く本題にいけよ。早く……そうだ、そうやってさっさと始めればいいんだ。何を折るんだ。折って何が出来るっていうんだよこんな紙で……鶴だと……? 鶴……いやだ、手裏剣を折らせろ。俺は手裏剣を……な……こいつら、またしても、こっちが鶴を一匹折るまで迫り続ける気か……ぐいぐい来てやがる。バカな……本当に日本人かこいつら。何が沈みかけた船で『みんな飛び込みましたよ』と言ったら海に飛び込むだ……こいつらは飛び込まない……こいつらは『イチロー凄いね』と外人に言われた時にだけ、御満悦の顔で海に飛び込むんだ……なんてしょうもない奴らだ……。そんなお前らがする無理強いは俺には通じない……なぜなら、俺はアメリカ人なのに全く野球に興味がないからだ……驚いたろ、まいったか……ショートストップ? 知らねえな……俺は鶴なんか折るのなんて絶対ごめんだぜ、ッポン人どもめ。俺の手汗のことを馬鹿にしたお前らのことは……絶対に許さねえ。俺が帰った後、せいぜい自分達の過ちを悔いるんだな。いや、だから……くっ、ここまで強気に出てもこいつら折れないのか……折り紙なのに、絶対に折れない気か……」
「あんたそんな冗談言って、全然おもしろくないよ! ふざけてないで、日本の皆さんに習って鶴を折ればいいのにどうしてそういつまでもウダウダ言ってるの!」
「別に笑わせようとしてねえし。だいたい欽ちゃん世代に笑いのことでつべこべ言われたくねえし」
「なによ欽ちゃん世代って! あんたはまたそうやってインターネットで調べたわけのわかんないことを言って!」
エディ・マーフィーで爆笑とかしてる人に言われたくねえし」
「エディ……あんた『ナッティー・プロフェッサー2』見た時、ソファでゲラゲラ笑ってたじゃないの! 一番笑ってたじゃないの!」
「笑ってねえし。あんなの一つも笑えねえし」
「笑ってたじゃないの! どうして嘘つくの! あんたそのあと1もわざわざ借りてきて見てたじゃないの!」
「……うるせえよ、ババアうるせえよ」
「都合悪くなるとすぐそうやって!」
「お母さん、もういいでしょう。カールさん、折鶴を拒んでその後、どうしましたか?」
「見てくれ、上手に折れたぜ」
「ええぇー折った! どうせそうだと思ってたけど、お兄ちゃん折った!」
「うまいって言われたぜ」
「お客さんには誰にだってそう言うんだよ。でも、まったくあんたは本当に。そうやってやってみれば楽しいんだから、最初からやればいいでしょ! あんたはやらないうちになんでもつまらないつまらないって言うんだから!」
「うるせえし。でもこの鶴、マジうまくできた」
「ほら、鶴も上手く折れたんでしょ。あんたは出来るんだよ。やってみなくちゃわからないじゃないの。どうして、まずやってみようと思わないの。折り紙だって、やってみたらおもしろかったんでしょ、働くのだってなんだって、そういう心構えでやってみればいいじゃないの!」
「うるせえし、うるせえし、これ、母の日のプレゼントにするし」
「え……」
「これ、マジうまくできたからプレゼントにするし」
「カール、あんた……」
「カールさん、目を覚ましてください。カールさんに質問です。折鶴はどうしましたか?」
「……ん……照れくさくって……さんざん親不孝してきたし……渡せないぜ。そしたら、母の日が過ぎちまったぜ……」
「ポケットから、手を出してもらえますか」
 ポケットから出されるカールの手。ゆっくりと開かれると、そこには折鶴が。どろどろの折鶴が。
「お兄ちゃん手汗すごっ」