極東のカフェのアドルフ=レオポル

 白かった顔が真っ青になったが、高かった鼻は高いままだった。ここ、日本は東日本の関東地方、エクセルシオール浅草新仲見世通り店では、フランス人が一人、梅雨の毒気とアイスコーヒーの冷たさにあてられたか、気持悪くなっちゃっていた。しかし、そこはフランス生まれ、横丁はパリのシャンゼリゼ。カフェでへなへなになっているようではパリジャンの名折れ、サッカーの下手な人種の前でそんなみっともないとこ見せてられるか。落第オシャレ乱太郎どもが。5時50分から放送してんじゃねえよ。
 そのフランス人は、名前をアドルフ=レオポル・トレゾールといった。そう、フランス人の名前には「=」がついていて、かなり羨ましいのだ。彼は、顔面蒼白になりながら、なんとかテーブルに肘をついて、平静を保っていた。なるべく爽やかなことを考えていた。
(クソ、このカフェが悪いんダ、このカフェが、なぜかおばあちゃんでいっぱいだから、オレのパリっ子魂が食あたりを起こしたんダ。なんてダサい国ダ。くそダサいゾ、まるで商店街の服屋ダ)
「お客様、どうしましたか」
 調子が悪そうな様子を見て、店員が話しかけてきた。アドルフ=レオポルは紙ナプキンで口を押さえながら、
「ダイジョブデス」
 と答えて、フランス語で書かれた雑誌をこれみよがしに机の上に開いた。その内容はかなりスケベで、日本でいうと休刊した『ホットドック・プレス』のようなものだったが、ッポン人の目を欺くにはこれでわけないのだ。
「横になった方がいいんじゃないのかい」「顔が真っ青だよ、お兄ちゃん」「無理しない方がいいよ」「水を飲みなさい、水を」
 周りにいたおばあちゃんが次々と席を立ちながら、アドルフ=レオポルに話しかけてきた。そして、次の瞬間、彼は沢山のおばあちゃんに囲まれていた。
「ホントにダイジョブ」
 アドルフ=レオポルは目を閉じて、片手を上げてクールに言った。おばあちゃん達は、心配そうにこっちを振り向きながら、自分の席へと帰っていった。
(まったク、なんダってんダ。一斉に寄ってきやがッテ。なんだこの国ハ。高齢化進みすぎだロ。おばあちゃんしかいないじゃないカ。おばあちゃん率が異様に高かっタゾ。なんだこの国ハ)
 しかし、その時、アドルフ=レオポルの喉元にゲロがわき上がってきた。それを思わず飲み込みながら、彼は崩れ落ちた。熱っぽい、なんか熱っぽいよ。
「あんた、大丈夫かい」「やっぱり横になんなさいよ」
 おばあちゃん達は瞬く間に戻ってきて、またもアドルフ=レオポルを囲い込み、さらには手を差し伸べてきた。
「平気だヨ、平気。フランス人がカフェでくたばッてられッかヨ」
「そんな強がってないで、あんた」
 一人のおばあちゃんが歩み寄り、床に膝をついたアドルフ=レオポルの肩に手を置いた。
「止めロ!」
 アドルフ=レオポルはその手を振り払った。
「触んナ!」
「大丈夫よ」「そうよ。怖くない」「たまには年寄りにも世話を焼かせておくれよ」「飴なめるかい?」
「うるせえヨ、うるせえヨ。平気だヨ。飴いらねえヨ。だいたい、こんなのパリじゃ日常茶飯事なんだヨ」
「難しい言葉知ってるのねあんた」「日本に来て何年?」
「黙れヨ、お前ラ……お前ラ……国歌だせーんだヨ!」
 少しざわついた。重い頭を抱えながら、アドルフ=レオポルも少し心配になった。
(やばい、今のハまずいだろオレ……こんなの、国家問題になっちまウ。コッカ問題……国歌、国歌問題……いや今いいだろ、そんなことハ……国歌をバカにしたら、わかんないケド、貿易摩擦になっちゃうだロ……でも、こいつラ……しわくちゃイエローモンキーのくせに、フランス人のオレに)
「……3年だヨ」
「それでそんなに喋れるのね」「凄い凄い」
 アドルフ=レオポルは喋るたびに気分が悪くなっていった。頭もフラフラする。胃が痙攣し、吐き気が体を押し上げる。
「救急車呼ぶかい?」「本当に無理しない方がいいよ」
「平気って言ってんだロ! なんなんだヨもう、いいッテ。ほっとけヨ! 駅前チャリ多すぎんだロ!」
「ごめんねぇ」「日本のみっともないところ見せちゃって」「ごめんねぇ」
「オ、オエェ!」
 アドルフ=レオポルはとうとう吐いてしまった。日本のカフェで、カフェを得意とするフランス人が吐いてしまったのだ。
「あらあらあらあらあら」「タオル持ってきて、タオル!」
(なんなんだヨ、ふざけんなヨ、最悪じゃねえカ、こいつらダ、こいつらのせいでオレはゲロしちゃったんダ)
 アドルフ=レオポルは跪いて、椅子にすがりつくようにしながら、あたふたと動き回り、そして話しかけてくるおばあちゃん達を眺めていた。そして、アドルフ=レオポルは自分の吐いたゲロを見下ろした。ツルツルした床に薄くたまったゲロを目にしたその瞬間、突然、自分が頼りなく感じられた。そして顔を上げると、もう景色と自分を結びつけるものはなくなっていた。
「大丈夫かい? 大丈夫かい?」「寝ちゃいな、そこに寝ちゃいなさいよ」
 アドルフ=レオポルはその声を聞きながら、ただうなずいた。おばあちゃんの一人が、自分の巾着から出したタオルでゲロを拭いた。小さなタオルは、すぐにびちょびちょになり、目立つほど手に染みていた。アドルフ=レオポルはそれをぼんやり見ていた。
「汚いヨ」
 アドルフ=レオポルは、唯一頭に浮かんだ言葉を思わず言った。
「平気だよ。汚くないよ」
 おばあちゃんは、もはやゲロを吸わないタオルをつかんで、ゲロを一箇所に寄せていた。アドルフ=レオポルは、突然、自分でもわからないまま涙ぐんだ。そして、頭がゆっくりと回り始めるような感覚の中、その言葉を確かめるように、心につぶやき始めた。
(ふざけんなヨ……絶対汚ねえヨ………そんなの、オレがやったって汚ねえだロ……嘘つくなヨ…こんな日本のおばあちゃんガ、ママンみたいな嘘つくんじゃねえヨ。そんな、優しくされたラ、そんなママンみたいにされたラ)
親日家になっちゃったダロ!」
 そう大きく叫び、気を失いながら倒れてゆくその瞬間アドルフ=レオポルは、自分の目の前をまさに無限のおばあちゃん達が慌しく奔走する光景を目にし、その一瞬で、無限のおばあちゃんの一人一人とそれぞれ目が合い微笑みかけられたのがわかった。そして、それは永遠に続くように思われた。