カジュアル村雨、芸能界に染まる

 その男はかなり上から目線で、僕にそれをするように言った。
「そんなことは出来ません」僕は言った。
「しなくっちゃいけないんだよ」彼はそう言うと扉の向こうに消えた。
 僕はこの世界に入る前から、それだけはしないと心に誓っていた。あんなこと、するもんか。あんな、ベッキーみたいなこと。
「カジュアル、最近どうだい」同じ事務所の先輩の熊岡さんは自分でドーランを塗りながら言った。
「どうもこうもないですよ。どうもこうもNightですよ、今夜は!」
 瞬間的にギャグを挟み込んで、それから僕はわけを話した。僕は毎日、この道で頑張るための武器を生む準備をしている。
「しょうがないよ、そういうことは」熊岡さんはドーランを塗り終わった。凄い黄土色だ。「誰もがそう思って入ってくる」
「でも……」
「でもじゃない。とにかくやらなくっちゃならないんだよ。いいか、俺達はミュージシャンじゃないんだ。ただの歌好きな芸能人として呼ばれてるんだぞ。番組はそれを求めてるんだ。それがどういうことかわかるか?」
「わかりませんよ、そんなこと」僕は不機嫌だった。
「不機嫌になんな!」熊岡さんは叫んだ。「なんか、そういう、ふてくされた感じ出すな!」
 熊岡さんが乱暴に立ち上がって僕の楽屋を出て行こうとしたので、僕はあせった。このまま本番生放送を迎えちゃいけない。
「すいません!」力の限り、謝った。
 熊岡さんが振り向いた。
「とにかく、口ずさむんだ。いいな」
 僕は決心した。やるしかないんだ、ベッキーみたいに。
 一時間後、僕はランク入りした歌を知っているのを片っ端から口ずさんだ。仕事なんだと言い聞かせながら、ノリノリを装って口ずさんだ。時々、僕の姿が、首を振ってちょっとリズムをとりながら歌に合わせて口ずさむ姿が、画面右上の小さな四角の中に映し出されて、全世代ベストヒット100が4位まで終わった。
「いよいよベスト3ですけど、熊岡さん、どうですか」
「どうもこうもないですよ。どうもこうもNightです、今夜は! 最高です!」
 僕は熊岡さんを見た。熊岡さんは決してこっちを振り返らず、前を向いていた。