OBD

 夏のある日のマクドナルド、隣の中学生の女の人たちは二人とも話すことがなくなってしまって、テーブルに突っ伏して捧げるように両手で持った携帯をいじってはハイヒールで歩くみたいな音を立て始めている。そんな姿を見ていたら、この先に横たわる毎日を退屈に思うのは当たり前だ。
 その奥で、OBドラゴンがいらなくなったトレイを片付け終えてこちらを振り向いた。両方の壁際にまばらに並んだ、誰もが自分のために丸めている色とりどりの背中。その間を抜けて、やってくる。OBドラゴンがやってくる。
「保くん、これで拭くんだ」
 気づけば、だいぶ軽くなった僕のコーラは汗をかいてはしたなくテーブルを濡らしていた。まして僕の肘はそれを吸ってだらしなく湿って冷たい。
「うん、ありがとう……」
 渡された紙ナプキンで散らばった水滴を拭くと、すぐに指先がしめって不愉快だ。OBドラゴンのホットコーヒーは買った時と変わらず、おかわり自由なのにそれほど減っていないようだ。
「それでさっきの話の続きだけど……告白するんだろ?」
 OBドラゴンはベンチシートに音も立てずに着席して、大きく固いしっぽを組んだごつごつした足の下にすべりこませた。そして姿勢を変えるや、すらりと組んだ長い足を現した。こんな場所で埃一つつかないスーツだ。いい生地を使っているんだ。
「いや、わからないよ……だからこうしてOBドラゴンに相談してるんじゃないか。OBドラゴンが決めてよ……」
「そんなの僕が決めることじゃない。僕が付き合うわけじゃないんだから。保くん、君は12歳、若い若い男。僕はドラゴンだ。いいかい。あくまで僕は、僕という一つのつぶてを君の心の池に投げ込もう。その波紋に何を見るかは君次第だよ」
 僕は同じクラスの本田さんが好きだ。いつも他の人より見てしまうし、話すと他の人より嬉しいから、きっと他の人より好きだと思う。だから一番好きだと思う。
  この間、近藤くんが伊藤さんに告白した。2人は付き合い始めた。2人はこの夏休み、他の男子を連れて行かず、他の女子とプールに行ったらしい。その話はク ラスのみんな知っているのに、夏休みが終わっても誰も話してくれない。でも女子同士は話しているかも……。僕にはその女子の中に本田さんはいたのだろうかなんてこともわからない。
「ドラゴンというか、OBとして言わせてもらっていいかな。保くん、今、君の胸の奥に何かいるね。そいつがいる限り、君は何もできないぞ」
 OBドラゴンがサングラスに満たした闇の奥から僕を見ている。僕の心の表面を赤い光の点がはいまわり、一点で止まって微動する。熱をもって溶かさんと。たまらず僕の口から言葉が飛び出す。
「本田さんの仕草で、僕が好きなのが一つある」
  僕自身もびっくりした僕の存外男らしい言葉遣いで、OBドラゴンはもはやサングラスもなく、あらぬ方にクールな目配せを飛ばした。気づいたら、隣にいた中学生の女の人2人組がこっちの話を聞いていたらしい。顔を上げてOBドラゴンと楽しげな熱視線を交わし、僕に好奇の目をやった。
「それでそれで」
 OBドラゴンがわかりやすく声を出して、中学生が笑う。中学生を笑わせるなんてすごい……。僕のコーラのカップについた新しい水滴がつながってポロリと落ちて、拭いたばかりのカップの底をあっという間に一周する。
「どんな仕草だい」
 僕は唾を飲み込み、きれぎれに言った。
「本田さんは、シャープペンを、こう、胸でノックする……」
 本田さんは勉強に熱中してくると、いつも乱暴に、ドンドン音がするぐらい、順手に握ったシャープペンシルを胸に押しつけた。僕はそれを、斜めから見ていた。
「でも、最近しなくなった……夏休みが終わった頃から」
 もしかしたら僕は聞いて欲しかったのかも知れない。
「きっとプールの頃から……」
「プールの頃って?」
 頬杖ついた中学生が口を挟んだ。髪の毛がまっすぐ落ちて、眉毛の上で突然消えてなくなったような髪型。僕はすぐに説明した。僕は家でそればかり考えていたから説明するのは簡単だった。
 OBドラゴンは話の間ずっと口の前に掲げていたコーヒーを、終わる頃に一口飲んだ。
「……ていう」
  僕が黙ると、中学生は少しだけむつかしそうな顔で天を仰いで、でも、と人差し指にくるりと一回髪の毛をからめた。こちらを向いてわかったけれど、二人のうちの一人は、あまり綺麗な顔立ちではない。きっと鼻のまわりにできた吹き出物に苦しんでいる。鼻と顔の境目が崩れ落ちてしまい、腐敗の広がりの中で輝きを 失った眼は笑いながら死んでいる。人間の苦しみを、特に彼女が朝起きて鏡を見て考えることを、目に見えるように表現するのはとても不可能だ。
「保くんは、本田さんが変わっちゃったら嫌いになるの?」
 お前が僕を保くんと言うな。本田さんとも言うな。そう思って強く強く目を合わせる。
「そんなことない……」だって、そんなことは言ってない。
「でもそういうのってつらいよね。なんか自分が関係ないところで好きな子が変わっちゃうのって」
「せつないねぇ」
 もう一人の中学生は肩まである綺麗な黒髪のおかげでなかなか顔がはっきり見えなかったけれど、形のいい鼻が時折のぞいてドキドキした。
「そうですかね……」
 答えあぐねる僕と中学生を交互に見て、OBドラゴンは言った。
「捨ててくる」
 立ち上がって、ポケットに突っ込みながら歩いて行くその後ろ姿。ダストボックスの間にサングラスを滑り込ませたかと思うと、振り返れば新しいサングラスをかけている。まっすぐ歩いてくるOBドラゴンの目を、僕は一度だって見たことがない。
「まどろっこしい話は止めよう」OBドラゴンは乱暴に腰を下ろした。「本田さんは、君の関係ないところで、女になったんだ。意味なんか考えるなよ」
「君の言うことはいつもわからない」
「保くん。ほとんど全ての女の子が、君の知らないところで女になっていくんだ。さびしいかい。さびしいだろう。しかも、それをさせた男が一人、この世で息をしているんだからな。その息づかいを、女の子は聞いたのだ。そして女という、男の子とも、女の子とも、男とも違う別の生き物になったんだ。でも、そんなこと は誰にだって訪れることじゃない。蝶の羽化が見られないぐらいで気に病むことはない」
 僕は上の空で聞いていた。その態度に呆れてしまったのか、 OBドラゴンは中学生と何やら話しこんでいた。気を取り直した時に聞こえたのは小話だった。「男は女が自分の意見を聞かない、と言った。女はそうじゃない、男が自分の意見を聞かないのだ、と言った。問題は網戸のことだった。ハエが入ってくるから閉めておくべきだというのが女の意見だった。男の意見は、朝一番はまだテラスにハエがいないので開けておいてもいい、というものだった。だいいち、と男は言った、ハエはほとんどが家の中から出てくるのだ。自分は、ハエを中に入れているというより、どちらかといえば外に出してやっているのだ」
 意味はわからなかった。でもまるで、人間の価値はその場の話題に応じたどれだけ気の利いた小話を披露できるかで決まるとでも言うように、力を入れることなく、落ち着き払ってその話はされていた。
「終わり?」
「ああ、いつも、すれ違うだけで終わるのが男と女の話なんだよ」
「その女がバカなんじゃないの? 男も細かいけど。二人とも嫌い」
「あ、ねえねえ、私も、英語で習った詩があるの。聞いて」
「そういうとこがダメなんじゃない?」
「は?」
「勝手に、自分の話ばっかりすんの」
「しょうがなくない? 保くん、どう? 私、いや?」
 話を聞き始めたのを見て取ったか、綺麗な方の中学生に呼ばれた。
「いやじゃないよ……」
「ほら」
 僕の意見をぞんざいに受け止めて、彼女はすらすら暗唱を始めた。僕の気持ちは彼女の気持ちの一部になって、僕である必要がなくなった。
「こよない方に恋慕した、ただひとたびの我が恋は、心のうちに残るとも、戸のたつままに去りました、皆な、皆な消えました、昔なじみのどの顔も」
「英語じゃないのかよ」
「黙って。私の友は親切な、心やさしい友なのに、恩義を知らぬ人のよう、私は突然去りました、昔なじみの顔と顔、思いめぐらすためのよう」
「それリーディングの延岡が趣味でやったやつでしょ。なんでそんなん覚えてるの」
「なんか覚えてんの。いい感じでしょ。保くん、どう?」
「中学生は頭がいいですね……どういう意味なんですか」
「要は、みんな変わっちゃうのよ。そのとき、せいぜいかっこつけるのよ」
 僕のお池はみんなの投げた石でうずまりそうだ。そんなこと誰が頼んだろうか。僕の池に来て、釣りをしたり、石を投げるな。それを僕のためだなんて、絶対に言うな。
 僕のせいで時間が鈍く重たく流れる。この時間にかかずらったら負けだと開き直ることのできる順番で、中学生から降りていった。二人は芸能人の話を始めた。時折もれる笑い声は微妙に音質を変えていて、もう僕に聞かせるためのものではなくなっていた。
「僕は一人で帰る。OBドラゴンは先に帰っててよ……」
 OBドラゴンはテーブルの隅を人差し指で小さく二度、叩いた。
「保くん、君は来る時、僕の背中でゲームをしていたから知らないだろうが、このマクドナルドは君の家から直線距離で20kmの位置にある。僕の背中に乗れば2分、公共の交通機関を使えば乗り換え含めて40分、言わせてもらえばこども料金で300円かかる。わかるかい保くん。君は、君一人の力では来ることのでき ない、日曜でもすいている穴場のマクドナルドまで来ているんだぞ」
 そんなことわかっている。ゲームをしてたけどわかっていた。
「言わせなきゃわからないのか。保くん、またあのセリフを言うか」
 僕は首を振った。口を開けたら弾みで涙もこぼれそう。中学生も見ていないけど、見ている。僕はうつむいた。
「……言いたくない」
 やっと言う。下を向いた目の中で涙が揺れた。
「いや、言うんだ」
 どうしてこんなに怖いんだろう。OBドラゴンっていったいなんなんだろう。なぜこんなに怖くするんだろう。それでも涙をとっておく方が大事に思えたから、僕は言った。
「OBドラゴンは、僕の大事な友達だ」
「OKドラゴン」
 中学生たちがこちらに向けて笑い声を上げた。下を向いている僕から、白くて短い靴下と黒い革靴がテーブルの脚の間でばたばた動くのが見える。こっちは体を動かす気にもならないというのに。
「保くん、僕を恨んでもいいんだよ」
 こんな時どうすればいいのか僕は知らない。でも、OBドラゴンは僕がどうするか知っている。それでわざとこんなことを言うのだ。僕は下を向いたまま、ゆっくり首を振った。
「行こうか」
「おしっこ」
 僕は中学生の前を通ってトイレに駆け込んだ。重たい扉を寄りかかるようにして開けなくてはいけないのは、僕が子どもだから。だから涙がこぼれてしまった。
 おしっこをしていて考えたくないことを考える。本田さん、どうして君は胸でシャープペンをノックしなくなってしまったのか……。トイレの照明は暗いくせにひどくまぶしい。
  水色の造花を生けた角張った青いガラスの花瓶が流しの台に置いてあった。僕には、花一輪だってほどよく愛することができないように思えてしょうがない。こんな作り物ならまだしも、生きている一輪をどうして上手く満たしてあげるだろうか。ほのかな匂いを愛でるだけではとてもがまんができない。荒々しく手折って、掌にのせて、息を吹きかけ、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって涙を流して、唇の間に押し込んで、ぐしゃぐしゃに嚙んで、吐き出して、靴底でもって踏みにじって、塵のように細く切れた断片を眺め下ろして、それから自分で自分を殺したく思うんだ。
 トイレを出ると、レジのところにOBドラゴンがいた。
「保くん、新しい味のマック・フルーリーだよ。夏らしくっていいだろう」
 父さんと同じシャツを着たOBドラゴンが渡すのを僕は黙って受け取る。
  駐車場でゆっくりと羽を広げたOBドラゴンの背中に乗り込む。慣れた動作はさびしい気分。旅行の帰りに寄ったサービスエリアみたいに力が入らない。マクドナルドの窓から顔をのぞかせている中学生を見ながらぐんぐん上昇していく僕はきっと無表情だ。やがて中学生は見えなくなった。
 僕は何もしていないのに無限に視線が上がっていく。田舎道を照らすには十分だった光がまばらに広がっていくと同時に湿っぽい夜風が頬にまとわりついた。
 僕の家はどこかわからない。OBドラゴンは黙っている。いつものことだ。ゲームを出す気にもなれない。
 マック・フルーリーには何色かラムネが入っていて、一口食べてから、残りは全部、OBドラゴンの足の付け根にあいた痛々しい、大きな穴に流し込んだ。
  そこは最初ただのくぼみだった。OBドラゴンがどんなに体をひねっても見えない場所にあって、フライドチキンの骨やら、噛み終えたガム、OBドラゴンのく れるものを入れていくうちに、膿んで腐れ落ちた大きな穴となり、クリーム色したウジが音もなく蠢いていた。奥にはいつか僕が入れたのだろう、スナック菓子の袋の切れっ端が見える。こんなにひどい状態なのにOBドラゴンは何も感じないらしい。
 見渡せば、町の光は多すぎて好きな子の家もわからない。僕は十二歳。今よりずっと不機嫌だった。