出席番号5番 近藤美莉

 あんなにドキドキした、私と同い年ぐらいの女の子たちが繰り広げるボルテージ高まるばかりの恋やら愛やらほにゃららを描いたマンガはなんだか遠くなってしまった。
 あんなに痛快だった、女の子が外見とは裏腹に心の中でハイテンションに止めどなく豊かに喋るようなマンガはなんだかやりきれなくなってしまった。
 あんなに愉快だった、豊富な性的知識でお姉ちゃんをバカにしながら陰日向に知識を授けるステキな弟の出てくるようなマンガもなんだか悲しくなってしまった。
 だから最近、私は昆虫図鑑ばかり眺めるようになった。
 学校から帰って家でご飯も食べて、狭いけど自分だけの部屋に戻った一人の時間。大きな図鑑を枕に立てると、ナナホシテントウナナホシテントウの背中に乗っかっている、ツルツルした大きな写真が飛び込んでくる。実際より何倍も大きく引き伸ばされた交尾の写真、セックスの写真。ずいぶんあすことあすこが離れているようだけど、こんなことでセックスだなんて不思議なものと、しみじみ丸い背中をなぞった。
 弟のヨウくんは中学も二年生になって人並みに色々な興味もあるようで、だからといってマンガみたいにはしてくれないけど、かわいいかわいい弟だ。幸せになるんだよ。って心の底からそう思っている。
 お母さんは私のあこがれ。焼き肉屋さんに行くと中盤、お父さんの命令で冷麺を食べるように言われて注文、運ばれてきた冷麺をすすって「おいしい」と微笑んでいるような、優しいお母さん。
 そんな時ヨウくんはアイス以外の冷たいものにはあんまり興味がないから、お父さんの焼き肉マメ知識にふんふんうなずきながらお肉をほおばり、お父さんの代わりにお肉をひっくり返す役に預かると、知ってか知らずか、お父さんと同じようにトングを上に向けて時折カチカチ鳴らしているのだった。
 しばらく黙々食べていたお母さんは小さな声で「ごちそうさま」と言い、冷麺をお父さんの方に寄せて口元を拭いていた。そして食事が終わる頃には、いつの間にか冷麺は空になっている。
 私は小さい頃、そういうのが夫婦で、家族なんだと思ったりした。それは今も変わってないけど。
 でも、だんだんあることないこと知識も増えて、お父さんとお母さんがセックスをしたことを知ったのは小学五年生。ふいに顔を出した現実はあんまり面白みのない錯覚のトリックアートのように佇んでいて、私は態度を決めかねた。セックスで生まれた自分がセックスを疑うなんて古いし悪い冗談だけれど、セックスが現実感をもって私の周囲を埋め尽くした今日この頃、私も処女だし笑っていられなくなった。
 悪い冗談は悪い。マンガからそればっかりを学んできた私は心の中で立ち尽くすばかり。それもこれも、そういうものを近づけたり遠ざけたりして茶化す振りをして、安心したり逆に深刻になったりするような態度のマンガばっかり読んできて、とか言ってたまにどストレートなもの読んじゃったりして腰抜かしたりして、自分なりに処女道楽(そんなものがあるなら)を楽しんできたからかも知れない。そんなふうに大袈裟に反省したんだった。
 んで、反省した途端に、今度ばかりは私の心の思い通りにならないところも本気なようで、本棚にあるそういうものはなんだかだんだん、あらかた読めなくなってしまった。
 その代わり昆虫の交尾とか、なんだかとても愛おしくなった。動物でもなく、鳥でもなく、魚でもなく。鮭のはヒく。
「後背位」
 蛍光灯がそっくり映るほど大きい図鑑を傾けてナナホシテントウたちにぼんやりしたドーナツ型の光をあてて、そっとつぶやく。もちろん家族にも、ナナホシテントウにも聞こえない。結局、私がマンガで学んだ知識はこんなところでマッチポンプで消費されるのみ。
 ひとりぼっちのベッドは私の生活のにおいがして、その通りにへこんでいる。
 私はセックスについて訥々と語る阿佐美さんを思い出した。あの後、クラスの女子がみんなでルーニーの動画を検索して笑っても、阿佐美さんを影でルーニーと呼ぶようになっても、私は正直、グッときていた。
 私を追いかけてくるように見えながら一向に近づくことのないお月様みたいなものも、そんなに素晴らしいセックスなのだろうか。
「本棚空けたいんだけど、マンガどうしようかな」
 ある日、猛烈にかいつまんだ経緯と行き場を失ったマンガのことをヨウくんに話すと、ヨウくんはもう声変わりしてしまった声で「じゃあ、ちょうだい」と私に言った。
 ヨウくんは私の影響で少女マンガもよく読んだ。教育したつもりなんてないけれど、本棚というやつはつながった血をさらに騒がせるものがある。私も少年マンガを、薦められないまま沢山読まされた。
 姉の一日の長というか、ヨウくんの本棚は私よりも手狭な割にまだ余裕があった。読めなくなったマンガをあげるとなると、なんだかヨウくんが私の轍を踏むようで申し訳ない気がしたけれど、男の子はきっとその生かし方を知っているのだろうと考えることにした。もっと単純明快でいい方法があるに違いない。
 私は自分のベッドに座って、奥行きのある本棚の前で膝を大きく開いてしゃがみこんだヨウくんの後ろ姿を見ていた。そんなふうに棚のマンガを見るんだね。その体勢は見慣れたものと言え、こんなにじっくり見るのは初めてだったから何だかおかしくて愛おしかった。その背中に、銀行やコンビニに置いてある防犯用のカラーボールを何色も当てて乱暴に色づけたいくらいに。
「姉ちゃん、これどんな話」
 突然聞かれて私は胸をはね上げた。無闇にドキドキしていけない。
「どれ?」
「ウルフ物語ってゆーやつ」
「ああ」
 と言って思い出した。清水さんに借りたままのマンガ。
「それ、いつ借りたんだっけかなあ。中学の頃だよ」
「あ、そうなの。じゃあいいや」
 あっけなく返すその仕草が何かに似ていて胸が痛む。
 あの頃、わたしたちはよくマンガの貸し借りをした。頼りないおこづかいで新刊を買いあさるわたしと、お姉ちゃんの棚からみつくろってくる清水さん。
「いや、別にいいよ。もう返せないもん」
「あれ? 同じクラスじゃなかったっけ?」
「そうだけど、もうなんかちがうんだよね」
「あれでしょ、スクールカースト的な」
「ガキンチョが余計なことばっかり覚えちゃって」
「姉ちゃんのせいでね」
「なーまいきぃ」
 と語尾を上げる。
「姉ちゃんの顔じゃあ、ちょっと上位は望めないなあ」
「なんでよ、いけるいける。元気とユーモアで駆け上がってやるんだからね」
 力こぶをつくった私を見てはいなかったけど、後ろを向いたままのヨウくんはそれがわかったみたいないいタイミンブで笑った。
「ダメダメ。それだと限界があるんだよ。いっても三番手止まりだな」
 いつか、ヨウくんにそんな話をしたと私は思い出していた。こうして、家族といることの居心地が良くなっていく。そして、同じくらいに悪くなっていくんだ。
「清水さんは美人になったもんなあ。前から雰囲気ちがったけど、なんていうか、女っぽくなったよ」
 わたしは、杜山くんと清水さんがセックスをしたと思う。セックスをする前の清水さんに借りたマンガは、セックスをした後の清水さんに、なんだか返しにくい。
「まあいいけどさ、それね、絵めちゃくちゃ下手だよ。ギャグも古いの、突っ走ってるっていうか。今見たら逆に笑えるかもね」
 もう、清水さんにはそんなマンガ必要なくなったんだ。それから、どういうわけか私にも。なんだろ、じゃあ、セックスは関係ないか。
「うわ、そういうの、おもしろそうじゃん」
 逆に笑えるって、なんだろう。
 これはいけない。大きく鼻で呼吸した。通りが悪く、私にしか聞こえない音がピーと鳴った。
 私の頭は、卑屈なくせに大ヨワムシだ。いつもいつも、思い知らされる。もっとはっきり、裏切られたような気がすると、心の底から、苦しいくらいに、泣きたいくらいに、強く強く、思えばいいのに。後でそんな気持ちになったって、どうすることもできない。
 ざわつく頭の中を追い立てて、『ウルフ物語』がどんな話だったか思い出そうとしてみても、なんにも出てきやしない。清水さんと仲がよかった頃が思い出せないように、具体的な会話も、出来事も、冗談も、何ひとつ、出てこない。
 ヨウくんが中腰になる。意外と男らしいその後ろ姿と、見たことなんてもちろんないけど私のいつもの四つん這いの後ろ姿が、頭の中でパタパタ音を立てて切り替わる。
 そのまま私はぼんやり考えていた。そっか、もう中学二年だし、一応テニス部で毎日がんばってるもんね。少しずり下がったジャージからは、ハデハデなパンツのゴムがのぞいている。こういうのは今も学校でよく見る。私のいないところで、その一人として成立しているなんて、変な気分。
「ヨウくん」
 そういえば、私はこの愛しい弟のことを、ヨウくんと久しぶりに呼んだ。
「ええ?」
 ヨウくんは上の空で答えた。
「お父さんとお母さん、バックで私をつくったのかな」
 言ってしまってから、ふいに外れた安全ピンが頭をドキリと刺した気がした。
 ヨウくんもそう。ハムスターみたいに一瞬動きを止めたきり沈黙した。私の言い方が冗談でなかったから。弟だからそれがわかったのだ。
 あー。どこかに向かって呻いて、その割にはそのまま暢気に座っていられるのが不思議だった。マンガの女の子のような才能はないから、自分で自分をフォローする怒濤の独白なんて始まらないし、ただゆっくり胸の鼓動を感じながら、ヨウくんが何を言うのか待っていた。
 そう、それはそれは、とてもお姉ちゃんらしく。
 無理に手を動かそうとして、マンガがドサドサ落ちる。『ハートを打ちのめせ!』だ。
「ちょっと。大事にしてよね」
 そんなことも言ってみたけど、ヨウくんはそれに答えもしなかったし、笑って煙にまくこともしなかった。ただ私の質問に答えようと考えていた。そういうヤツってモテると思う。
 やがてヨウくんは振り向くことなく言った。
「わかんないけど」
「うん」
 平静を装うから、相づちの声の調整ができずに大きくうわずる。
「バックかどうかはわかんないけど、俺と姉ちゃん、同じ体位でできたと思うよ」
 同じ体位。
 風を受けた私の顔がアップになる。正直なんでかわからないけれど、私は嬉しくなり、弟にキスの一つか頭をはたくかしてやりたかった。
「あはは、バカだね」
 私が軽く笑っただけでそのことは済んだ。弟は、黙々と作業を続けて、二十冊ぐらい重ねたマンガを二列、抱えて一度で持って行った。
 私の本棚はところどころがらんと空いて、斜めに立て掛けられたマンガが寒そうにちらほら。『ウルフ物語』は結局のこされた。律儀なヤツめ。そういうヤツはモテる。うちの弟はモテるんだ。私はとても誇らしい。
 後日、弟の本棚をのぞくと、みっちり詰まって一部が白く赤く塗り分けられ、私の色が付いていた。私たちはいたる所で混ざり合っているのだ。それ以上、混ざり合う必要がないくらいに。