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こんな歯医者はイヤだ

創作

「横島コウヘイくん、こちらへどうぞ」
 院長の息子さんが今年の書き初めで書いたという「診療室」という習字を見て不安になったコウヘイが振り返ると、お母さんはコウヘイとは逆の方を向いて、『女性自身』をソファにうつ伏せになって読んでいた。
「お母さん、ここ歯医者だよ」
 お母さんは無視だ。よく見るとイヤホンをしていた。どうせ何年も前の笑い飯ポッドキャストを聞いてるんだ。
「お母さ――」
 かっとなって怒鳴った瞬間、コウヘイは薄いゴム手袋をはめた手で口をふさがれ、中へ引きずり込まれた。思わず息をすいこむと、よくない気体。一瞬でトリップ。脳裏に浮かぶ知らない村の映像。もうすぐ春が来る。コウヘイは気を失った。
 目を覚ますと、歯医者の椅子に寝転がっていた。めちゃくちゃごつごつしてて、こんなに寝づらい歯医者の椅子は初めてだ。
「悪いが、縄で縛り付けさせてもらったよ」
 横にいた歯医者が言った。反射的に体を動かすと、手首、足首、首に荒々しい縄の感触があった。
「ほ、ほ、ほどけ-!」
「暴れるからいけないんだぞ」
「え!?」
「暴れ牛から村を守るとかなんとか言っていた」
「春じゃなく、牛が……?」
「ただの牛じゃないわ」と言ったのは、歯科助手だ。「とんでもない、暴れ牛よ」
「君は、どうも村を代表して戦っているらしく、寝っ転がってエビみたいに腰だけがむしゃらに動かしながら部屋の隅の方へ隅の方へ移動して、大変だったんだ」
「あそこの隅よ」
 歯科助手はコウヘイに体を寄せて、部屋の片隅を指さした。
「見て」
 コウヘイは見た。部屋の隅だ。
「部屋の真ん中に引っ張り出しても、何度もあそこに向かった君には恐れ入ったよ。長いこと歯医者をやっているけどそんな人は……」
「ためしに反対側の隅っこに引っ張り込んだら、それでも腰を動かしてあの隅に向かったから、もう我慢ならなくなって、縛り付けたわ」
「歯科医、歯科助手、母親。この三人でやっと縛りつけたんだ」
 歯科医、歯科助手、母親。どうしてそんな言い方をするのかコウヘイにはわからなかった。そして、そこに母さんがいたなんて本当だろうかと疑った。そんなことをしたら母さんは黙っていないぞ。
 ということは、これは嘘だ。コウヘイは考えた。このおじさんは、湯船に浸かって体をこする、そんな感覚で嘘を言うにちがいないという確信があった。つまり、人より多くこするのだ。
「さてと、虫歯があるんだね」
 僕の唇のあいだに、30センチの竹定規が2本重ねて挟まれた。
「はい、強く噛んで」
 コウヘイはわけもわからず言われた通りにした。すると、歯科助手がその両端を、僕の体の横で機械に取り付け始めた。
 鉛筆の芯のにおいがして、コウヘイはしきりに鼻を開け閉めして、少し上を向いた。歯医者が言った。
「息子が使ってたやつと、私が小学生のころに使ってた竹定規だよ」
 コウヘイが思いきり立てた歯によって、みし、と定規が悲鳴をあげた。
「息子が使ってたやつっていっても、妻が小学生のころに使ってたやつだけどね。あれはいつかな、息子が小学2年生になった頃かな、学校で定規が必要だっていうんで私たちが小さい頃に使ってたもので間に合わせようと思ったんだ。そしたら『パパのはいやだ』って。『なんでだ』って聞いたら、ベトベトしてるって。確かに、ベトベトしてるんだ。粘土がこびりついてとれないんだよ。ちょうど今、君のベロの上のところの緑色のやつだよアッハハ」
 コウヘイは竹定規から歯を離したが、竹定規はぴったりくっついてその空間に浮かんだ。取り付けが終っていた。
「これ、どうして」
「竹の定規が一番いいんだ。適度なしなり、人工物ではこうはいかない確かなぬくもり。患者のことを思ったら、これ以外の選択肢はなかったな」
 と笑いながら、歯医者は手元のハンドルをまわした。
 コウヘイの口の中でキリキリという音を立てて、定規がゆっくりと離れていくのがわかった。やがて定規は歯に当たった。そして、なおも押してきた。
「こればっかりは、人間がやらないと、どうにもねえ」
 ハンドルを回しながら笑っている歯医者をよそに、僕は声も出せないまま、顎が外れそうなほど、口を開け広げられた。コウヘイは声を出すこともできない。
「それでは、虫歯をけずっちゃおう。そしてフッ素をぬろう。竹の定規にもフッ素がぬってあるから、安心したまえ」
「はが…」なんとか喉を開いてコウヘイはうめいた。
「研二」
「はが」
「研二」
羽賀研二の『研』って、『研究』の『研』ですか?」
「当ったり前だろ、なに言ってる!!」
 歯医者は火がついたように激怒した。椅子をはね飛ばして立ち上がり、手にしていたドリルを乱暴に元かかっていた場所へ叩き付けた。硬い音をたてて浮いたドリルは大きな音を立てて床に落ちた。
 歯医者は深く息をつき、頭を抱えて言った。
「ドリルを……」
 歯科助手がドリルを拾い、差し出した手に握らせた。
「今すごくいやなことがあったけど、始めよう……! 慣れたものだよ……まったく同じ状況を乗り越えてきたじゃないか……そうだフッ素をなめよう……うまい」
「先生、回転させますか?」
 歯科助手はこれっぽっちの反省の色を見せずに言った。物騒な言葉にコウヘイは身じろぎした。
「いや、まだ大丈夫だ」
 歯医者はコウヘイをちらりと見た。
「コウヘイくん、君と僕の仲だから言おう」
 今日初めて会った、とコウヘイは思った。
「歯医者も人間だから、ついつい患者を人ではなく、物として見てしまうことがある。なんだろうな。毎日毎日、休憩はさんで朝から晩まで患者を見て、それでも煙草を増やしてどうにかこうにか頑張っても、ふと患者を見下ろした時、『何これ?』という思いがよぎるのは止められものなんだ」
ナニコレ珍百景ですか、センセ」
「ドクソが!!」
 またも激昂した歯医者は唇をかみしめ、喉の奥で低い声でうめいた。力強く震わせた怒りに満ちた顔はみるみるうちに赤くなり、体を縮こまらせながら、やがて床にしゃがみこむことになってもうめき続けた。
 ずいぶん長いことうめき続けた。1分も続けてようやく、歯医者が脱糞しようとしていることに歯科助手が気づいた。
「先生!」
 あわてて後ろに転がして意気をそいだ。
「先生ったら……」
 歯医者はしばらく丸まったまま天井を見ていたが、ゆっくり立ち上がると椅子に座った。何事もなかったように喋り始めた。
「コウヘイくん、続きいくよ。歯医者は患者を患者と見なせない時があるというところまで語り下ろしたね。同じ文字を書き続けると、全体像として認識できなくなる、ゲシュタルト崩壊というやつだよ。そんな時は、回転させるんだ。それも高速でね。クイズみたいにして。その物体が、色のついた輪の集まりになった時、それは物で無くなる。ゲシュタルトとともに認識の土台が崩れた時は、それとしか呼びようがないものを回転させてやるんだ。輪の集積となったあと、回転が緩くなってくれば、認識の扉がまた開かれる。つまり、リセットするんだ。開きっぱなしだから扉を見失うんであってね。一度、閉じれば、また扉として現れる。わかるね」
 コウヘイが家を出てからずっとかけている薄い紫色、細フレームのサングラス。それ越しにも、おびえた表情がしっかりと確認できた。
「いやいや大丈夫、コウヘイくんのことを患者だと認識しているから。煙草もさっきすったし。さあ、はじめよう。遅くなったね」
 洗いもしないで突っこまれたドリルが、コウヘイの口の中で、キュイイイイン…と音を立てて回転を始めた。
「手は上げられないだろうから、痛かったらボタンを押すんだよ。そのサングラス、似合ってるね」
「コウヘイくん、君の右手のところにあるわ。自力でさがすの」
 コウヘイが結びつけられているあたりをさぐると、ボタンがあった。
 治療が始まった。始まって2秒だった。歯医者は口の中をのぞきこんでいたが目の下まで覆っていたマスクを乱暴に下げて、もう我慢できないというように大声で叫んだ。
「あ、ちょっと、歯ぐきに刺すよ!!!」
 コウヘイはまず驚き、それから怯え、右手のボタンを押した。
「ふがああああ!!」
 コウヘイの体中に強烈な電気が流れた。
「電気が流れるの」
 ささやく歯科助手の言葉もコウヘイには聞こえない。しびれてボタンから手を離せない。歯科助手は、唾液を吸引する道具を、コウヘイの頬、まぶた、皮膚のやわらかいところにめちゃくちゃに押しつけた。
 ズボボボボ、ズボズボ、ピュヒーーーーーーーーーーー、ボ、ズボ、ペタペタペタビ、ビビ!!  ビビビビビ!! ズボボボボ、ズボズボ、ピボ、ズボ、ペタペタペタビ、ビビ!!  ビビビビビ!!  ボ、ズボ、ペタ
「ふがあああああああああああああああああ!!」
 キュイイイィィィィィィィィィィィィィィィィィイ……!!!! ズボズボズボ!!!
「何コレ! うそ、何コレ!?」
 歯医者が叫び、スインスインと回転が始まった。器具をばらまき落としながら、歯医者と歯科助手は爆発2秒前の感じで思いきり飛んだ。
 回転も加わって、声にならない絶望的な叫びを響かせるコウヘイを乗せて、ロデオマシーンを改造してつくられた歯医者の椅子は、それならロデオマシーンである必要は無いと思うのだが、ものすごくなめらかに回った。
 コウヘイは色のついた輪の重なりとなった。歯医者で、そうなった。


 どれぐらい椅子ごと回っていただろうか。もう回転はとまっていた。手枷足枷も外れていた。ゆっくり上がる背もたれと同じようにして、コウヘイは覚醒していった。口の中が甘い。
「口をゆすいでね」
 歯科助手がにこやかに言った。
 上がっていった先には、小さな流しとコップがあった。コウヘイはそのコップに釘付けになった。
「これ……」
 プーさんのグラス。そこに、自動で水がそそがれていく。
「ふふふ、驚いたかい」
「僕のコップ……家で使っているやつ……」
「いつも使ってるコップが安心できるよね?お母さんに頼んで持ってきてもらったんだよ。安心して治療にのぞめるようにね」
 家の外で見る自分のコップは、水滴の乾きやくもりが目立ち、ひどく汚らしいもののように感じられた。吐き気を催しながら、コウヘイは口をゆすいだ。唾液でかすれた血が排水溝に吸い込まれていった。
 帰り道、コウヘイはもう二度とあの歯医者には行かないことをお母さんに伝えた。
「でも、ほかにいいところないしねえ」