出席番号3番 木嶋陽介

出席番号2番 宇野道夫

 

 宇野がいなくなって何日か経った。あれこれ噂が立っているらしいが、特に何が変わるということもなく期末テストが始まった。
 俺はテストが好きだ。その時だけ出席番号順に変わる席が好きだ。教室に入ってすぐ、机の間を縫うことなく自分の席に座れるし、横は壁で、ついついそちらに寄りかかりがちになる。
「おかしいだろ杜山ぁ」
 どこに座っても、教室のほとんど反対側にかたまった端田や丸のでかい声がよく聞こえる。電波のつながりやすい携帯電話会社みたいな通りのいい声。
「期末、中止するよう親父に言ってくれよー」
「うるせーな、勉強しろよ勉強。頼むからさ、ちょっとはうちの学園の合格実績を上げてくんない? 栄えある一期生だろ?」
 会話に加わっているかいないかわからない周りの奴らがにやにやする音が聞こえるような気がする。そのせいで、端田と丸のボリュームが半分上がるのがわかった。
「どうにもなんねえよこんな新しいだけの学校。それより大事なおともだち。今からだって遅くはない、テストなんてうっちゃってみんなで捜索しようぜ。宇野くんのピンチだもん!」
「ほんとだよ。俺なんかショックでショックで、昨日寝ちゃいけないテスト前なのに、思い詰めて9時間睡眠よ」
「逆にな!?」
 笑い声が起きた。
「お前ら、宇野のことすげえバカにしてたくせによく言うよな。ねえ?」
 隣の女子に相づちを求めたらしい杜山の声。返答が無いから、普段は声をかけられないような女子、船山さんあたりが会話に借り出されたのだろう。
「おい、困ってるだろ!」
 わざとらしい声。テリトリーを広げていくためのいけすかない手口。申し合わせたわけでもないのにグルとなり、自分の共通の目的を果たそうとする。そして悩み、青春モノの映画をなぞる。そうだ。お前こそがトレンドだよ。世界の中心だよ。だから大丈夫だ。
「暮らしづらい、冷酷な学校だよ。氷の学園。全体的に狂ってるんだ。ああもう古典ヤベー!」
「いやお前だよ、狂ってるのはさ」
 誰よりも聞きたくないくせに、俺の耳は利きすぎる。聞きたくない敵の足取りをいち早く察知するために研ぎ澄まされた小動物の耳みたいに思える。
 字面だけをなめていたノートから視線を外すと、阿佐美さんの背中が見えた。宇野の分が一人空いただけなのに、ずいぶん遠くにあるように思える。
 ふいに、阿佐美さんが側頭部の髪の毛に中指を第一関節までさしこんで、ばちばりと頭をかいた。男でも女でも変わらないがさつな、誰に聞かせるわけでもない音は、教室の喧噪にかき消える前に、俺の耳に心地良く響いた。
 ルーニー選手がゴールを決めて、すべってくるんです。
 セックス? あのルーニーと? バカみたいだ。しかも授業中に。みんなの前で。だいたい、ルーニーは結婚してる。あまり美人とは言えないような幼馴染みと。
 胴長に感じなくもない彼女の高い背が、椅子の背もたれの上にシンプルなサボテンのようにすくと立ち上がっている。その根元は、植え替えをしなかったみたいに栄養不足で弱く、すぼまっている。
 どんなに凛と立って世の中を疎んでいたって、未発達。未完成。未熟。君が抱いたような気持ちはどこにでもあるんだ。君の後ろにだってあるぞ。ネット上にだって腐るほど転がって、そのままほとんど腐っている。どんな闇の中にいたって、その奥の闇から、いつも見知らぬ誰かに見透かされていることに気づかないうちは、ため息なんて滑稽なだけだ。
 だから、自分を特別に思うなんてバカげている。オールド・トラフォードで躍動するルーニーのことを考えたら、自分のちっぽけさに寒気がした。何億人の野蛮な連中から一目置かれる人間とセックスするだなんて、どうやってその頭に信じこませたのか聞いてみたくなる。
 そういうのを妄想と言うんだ。誰にだってできる手慰みだ。喜ばしくも悲しくもない。特別に与えられた能力でもない。それを恥ずかしげもなく積み重ねる。
「陽介」
 登校して来た裕貴がにやけた面を浮かべて俺の机に手をついた。
「おはよう、どした?」
「なあ、古典めちゃくちゃ自信あるんだけど。満点かもしれない」
 裕貴はめっきり変わった。古典の十二町にあてられて勉強を一生懸命やったら、なまじそいつに自信が出たもんで、それを抑えきれず、いとも簡単に、にやけ面のクソヤロウになってしまった。それはやはり、喜ばしくも悲しくもない。
「そうか。あんだけやってりゃなあ。大したもんだよ。俺はやばいし、もうどうでもいいよ。裕貴に託したからな」
 自分勝手に輝いた顔は後ろにいたって眩しすぎる。不愉快ではない。太陽みたいに、その時々に応じて、猛烈に迷惑だ。俺は寝ることにする。
 裕貴は力なく笑って、すごすごといった感じで俺の後ろの席に着いた。ご丁寧に単語帳をぱらつかせ始めて、もう話しかけてくることはないだろう。
 俺は裕貴が手をついたところをさりげなくキャンパス地の筆箱でぬぐうようにして、腕を壁に机へと突っ伏した。
 杜山の足跡が無い机。安心して頬の肌をくっつけた途端にどうしようもなく申し立てが始まる。
 今、裕貴の手のあとをぬぐったのは、裕貴を憎んでいるからではない。俺の普段の机にはいつも登下校する杜山の足跡がついている。気が狂ったジェットコースターに乗り降りするため、当然のように俺の机を踏み台にする、学園長のお坊ちゃんの足跡。これは俺に染みついた癖。ここで生きていくために、入学後ほんの数ヶ月で適応してみせた証。
 俺はそれを悲観しない。絶対に嘆き悲しむものか。ここでは適応しない者の方が元気がいいが、そんなもの、裏を返せばいい吠え面だ。誰も俺の心を乱せるものか。
 だから、お前らの情報をくれるな。好きなものについて言うな。嫌いなものについて言うな。それらしい言葉で自分の好きな音楽や本、映画、アイドル、女を語らないでくれ。その声を俺に聞かせないでくれ。
 しょぼくれた奴が何かについて語ろうというのがおこがましいとかそういうことじゃない。俺だってしょぼくれているには違いないが、己を卑下する呪われた根とは別に、心の内から黙して語らぬよう要請する煤けた養分を送り込む太い根がある。
 お前も俺も、全員、黙っておけばいいじゃないか。それが正しいんだから。
 できないなら、せめて聞かせて欲しい。寄って集まり、話したて囃したて、他愛もない合い言葉を募らせていくことへのフラストレーションと後悔の念がその胸に去来しないのか、その心づもりを聞かせて欲しい。
 去来すると答えるならば、それを野放しにしているわけを知りたいのだ。
 俺は、お前らと無関係に生きて死んでみせる。この甘えたざわめきに、一つの言葉も見出さずに。
 閉じろ。目を閉じろ。
 何十年後か知らない自分を心に描け。あるべき自分の姿を。俺の生まれる前に文字として紙に記録され、それをよすがに人々の脳裏に刻みつけられ、語り継がれ、この世界にいったん取り置かれることになった好ましい生き様を。何十年後か、俺がそう生きているはずの生き様を。
 俺の未来。その未来。いつか殉じてそのように黙々と生きる俺を、今、殺そうとする奴は敵だ。ニコニコ笑って肩をもたれかけ、下卑た笑い声を響かせて、俺の中の俺を殺そうとする敵を殺すんだ。
 そして、それを戦いと呼ぶな。
 俺は殺す。ただ殺す。何の感情もなく、命令に忠実に従い、創意工夫をこらし、忠実に実行した戦時下のアイヒマンのように。学校も仕事も長続きせず最後に務めた仕事だけやり遂げ、命令されれば実の父親でも殺していたでしょうと答えた、忌み嫌われる威厳すら無いと断罪された小役人のように。
 この教室にいる同い年の人間。あるとすれば、好敵手の反義語を適用しよう。そんな奴らがうしろゆびを指そうと、悪口雑言をかまそうと、構うものか。そんなものにさいなまれてたまるものか。
 戦いは別にあるのだ。俺の戦っている相手はもっと別にいるのだ。
 もっと巨大な、恐ろしい、手の付けられない闇の中に。それが誰であろうと、何であろうと、おれは最後まで戦うぞ。もうランタンは手放した。「参った」と言った奴が地獄に落ちるんだろう、俺は知っている。戦い続ければ負けることはない。俺は戦い続ける。故意に隠匿した戦場を行く歩兵だ。歩け、歩け。どこまでも、いつまでも。

 古典のテストが始まった。
 俺はテストが好きだ。普段は騒々しい教室が、ペンの走る音とプリントのすれる音で満たされるこの時間がたまらなく好きだ。
 それを十分味わうためには少しこつがある。問題を解き終えてからでは遅い。テスト開始間もない時間帯に手を止めることだ。
 開始の合図と同時に、息せき切ってプリントを裏返す乾いた長い音が教室に層をつくったのに続けて、書き慣れた氏名をプールサイドを走るように慌ただしく刻みつける音。ややあって、テストの水面下へ全員が沈みきり、張り切った波紋が消えて、ようやく訪れるそのわずかな時間。あちらこちらから絶え間なく、水中で泡となった息が弾けるような、シャープペンの硬い芯が机を打つ音が聞こえてくるその時間。
 その瞬間だけ、俺はやっとこのクラスで息ができる。
 ぼやぼやしていると、出来の良い奴と悪い奴が浮上してくるから、静寂が訪れるのは本当にわずかな時間だ。
 端田も、丸も、必死で解いているだろう。だからバカなんだ。お前達は、スカした顔でやる気の無さを振りまきながら、結局は一生懸命生きてるんだろう。それしかできないのだから。全員、それしかできないのだから。本当の意味で不真面目に生きられる奴なんて、いないのだから。
 後ろからも、一生懸命、寸暇を惜しむようなシャーペンのノック音が聞こえてくる。鼻息まで聞こえそうでうんざりする。
 器用にやる不器用さと真性の不器用さが意識し合ってせめぎ合って不協和音を奏でるこんな場所で、俺はやっと試験にとりかかった。
 自分の答案も半分以上が埋まる頃には、終わった奴もちらほらいるのだろう、教室はもう完璧な状態ではなくなっていた。自分の部屋を水浸しにされたような感覚に襲われる。
 テストが終わり、答案が回収された。その途端、この数十分の成果を、良くも悪くも己の足しにしようと一斉にしゃべり出される声で、どっと淀んで息が詰まる。
 ちらと振り返った俺には目もくれず、裕貴は椅子の上に縮こまっていた。膝の上に開いたノートを慌ててめくり、指で追い追い食い入るように見つめていた。
 早く次のテストが始まらないだろうかと思っていたら、阿佐美さんの頭頂部の髪の毛のわずかな一束が尺取り虫のように起きあがり、小さな輪をつくっているのに目がいった。そこから視線をゆっくり辿らせた。
 黒髪はただ黒く、その途方もない数を感じさせないまま背中へ降りて、吹くのをやめた風のようにそこで消えていた。触れてもいないのに感じた手触りに身の毛がよだつ。我に返ると、輪はもうなかった。
 こんなことは全部なしにしてしまえ。宇野のようにふっと消えてしまおう。何事もなく、どこか遠くへ消えてしまおう。
 一人でなければ遠くへ行けないというのはただのたとえ話だ。しかし、暗い暗い孤独に向かい、一人で歩いている時は、ずっとそこに留まっていた誰かが声をかけてくれる気がする。より迫真の手つきで、救いを差しのべてくれるような気がする。
 その手を力任せに払いのけたいというこの欲望の正体を、俺はずっと知らない。