ワインディング・ノート17(宮沢賢治・『銀河鉄道の夜』・冒頭)
そして、僕はここで、恥ずかしながら、あの冒頭の授業のシーンに心ひかれるわけがわかったような気がしたのでした。宮沢賢治の論評は膨大にありますし、こんなことはもう誰かがいっているかもしれませんし、僕はそれを読んだことすらあるような気がしていますが、それでもぼくは今、かなり大きな歓びをもっています。「銀河鉄道の夜」という不思議な話が、少しわかったような気がするのです。
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見附けたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう。」
ジョバンニは勢よく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた云いました。
「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河は大体何でしょう。」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたがこんどもすぐに答えることができませんでした。
どうでしょう。どうですか。
そうです、ジョバンニは、引っ込み思案だからではなく、それが「科学」であることへの疑いから、自分の中にある「答え」を承伏できないでいるのです。それはむろん、賢治自身の疑いでもあったでしょう。
この世というものが「科学」でなく、「宇宙意志」が「ほんとうの幸ひ」に向けて働いているものだとすれば、「宇宙意志」を象徴するような「ぼんやりと白い」「天の川」を、「星」だと言うことはできません。
かと言って、「ちがう」と声を大にするほど寄りかかる確かなものもない。当然、こういう人物は「全世界を異郷と思う者」の姿をとります。ジョバンニは、銀河鉄道の車内でも、たびたび不安や孤独を感じます。
(こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり談しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして向うの窓のそとを見つめていました。
ここでジョバンニだけが死者でないのですが、別にジョバンニは銀河鉄道でなくたって学校でも活版所でもそんなヤツなのですから、ことさら「死者」だからと言うべきではないと僕は思います。
とにかくジョバンニは、学校で唯一の友だちだと思っていたカムパネルラが、もちろん異性のなんやかんやもあるのでしょうが、「徒党」を組んでしまったことをつらがっている。
ジョバンニは、誰とも「徒党」を組めない「全世界を異郷と思う者」として描かれています。生者も死者もジョバンニの仲間ではなく、自分とはちがう「他者」として現れます。ジョバンニはそう思いたくはなさそうなのですが、そういうものとしてしか、彼の前に「他者」は現れないのです。
こうした「迷誤」のある世界は、賢治にとって、「宇宙意志」の働いていない「科学」に近い世界といえます。世界が「科学」であれば偶然盲目的であると賢治は考えていて、そこでは全ての人間が他者同士であり、当然、誰も幸福にはなれません。なら、せめてまず自分がそれを棄て、「宇宙意志」の導きを標榜しようと思っても、膨大な科学的知識をもった賢治は、科学のない世界を無邪気に考えることなどできないのです。
だから、賢治は「ほんたうの幸ひ」を知ることのできる可能性を持った存在として、ジョバンニをつくったのでしょう。ジョバンニは「科学」を信じきれない存在として、世界にいなければなりません。
そして、僕はここで唐突に、「科学とは過去を参照する態度」であると言ってしまおうと思います。
だとしたら、賢治が死屍累々の過去の地層の上を、一切の気兼ねなく、電車に間に合わないと急ぐ子供らしさをそのままにして、「風か水やがらんとした空か」のうちの「風のように」疾走させたことの意味が、ちょうどこんなふうに、もっとはっきりわかってくるのではないでしょうか。
「ほんたうの幸ひ」を追い求める者は過去を認識し振り返ってはならない。