ワインディング・ノート15(宮沢賢治・『銀河鉄道の夜』・『農民芸術概論』)
遠慮なくつるはしを振るう彼らは、風か水か、がらんとした空かに見えていると先ほど書きましたが、これは、少々の飛躍を承知で言えば、「故郷を甘美に思う者」の態度といえるのではないでしょうか。
彼らはそこにかつての生者たちがいたことを認識しません。自分がいま生きている場を故郷とし、かけがえのないその場所こそが大切なのです。
一方で、はっきりと地層の中にかつての生者たちがいたことを認識しながら、それが「風か水か、がらんとした空かに見え」てしまう可能性を考え、真摯に「証明」しようと試みている大学士は、これまでさんざんくり返してきた「全世界を異郷と思う者」の姿そのものであると言えます。
しかし、僕には気になってきたことがあって、それは大学士のこの言い様です。
「いや、証明するにいるんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらいにできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水か、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい」
大学士は、誰に何を証明しようとしているのでしょうか。
とりあえず、「ぼくらからみると~ことなのだ。」までは「いや、照明するのに要るんだ」の補足として考えると、以下のような二つの可能性が考えられます。
① ここが厚い立派な地層であることを、「ちがったやつら」に証明しようとしている。
② この地層が「ちがったやつら」には「風か水か、がらんとした空か」に見えるということを証明しようとしている。
普通なら、①であると考えるのが普通でしょうけども、どうもそんな風に思われないので困っています。
迷いに迷ってもいちど原典にあたってみたのですが、非常に驚きました。ここは実は、以下のようなセリフだったのです。(ちなみに、この部分は第三次稿で書かれて、第四次最終稿でも変わっていません)
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい。そこもスコープではいけない。そのすぐ下に肋骨が埋もれてる筈じゃないか。」大学士はあわてて走って行きました。
大学士は、「わかったかい」の後で、「けれども」という逆接の語を述べているのです。僕のノートには、そこまで引き写されていませんでした。
ということは、再度、整理してみます。宮沢賢治を相手取ってこんなことをするのは、他の作家にするより無意味なのではないかと思いますが、試みます。
① ここが厚い立派な地層であることを「ぼくらとちがったやつら」に証明するのに要るんだ。けれども……
② この地層が「ぼくらとちがったやつら」には「風か水か、がらんとした空か」に見えるということを証明するのに要るんだ。けれども……
まあ、だからなんだということになるわけなんですが、なんだか僕には②という気がしてきて、なんとかそのための証拠をそろえなければならないという気がしてきましたのでもう少しお付き合いください。棋士は直観を信じて選んだ手の先を読むと聞きますし……。
ところで、高瀬露という女性をご存知でしょうか。
かんたんに言えば、宮沢賢治がつきまとわれて苦労した女性で、賢治は彼女にたしなめ口調の手紙も何度か出したりしています。
以下はその下書きと言われたりしておりますが、そこで賢治は、今の時代はプロレタリア文学にうつっていき、そんなとき心象スケッチとか要っている自分は古くさくうまくいかないと書いたあと、続けます。
ただひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふようなものがあってあらゆる生物をほんとうの幸福にもたらしたいと考へているものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙には実に多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしているといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行ったらいいかはまだ私にはわかりません。
(1929年、日付不明)
『農民芸術概論』序論に有名な一節もありますので、これをウザい女に出すための口から出まかせと取るわけにいかないのは理解されるところと思います。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
簡単にまとめる罪を背負いながらいえば、「宇宙意志が最終的な実現を見るまで、個人の幸福はありえない」ということになるのでしょう。
銀河鉄道は第一次稿が1924年頃、最終形の第四次稿が1931年頃というのが定説になっています。一方、『農民芸術概論』は1926年。高瀬露への手紙は1929年。
これが「北十字とプリシオン海岸」のある第三次稿が書かれた頃とぴったり同時期であるというのは憚られるまでも、賢治がこの手の「中学生の考へるやうな」テーマを深めていた時期としてカブっているぐらいのことは言っていいかと思われます。(ちなみに、この頃の賢治は一時期の国柱会への傾倒がゆるみつつある時期といえます)
何も言ってないような回になりましたけど次回へ。