んこみての 3

 翌日は学校訪問でした。白樺にある、小さい頃に一度泊まったことのある、お父さんの会社の、セミナアハウスの生き写しだと思いました。
 グルウプごとに案内され始めて、いくらもたたないすぐのことです。アンドリュウが、無理やり、わたしの手をぐいと引きました。やっぱり、ひどく熱い手でした。グルウプの動きから離れて、ずんずん歩いて行きます。みんな、見ない振りをしていました。彼は、中庭のレンガの歩道に入ってもなお進みました。レンガの隙間から、長い草がところどころ生えていました。わたしはいつもの癖で、注意深くあたりに目を配りながら、うんこはないものかと歩きました。
 彼は、ぽんぽんした黄色の花をつけた、背の低い低木の前で立ち止まりました。そして、それをわたしに見せるように立ちました。
 それは、ゴオルデン・ワトルという木でした。これはわたし、オオストラリアの事前学習の時間に学んだので、知っていました。
 だいぶ前から遠目に気がついてはいたことは別にして、わたしは無性にがっかりしました。確かにきれいに咲いて、形も黄色いまっくろくろすけのようで、おもしろい。おもしろいのですが、何かと思えば、こういうおもしろい花なんぞ見せて、いったい、どういうつもりなのでしょう。
 わたしとしては、片隅に咲いている、青い小さな花が気になりました。彼がそれを見せたかったのなら、こんな気分にはならなかったでしょうか。
「これはぼくらの国のナショナル・フラワアだ」という、日本で学んだのとそっくり同じ意味のことを言う彼に、わたしの口蓋と舌がぴったりくっついたところに、舌打ちの種が生まれるのを、はっきりとわかりました。それでもなお、花とわたしを交互に首を振り見る、彼の形のいい頬、それが、突っ立っているわたしから見て、広くなったり狭くなったりひらめくのを見たら、ああ本当におもしろくもない、いつのまにか、そこ目がけて思いきり、握り拳をぶつけていました。
 アンドリュウは、歩道から外れた土の上に、うっすら埃まで上げて、バウンドするほど強く強く倒れ伏しました。
 その様子が怖くて怖くて、わたしは元来た道を、小走りで帰りました。道々、まだ手のひらがじんじんしている、というようなことを、こんな時は思うはずだと考えたのですが、当たり所が悪かったせいで、親指の付け根のあたりに、にぶい痛みが残って、どうもおかしな気分で、打撲だろうか、これは打撲だろうか、もしかしたら骨にヒビが入っているのだろうかと心配になりながら、忍者のように音もなく駆けました。
 だらだらと校内をまわっている班のところにもどったわたしは、腫れ物にさわるような扱いを、受けました。彼らは、アンドリュウが、日本娘に、ノックアウトされたとまでは思わないでしょうが、有り体に言いまして、フラれたことがわかっていたようで、何にも言いません。わたしのクラスメイトもそれは同じでしたが、なんだか期待外れのような、ホッとしたような、火が、熱をもった木の葉の下で、くぐもった低い音を立てて、くすぶっているような、つよく息を吹けば、炎がもれ出しそうな、変な感じでした。ただ、わたしがいない間に、昨日までどころか先ほどまで、ぜんぜん感じられなかったほどの新たな交通が、生まれていることは強く強く感じられたのです。宇田くんなんぞは、赤ら顔で冴えない顔面のロビイと、上機嫌に肩を組んで、自分たちに関する情けないことを言っては、ずいぶん楽しんでおいででした。
 アンドリュウが戻って来ていないのは、誰もが承知の、暗黙の了解で、わたしたちは学校を案内され続けました。わたしは、さっきけっこう走ったせいかしら、かなりおなかがすいてきてしまって、おしまいに訪れた食堂では、手の痛みを懸命に押し隠して、重たいマヨネエズやケチャップで厚みを出した、ハンバアガアを二つも食べて、大食漢で知られる彼らから感心され、悪い気もせず愉快に笑っていました。
 ちょうど食堂を出る時でした。屈強な体躯のオオストラリア人の先生二人が、一人はカレエなんかほっとけとおっしゃってくれた先生でしたが、それはそれは上手に、地面のすれすれに低く持った担架を、まるで逃げるように、こっそりとどこかに搬送していくところに、遭遇しました。覚悟はしていましたが、やっぱりアンドリュウでした。すごく派手な青色の担架から、彼の白い肘がはみ出しておりました。わたしは、このことも、彼がわたしの気を引こうと、あれこれ策を講じて、芝居を打って、わざわざ見せてくれているものであるように感じました。
 ついでに言えば、わたしの親指の下もどんどん青くなっていたのですが、文句なんて、言えるものでしょうか。クラスメイトと、それからオオストラリア人たちも、確かにアンドリュウが搬送される様子を、見ていたはずですが、日本のみんなはともかくとして、オオストラリア人たちもひとつも触れないでいるのが、拍子抜けでした。アンドリュウったら、もしかしたら、普段から、村八分にされていたのかも。思えば、彼は、みんなと親しくしているところを、一度も見せてはくれなかったのですから。でも、それよりも、おかしなことに、わたしとアンドリュウのことで団結した彼らの心が、日本人とも、オオストラリア人ともつかない、なにか得体の知れない静かな、マアブル色の塊になってしまったようで、わたしは少し気味悪く思いました。いったんお別れする頃には、彼らは、自分の、とても私的な持ち物を、交換したりし始めました。
 アンドリュウを以外の、大勢のオオストラリアの生徒たちに送られて、わたしたちのバスは学校を後にしました。その頃には親指の下がぜんぶ紫色になっていて、わたしは、もう少しおそかったらハンバアガアも食べられないところだった、そうしたらバス酔いしてしまうところだった、ああよかったと安堵しながら、集まって手を振る外国人の群衆、それがつくる白っぽい景色をながめていました。肌の色というのは、先生が言うほど簡単に払いのけられるようなものではないのだと、そう思いました。