水が、水が

 つけていたテレビがいつの間にかミニ旅番組になっていてつまらないのはともかく、今は水面の上昇のことの方が先だ、そうだろ、という雰囲気が充満していた。豪華客船の下の方、デッキに出るのに一番めんどくさい場所に位置するその客室には、船内でも一番早く水がじゃんじゃん入ってきており、どうせ二日の船旅だしと思って洗濯物をとにもかくにも詰め込み人力で限界まで真空状態に近づけたビニール袋が各自プカプカ浮いていた。中も少し湿っている感じが伝わって気分のいいものではなかった。
「それで、この水はどこから入ってきているんだ、早押しで教えてくれ」
 テーブルの上に乗っている四人の中でもリーダー格である藤村が首に負担のかかる振り向きで皆に問いかけた。
「窓んとこから浸み出してきてるみたいです!」テナガザルが頭のてっぺんと顎を別々の手でかきながら言うと、全員そっちを見た。
 なるへそ、窓の枠のあたりから水がにじみ出ている。その窓は、船室の窓にも関わらず、開けようと思えば開けられる、学校の窓みたいな窓であった。そこを掃除できると掃除用具として優れ物とされる窓のさんの隙間には小さめのハチみたいのが死んでいた。 外が見えているのに何で出られないのかわからなくてガラス窓に半日ほど激突しながらくたばる、こんな死に方だけはしたくない。
「どうして学校みたいな窓なのかしら」リツコがテナガザルに向かって言った。
「わからないです。俺はテナガザルだし……わからないです」テナガザルはくやしそうに下を向いた。
「ぐずぐずしている暇は無いぞ。誰かが泳いで、浮き輪を持っている人に助けを呼びに行かなければ、俺達は全員水を飲んで寒くて不安になって死ぬ」
「でも、誰が行くんだい。オレ達は全員、泳げないんだ・ぜ」クールなウサギがニンジンをポリリとかじりながら言った。
「もう終わりだわ。このまま助けも呼べずに水を飲んで死ぬなんて……そうだ、待って! 思い出したわ。私、『金田一少年の事件簿』で読んだのよ。そうよ、どうして今まで思いつかなかったのかしら。ルイ・ヴィトンのスーツケースは海難事故を想定して、水に浮かぶって、そう書いてあったのよ……藤村さんのバッグ、それは」
「アディダスのだ」藤村がすぐ言った。
「しかもスーツケースじゃないですよ。ボストンバッグですよ。安物です」とテナガザル。「既に一回、塩水に浸かってますよ」
「いよいよ、万事休す・か」ウサギは観念したように、カメと駆けっこして寝てて抜かされた時と同じ、頭の後ろで手を組み足を組んだ体勢になり、目をつぶった。
「あきらめるな。一か八か、泳げなくても、誰かいくしかない。このままじゃあ、どっちにしろ全員犬死にだ」
「でも、誰が行くっていうのよ。私は絶対いやよ」
「テナガザル、お前行け」
「えっ」
「お前行け」
「でも……」テナガザルは水を手でチャプチャプしながら口ごもった。
 藤村はそんなテナガザルを見て、アディダスのカバンを取ると、中から何か紺色のものを取り出した。
「藤村さん、それは……」テナガザルは藤村を見た。
 それは、海パンだった。今年の夏合宿の前日、藤村が「海で履くんだ」とこの海パンを広げた時、テナガザルが「ウエスト一緒ぐらいですね。俺はネイヴィーは絶対似合うはずだから試着させてください」と頼んだが毛がつくと理由で断られた時の、あの海パン。
「いいんですか。俺みたいな奴がそれをはいて、いいんですか」
「はけよ。ゴム紐がどっちかの穴から引っ込んじゃうまで、はきこなしな」
「藤村さん……」
「どうせ泳げない俺に、そのタイプの水着は必要ない。生きて帰ったら、ハーフパンツタイプの水着でも買うさ。アロハ柄的な」
「ありがとうございます」
 テナガザルは涙をこらえながら、水で濡れたテーブルの上で海パンをはいた。狭いので、テナガザルの長い肘ががんがん皆にぶつかった。はたして完全に着こなしてみると、可も不可もない、だいたい想像したとおりだった。
「テナガザル、期待してるわよ」
「お前さんも、やっと人様の役に立つ時がきたようだな」ウサギはさっきの体勢のまま、目をつぶったまま、言った。
 テナガザルは飛び込む前に、みんなの前で、広いようで狭い背中をふるわせた。
「カナダ人対抗カーリング高校選手権で優勝するためにも、こんなところでくたばってられませんよね。あんなに必死で練習したんだ、生きて帰って、絶対優勝しましょう」
 中学生の藤村と、クロワッサンを愛読している年齢肌のリツコは力強くうなずいた。ウサギはそっぽを向いていたが、赤い目をしていた。難病を隠していた。