ジュリアキがワニと海でそして愛

 金曜日、ジュリアキは、街が寝静まった頃はいつもそうしているように、砂浜にいた。風は南南西やや強め、波は2メーター半。今日はちょっと手こずりそうだぜ。ジュリアキは海水パンツのヒモをいつもより固く結んだ。固く結ぶとオシッコをする時にかなり手こずる思い出があるが、したくなったら海の中でオシッコをすることで大自然と一体化したような気になるところがあるジュリアキにとって、そんなことは大した問題ではなかった。
 ジュリアキは、まばらな雲の間にうっすら横たわっている天の川を見上げると、ワニの形をした浮き輪をはるか沖合いにぶん投げた。そして、強い波に激しく揺られながら浮かんでいるそれを鋭い眼光で睨みつける。
 ジュリアキは、人食いワニの動きを見ながら、集中力を高め、今にも始まる死闘をイメージした。ジュリアキの顔はいつの間にか、びしょびしょに濡れていた。ジュリアキは舌をペロリと出すと、顔を伝ってくるその水分をなめた。こんなにも汗をかいて、俺は雰囲気にのまれているのか。さっき一度、気合を入れるために海にざぶんともぐったジュリアキだが、今や、本当にそれが自分でかいた汗だと信じていた。
 ジュリアキは力強く、荒波に乗っていよいよ近づいてきたワニをにらみつけた。ワニが、ワニが向かってくる。俺を殺しに、波に乗ってやってくる。あいつらはグルメじゃない。
「なんでもペロリ!」
 ジュリアキはそう叫び、それから雄たけびをあげながら砂浜を駆け出した。海を見ると入ろうとする大型犬を思い出しながら、ジュリアキは砂浜から波打ち際へ、波打ち際から泳げない人が遊ぶゾーンへバシャバシャと突っ込んでいった。そして、水位が腰の高さほどある場所で、ワニとあいまみえた。
 ジュリアキは、鋭い牙が描かれているワニの顔から横の動きで逃げると、横から組み付いた。そして、両腕に力をこめる。その間も、容赦なく波は襲い、ジュリアキの呼吸を5秒ほど断続的に止める。しかし、ジュリアキはワニから腕を放さない。放せば、その瞬間、あの沢山並んだ歯の餌食になる。このまま、こいつを破裂させるしかない。ジュリアキは両脇を閉め、思い切りワニの体を締め上げた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 無理だ。破裂させるのは無理だ。破裂するどころか、いくら締め付けても、ギュビッ、ギュギュギュ、という変な音しかしないワニを目の当たりにして、ジュリアキは海水を沢山飲んだ。飲みながら作戦変更を決意し、腕をワニから放した。塩辛い、冷静になれ、こいつの弱点を見つけるんだ。ジュリアキは波に体をもっていかれそうになるのを、なんとかワニのシッポをつかむことで耐えた。塩辛い。ジュリアキは海水を目に入れることの不安から、もう一ミリも目を開けることが出来なかった。敵は不死身、目は使い物にならない、そして塩辛い、絶体絶命か。その時、ジュリアキはどさくさにまぎれて大自然と一体になった。すっきりした。諦めるな! まだ可能性はあるはずだろ。そうだ、塩辛い、決して諦めるな、ネバーギブアップ。一瞬の油断も許されない緊迫したこの戦いに隠されたその一瞬で、敵の弱点を見つけるんだ。ヒーローって奴はいつもそうだろ。ジュリアキは、ゴーグルしてくればよかったと思いながら、再度、ワニを押さえ込みにいった。ジュリアキの手に、何か固いツマミのようなものが当たった。ジュリアキは一瞬、真顔になった。
 砂浜のサオリは、高くなった波にのまれた瞬間にワニとジュリアキが消えてしまったその場所をじっと見ながら、ふらふらと立ちあがった。
「ジュリアキィ!」
 サオリは波の音だけが聞こえる海岸で叫んだが、その声もすぐに消えた。サオリは呆然と立ち尽くした。強い風を受け、サオリのパンツは、丸出しとパンチラの間を行ったり来たりしている状態になっていた。
 いつまでそうしていただろう。しばらくして、海の中に、ジュリアキの頭がぽつんと現れた。ワニの姿は見えない。ジュリアキはこっちを見ずに下だけを向いて、波を背中に受けながら、ゆっくりと砂浜の方に近づいてきた。サオリは安堵からか、自然と体が震えた。
 海からあがったジュリアキの左手には、ズタズタになったワニが垂れ下がっていた。そして、右手には小さな短剣が。
 力が抜けてしゃがみこんでいたサオリの前まで来ると、ジュリアキは大きく息をしながら、ワニを地面に落とした。
「腹を、かっさばいて、やったぜ」
 そして、短剣をちらりと見せた。その短剣は、サオリがもう辞めた演劇部の部室から結構しっかりした作りのやつをパクってきたもの。もしもの時のためにと、ジュリアキが海へ出るとき、海水パンツの中に無理やり突っ込ませたもの。
「サオリのおかげだ」
 サオリの目から、とうとう涙がこぼれた。サオリはそれを隠すため、膝の間に頭をうずめた。不思議と今はゆるやかになった風が、半そでの腕をなでるのを感じた。波の音も、穏やかになっていた。
 ジュリアキは長い間、その幼馴染の姿を見下ろしていたが、息切れがおさまった頃に、男らしい口調で言った。 
「休んでいる暇は無い、次だ。サオリ、次の敵の準備をしてくれ」
「……今、ふくらませるね」
 サオリは涙をぬぐって顔を上げると、足元の、中途半端に空気が入ってシワシワになっているシャチを模した浮き輪を手に取った。そして、シャチの腹にかぶりつくような形で、息を吹き込み始めた。もうこんな危ないことは止めて欲しい気持ちもあった。でも、コレをやっている時のジュリアキが一番かっこいいよ。サオリは膨らんでいくシャチ越しに見えるジュリアキの男らしい足首を見ながらそう思った。だから私、バイトしてワニとシャチとサメを買うの、全然つらくないよ、本当だよ。サオリの耳には、いつもそうであるように、シャチを膨らませる自分の息遣いと波の音が聞こえていた。