難しい年頃

 俺がまだクソガキだった頃、俺の心に縫い付けられていた言葉は「ラブ・オア・ピース」で、縫い付けたのはママンだった。どういうことかと言えば、どっちかでいいだろ、なぜならラブがあればピースが、ピーズがあればラブもお前の後ろについてくるというカラクリのなせる業であった。納得!
 非常にオーソドックスな夢を見て俺は大工さんになりたがったが、ママンは絶対許さなかった。お前のジャスティスは梁の上ちゃうやん、そんなこってラブとピースを掌握せんとは片腹痛いわ。
 ママン、どないしょう。何が俺のラブとピース群をいいともレギュラーのようないい塩梅で各曜日にちりばめることが出来るだろうか。
「それはね」とママン。「自分で考えろ!」
 ママンは俺が野球のルールを知らない頃から厳しかった。まさに問答無用。誰彼などかまわぬ。シンナー吸引ボーイを享年十五歳送りにする場面は学校帰りによく目撃した。飢えし狼のような教育熱心ぶりを筋肉に変え、PTAを代表してお見舞いしていた。
 俺はドリカムの男むかつくけど、これはラブとは無関係。無論ピースともな。深呼吸してしばし沈思黙考すると、俺はまぐわいの季節を迎えていた。光るボタン制服を着るようになる数年間、それはラブ・アンド・ピースが雲散霧消せし堕落のシーズン。野外ステージを埋め尽くすスペルマとミニスカ。体育会系の侵食にさらされ、俺はどうなってしまうのか。切り抜けて来い、切り抜けておもしろくなれ。それがラブだろ、ピースなんだろ。ラブ・ノア・ピース世代との死闘。この道を、ずっとずっと、友達いらずのソロ活動していくんだね。