『いまだ、おしまいの地』こだま

 

いまだ、おしまいの地

いまだ、おしまいの地

  • 作者:こだま
  • 発売日: 2020/09/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 こだまさんの新しい本が送られてきた。

 帯で酒井若菜が「読んでも読んでも疲れない」と書いている。それが褒め言葉になるかどうかはさておき、なんとなく頭に入れながら読んでいると、次のような文にぶつかった。

 その神社は町を見下ろす高台に建っていた。境内には大きなミズナラやカシワの木が枝を張り、昼間なのに薄暗かった。出迎える狛犬の尻尾と牙は欠けていた。不気味で不吉な神社だ。参拝者は見当たらない。私はお賽銭箱の前で考え込んだ。

 (p.96)

  ここで「読んでも読んでも疲れない」のは、我々がこれまで見知ってきた神社を喚起するために過不足ない描写だからだ。こういうところを読んで「情景が目に浮かぶ」みたいな声が上がるとすれば、それは「町を見下ろす高台」「大きなミズナラやカシワの木」「昼間なのに薄暗かった」「狛犬の尻尾と牙は欠けていた」「不気味で不吉な」「参拝者は見当たらない」などの、その神社の固有性を裏付けはしない言葉が、読者の神社にまつわる記憶から情報を引き出して全体を補完するからだ。
 読者の頭にあるのは上に挙げたそれぞれのみが映る一瞬のカットであり、それが一つの場に揃っているのを目に浮かぶように把握することは、その文章からは許されていない。実際、日本中の数多の神社がこの記述内容に当てはまるので、その中からこだまさんが足繁く通う神社を特定することは不可能だろう。

 では、どんな文章なら特定できるかというと、例えば堀辰雄に「浄瑠璃寺の春」という小品があって、こんな風だ。

 かたわらに花さいている馬酔木よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちの前に供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼きごえの聞えてくる七面鳥、――そういうこのあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。
(『大和路・信濃路』p.153)

  こういう文章は、かなりの配慮がされているとはいえ、読んだら疲れる。例えば「七本の大きな柿の木」と読んで、頭の中の柿の木を七本に指定されるだけで、読者は多少疲れている。それが堂の裏にあるという条件もあると、さらに疲れる。
 しかしここには、その時その場所に行けば、堀辰雄はここを書いたんだと確信できるだけの具体性がある。

 

 だからといって、具体性があって特定できた方がいいからそのように書けと言いたいわけでは全然ない。こういうことから、その文章が何のために書かれているかについて、考えることができるかもしれないということを言いたい。作者の目的というよりも、心意気や心遣いに似た何かについて言いたい。

 自分のことでいえば、例えば神社でもどこでも参ってノートを開いてひとり風景を描写をするのを日課とするのは、それを見た自分の感動を書いておきたい、それをいつでも読み返して、あの時の感動と何か違うと思えば、新たな言葉によって、あの時の感動を十全に表すと思える文章にいつでも更新できる状態にしておきたい、という宮沢賢治に学んだ気持ちからだ。だから新たにnoteへ打ち込んで推敲するというのも始めた。日課が多いが、そんな練習なしに書いていけるとも思わない。落合ぐらい練習しようと思っている。

 そんな自分の経験を鑑みると、記述が具体的になればなるほど、文章は自分のためという顔つきをしてくる。それをつぶさに見た自分、事細かに考えた自分と、文章が重なっていく。そこに余人は入りがたい。入ろうとすれば、疲れてしまう。正直言って、自分は読者のことをこれっぽっちも考えていない。

 それで言うと、こだまさんは神社の描写を、明らかに読者のために書いている。もちろん、それが媒体や依頼内容や編集者のアドバイスに左右された結果だというのは同じような作業をしている自分にも容易に想像がつくけれど、身も蓋もない言い方をすれば、大半の「すぐに疲れてしまう読者」のためにそうなるのである。みんながみんな練習しているわけじゃないんだから当たり前だ。

 もう一つだけ例を挙げれば、金を騙し取った「メルヘン」なる男の両親のもとへ談判に乗り込んだ時の回想も、具体性はさりげなく抜き取られている。

 日当たりの良いリビングに、仲が良かったころの家族写真が何枚も飾られていた。毛並みの良い猫が私たちの足にふわふわの尻尾を絡ませて歩く。まだ何も知らない写真の中の家族と、私たちにお腹を見せて無邪気に転がる猫。あの空間で彼らだけは幸せそうだった。
(p.123) 

  もちろんここでは、実在する個人への配慮が何よりも大きいのだろうけれど、リビングにはもっと生々しいものもあったかもしれないし、写真の中にだって印象的な一枚があったんじゃないかとも思う。罪のない猫について、幸福を連想させる「毛並み」だけでなく「メルヘンの両親が飼っているただ一匹の猫」であるように具体的に書くことだってできるはずだ。自分の飼い猫を野良から連れて帰ってきた日の描写には及ばないまでも。

 酒井若菜は「読者との距離感が心地良い作家第一位」とも言っている。なるほど、こういう端々に現れた抽象性の柔らかみというか間口の広さが、心地良い作家第一位なのだろう。
 でも、実際にはその心地よい距離感とやらは、たぶん酒井若菜が思っているように作家が読者に近づきすぎないようにして生まれたのではなく、本当はもっともっと遠ざかっていたいはずの作家が妙な責任感と生来の流されやすさから読者に頑張って近づこうとする配慮に支えられているように思える。

 

 ところで、本書に時々登場する「同人誌仲間」という言葉に、直接ではなくとも、自分はたぶん入っている。世間一般がそう聞いて想像するほどの交流と、実際の交流の程度にはかなりのギャップがあるのだが、こだまさんはたぶん当然のように「仲間」と思ってくれているだろう。
 今書いているこの感想というか書評というかは、当世風の「同人誌仲間」が書くような感想ではなさそうだけれど、それも、自分のために書けばこんな風になるということでしかない。知り合いの本を読んだって、自分の考えたいことを考えるべきだ。それは、いやな思いをしたって『夫のちんぽが入らない』ことを書くべきだというのと同じくらい当たり前のことのように思える。

 その当たり前がなかなか難しい世の中で、この「同人誌仲間」は、そんな考えをそれぞれに隠し持ったまま始まったし、なんか知らないけど全員そこそこ以上の実入りがあった後でも、そんな雰囲気をどうにかこうにか保っているという気がする。
 だからこそ本書で、依頼されて書く中で色々な要因で追い詰められて大変な思いをしているのを見ると、「読者との距離感」の遠近が一因のように思えて、心が痛まないこともない。

 

 本書の中には、猫を連れ帰った場面のほかにも、そこを読むだけで、その時その場所に立ち会えばこのことを書いているんだと確信できるだけの具体性をもって描写された場面が少しだけある。また、台詞なしにそう確信させるのは一層大変だけれど、それをしているところも一つある。
 「読んでも読んでも疲れない」本の中で、読んだら少し疲れるそんなところを気に留める読者もあまりないだろうが、当時の作者と、今それを書いている作者、とにかく作者だけが救われているように思えるその場面が、自分はいちばん心に残った。

 朝が怖い。どうして私のお腹は暴れてしまうのか。二階の自室の窓を開け、うなだれるように風を浴びていると不思議なものを目にした。
 窓の真下の青いトタン屋根に星の形をした茶色い錆があった。青空にひとつ浮かぶ、孤独な星。誰も知らない私だけの発見だった。
 触れてみたいけれど、身を乗り出すには高さがあった。
 その星に向かって唾を垂らすと命中した。
(p.100)

 

大和路・信濃路 (新潮文庫)

大和路・信濃路 (新潮文庫)

  • 作者:辰雄, 堀
  • 発売日: 1955/11/01
  • メディア: 文庫
 

 

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

 

 

ここは、おしまいの地

ここは、おしまいの地

  • 作者:こだま
  • 発売日: 2018/01/25
  • メディア: 単行本
 

 

『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』梯久美子

 

サガレン 樺太/サハリン  境界を旅する

サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する

  • 作者:梯 久美子
  • 発売日: 2020/04/24
  • メディア: 単行本
 

 

 サガレンはサハリン/樺太の旧名である。

 死んだら人はどうなるか。どこに行くか。というか、この前死んだ「わたくしのいもうと」のトシはどうなったのか、どこに行ったのか。宮沢賢治は花巻からサガレンへ行きて帰りし旅の中でそれについて考えた。

 というのは年譜に照らして詩を読めばそれはそうだという比較的知られた話で、研究も沢山ある。そして、さすがの賢治もそのためだけに樺太まで行ったわけでもなく、表向きの目的は、樺太王子製紙に勤めていた旧友を訪ね、教え子の就職を頼むためだ。実際、二人ほど就職したという。

 研究によって、人間が人々に資するようなよい形に仕立て上げられるうちに、変なところが混ざるかはしょられるかする。それに感づいた上でそれを払っていく行程を経ることで、本当に資するのはこの真実の姿なんだと思うかする、それもまた変なところで、結局、人のことなんてどこまでいってもわかったとは言い切れない。自分だって、書くんだ読むんだそう生きるんだと文面で装ってはいるが平常の生活があって、それをみんな見られたら、調子のいいこと言いやがってと思うだろう。

 だから、あまり神格化しないでちゃんとやろうよということなのだが、宮沢賢治くらいちゃんとやってないものが大量にくっついている人も珍しい。
 例えば、本書で紹介されるように、賢治が花巻から青森に向かう際に書いた「青森挽歌」に「わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに/ここではみなみへかけてゐる」という部分があるのを、疲労で意識が朦朧としているためとか、「方角や場所、あるいは時間といったものの所在が生と死という異質なものと等質化を遂げようとすると、まったく意味を喪失してしまう」ことを示しているとかいう解説を付したものがあったりする。これの何がちゃんとしていないかというと、賢治が乗った東北本線には、単純に南下する区間があるだけなのだった。

 出来上がりが文字の並びであるのをいいことに机上で行われる研究から勘違いが生まれて、それが勘違いだとわかる。初めから調べておけば何事もなかったのだけれど、人間のやることだから仕方がない。そこから生まれた色々もある。

 まあ上のような例は机上でも対処できたはずとは思うけれども、書かれたもののうちには、どうしたって机上で対処できないものもある。特に宮沢賢治は外を歩き回る自分の心象をスケッチすることで自らの理想郷たるイーハトーヴを創り上げてきたのであって、それは到底机上と断じられるものではない。著者も当然、その手の考えを持っていて、だからサガレンまで行こうと試み、南へ向かう東北本線にも難なく気付く。

 先日、磯﨑憲一郎さんと「文學界」誌上で対談をした。話の頭を磯﨑さんが作ってくれたが、その内容は、図書新聞で自分の書いた『金太郎飴』の書評についてであった。そこで自分は、収録されているエッセイの一つに書かれた千葉の我孫子の古墳公園を実際に訪れて書評を書いたのだけれど、それで保坂和志さんの小説にある、老犬を散歩していた海で小学生の女の子たちがわざわざ膝まで水に浸かってかわいいかわいいと犬を撫でてくれたことの嬉しさを書いた場面を引き合いに出して、自分が書いたものにそんな風に歩み寄って来てくれたことが嬉しくて、それだけでいいというようなことを話された。

 最近、自分もそれを逆の立場で味わった。担当編集者がTwitterで秒速でいいねしたものが流れてきて、自分が小説に書いた場所を訪れている人を何人か見た。

 誰かと同じものを見たいという気持ちは何か。その誰かが死んでしまっている場合もあることを考えると、それを目に見える耳に聞こえる形で共有したいという願望でもなさそうなのに、我々はそれを見て確かめたがる。
 著者も旭川で賢治の見たのと同じかもしれない樹木を見つけてなんとなく嬉しそうだが、そういうのは不思議な気持ちだ。そこでは何が確かなものになっているのか。

 賢治は帰りの汽車、函館へ向かう途中、きれいな円形を描いた内浦湾(噴火湾)沿いを走る汽車で「噴火湾ノクターン)」を書いている。

稚いゑんどうの澱粉や緑金が
どこから来てこんなに照らすのか
  (車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる)
とし子は大きく眼をあいて
烈しい薔薇いろの火に燃されながら
  (あの七月の高い熱……)
鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてゐた
  (かんがえてゐたのか
   いまかんがへてゐるのか)
車室の軋りは二疋の栗鼠
   《ことしは勤めにそとへ出でゐないひとは
    みんなかはるがかる林へ行かう》
赤銅の半月刀を腰にさげて
どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ
七月末のそのころに
思ひ余つたやうにとし子が言つた
  ⦅おらあど死んでもいゝはんて
   あの林の中さ行ぐだい
   うごいで熱は高ぐなつても
   あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて⦆
鳥のやうに栗鼠のやうに
そんなにさはやかな林を恋ひ
 (栗鼠の軋りは水車の夜明け
  大きなくるみの木のしただ)
一千九百二十三年の
とし子はやさしく眼をみひらいて
透明薔薇の身熱から
青い林をかんがへてゐる
アゴツトの声が前方にし
Funeral march があやしくいままたはじまり出す
  (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠)
 ⦅栗鼠お魚たべあんすのすか⦆
  (二等室のガラスは霜のもやう)
もう明けがたに遠くない
崖の木や草も明らかに見え
車室の軋りもいつかかすれ
一ぴきのちひさなちひさな白い蛾が
天井のあかしのあたりを這つてゐる
  (車室の軋りは天の楽音)
噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 トシが一九二二年の十一月に死んだ、その前の七月の高熱を賢治は思い出している。同時に「一千九百二十三年」、賢治が函館に向かう汽車で思うトシは、同じ青い林のことを「いまかんがへてゐる」。つまり、「わたくしの感じないちがつた空間」にトシが「うつる」。その時、生きている賢治は、目に映る風景の中、「駒ヶ岳」にかかった「まつくらな雲のなか」に、トシが「かくされてゐるかもしれない」と思う。

 もし、賢治が見たものしか心象スケッチに書き込まなかったのであれば、我々はそれをもう二度と見ることはできない。しかし、そこに隠されたものを見ようとしていたなら、それは百年後の自分にも、叶わぬ思いとして感得されるような気がする。もちろん、自分の場合は、トシを見たいのではなく、そう思った賢治を、サガレンに隠されたように思える賢治を見たいのだけれど。

 こんなことも机上に位置するにしたって、そこに発した思いがいつかのサガレンへ導く。自分も死ぬまでに一度は訪れてみたいと思う。そんな風に、自分の書いたものがある場所へ人を導くとすれば、それはやはり嬉しいことだ。

 

宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫)

  • 作者:宮沢 賢治
  • 発売日: 1986/02/01
  • メディア: 文庫
 

  

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)

宮沢賢治全集〈6〉 (ちくま文庫)

  • 作者:宮沢 賢治
  • 発売日: 1986/05/01
  • メディア: 文庫
 

「サガレンと八月」収録

 

日本蒙昧前史

日本蒙昧前史