『鳴雪自叙伝』内藤鳴雪

 

鳴雪自叙伝 (岩波文庫)

鳴雪自叙伝 (岩波文庫)

  • 作者:内藤 鳴雪
  • 発売日: 2002/07/19
  • メディア: 文庫
 

 
 制度や文化の違いはあれど、昔の人の感覚や営みが今の人と比べてそれほど変わらなかったとかは、知れば知るほどいいというか、何度も繰り返し知っていかないと、すぐに実感から遠くなってしまう。彼等が我々と同じように生きていたリアルな時間を見くびってしまう。
 町田康の書評で知った『元禄御畳奉行の日記』を初めて読んだ時、役人として生きる江戸時代の武士が、当時のウブな自分の感覚からすれば醜態を日記に書いていて衝撃を受けたけれど、それもそれで、武士という身分に対する先入観によって、個々の人間という存在感を、その長い人生にあるダルさ暢気さ不遜さを見くびっていたのであった。考えれば当たり前なのに。

 そんな風に、教育では教えてくれなかったり、ぼんやり摂取してしまったりする「歴史」からは弾かれる気分が、個人の著したものをあれこれ捜して読んでいると、さすがに書いてある。

 内藤鳴雪(めいせつ)は、幕末から明治を生きた人物で、正岡子規の門人の一人として知られる。が、年齢は子規より二十一も上で、もともとの出会いは、松山藩士の寄宿舎の監督として鳴雪が漢詩などを教えているところに、子規が寄宿生として入ってきたことだ。
 後に師弟の関係が逆になったわけだが、そんなことは何も気にせず振る舞っていたようだし、「子規子なかりせば僕は」「理屈的の一漢で終はるのであつた」と書いている。なかなかできることではない。子規も子規で、親ほども年長の徒弟を「鳴雪の翁」とか「先生」と呼んでいた。

 本書は、鳴雪がその生涯を晩年に口述筆記したもので、豊かな知識と記憶をユーモアがくるんだような語り口が心地よいし、表記がえもされているだろうが実に読みやすい。話している時のサービス精神の表れか、糞尿と死の話が絶妙な間とタイミングでたびたび挿入されて、しびれる。

 で、個人の気分の話だった。
 若い頃、鳴雪は松山藩の命令で京都へ経学修行へ出される。薩摩人が過半数を占める水本塾に入って楽しく過ごしていた中に、こんなエピソードがある。

一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ輓近西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ四ツ足だといって汚らわしいものとしていた。しかるに薩州人はこの牛肉を好み食ったので、それを売る者が邸前へ幾所にも蓆を布いて切売をしていた、これは皆穢多である。その他鴨川の川原でもそこここに葦簀囲いの牛肉販売店があった。これも薩州人を始め諸藩の荒武者を得意としていたのである。なおこの穢多の住居であるが、西京にも似ず三条の橋を東へ渡ると、大通のじき裏町に穢多町というがあった。そこでは既に牛鍋を食わす店があって、飯でも酒でも売っていた。

 (p.210)

 こんなことは歴史の範疇だが、意外と思う人には意外かも知れない。人々から隔離されるようになった仕事である屠殺を生業とする穢多の間では、食肉は日常的に行われていた。江戸の麹町平河町にあったももんじ屋では、イノシシやウサギはもちろん、カワウソからオオカミまで食われていたという。薩州人が「牛肉を好み食った」とあるのは、もともと琉球文化の影響もあって特に豚肉がよく食べられていたので抵抗がなかったのが大きいだろう。徳川慶喜が薩摩家老だった小松帯刀に何度も豚肉を所望した話も残っている。
 で、興味深いのはここから。

この事は水本塾の人々の話にも上ったが、誰一人まだ穢多町へ行って牛鍋をつつこうという者はなかった。そこで私は夙にハイカラになっていて、穢多も同じ人間だと理解していたから一ツこの穢多町の牛鍋を食って来て、薩摩隼人を驚かしてやろうと、或る日単身でそこへ行ったが、随分狭くて汚ない家であったけれども我慢して坐り込んで、牛鍋を命じなお酒や飯を命じた。そうして食っては見たが、実の処穢多の家だと思うと胸の工合がよくないが、ここが辛抱だと思い、酒力を借りて肉も二鍋、飯も二、三椀はやった。そこで水本塾へ帰って来て、今日はかくかくの事をした、これから諸君とも同行しようといったが誰も応じる者が無かったので、私は珍しく同塾生をやっつけたのである。

 (同)

 この後、明治四年に身分外身分階層いわゆる穢多非人が、形としては廃止される。西洋を参考にというわけだが、だからこそ鳴雪は当時を思い返し、それをハイカラと言ってはばからない。
 その知識のおかげで「穢多も同じ人間だと理解していた」が、この「理解」は頭で行われるから、感覚は十分にはついて来ない。もともと同塾生を驚かしてやろうというウケたい心で来ているから、「穢多の家だと思うと胸の工合がよくない」。ウケたさでやせ我慢して食っている。

 こういう後の言葉に言う差別の問題についてや、刑法課の仕事で拷問に関わらなければならなかった次の場面で、自分を偽らない口述は実に頼もしい。

 今いったような拷問を私も隙見をせねばならぬことになったが、最初は見るに忍びず、また少しは怖いような気もしていたが度重なると、もう何の感もなく、強情な奴にはまだ少し強く責めてやってもよかろうという感を持つようになった。人間の残酷性はつまりかような習慣から養成されるのである。

(p.244) 

 素朴に感じずにいられないのは、制度や文化が異なる中でも、鳴雪は百年後の自分と何ら変わらないところで立派だということだ。自分たちと言ってもいいかも知れないが、その中でも仰がれるべき人間の分別である。

 鳴雪の時代を思えば、現代社会はある面で格段に良い方に向かっている。しかし、その現在にも、不勉強や生勉強が混ざり、他人の反応をうかがっての行動があり、隠した我慢がある。鳴雪のハイカラに届かない考えの人間が山ほどいる。

 さらに時が進み、時代がすっかり変わりきったなんて思える頃、例えば百年経った頃、今の個人の気分は埋もれてしまっているだろう。これだけネット上に声が溢れかえっても、だからこそ顧みられずに沈んでいくはずだ。鳴雪の文がこの本の中にようやく残されるのと同じく、そのいくつかが細々と参照され続けてかろうじて残る。
 百年後、今生きている全員が死に、井脇ノブ子の著作が古書として取り扱われている時、酉ガラを名乗る一人の青年がそれに固執して独自の文章を散発し続けていた気分は残るだろうか。そういうことを考えずに読んで、今だけ楽しんで、こんな人が評価される世の中であってほしいとか知ったようなことを言うだけ言って、言って、言ってさぁ百年後、みんな死んで何も残らないわけだが、そんなんでいいのかとも思う。人間というのは何をするものか、と思う。何に対しても。

 このまま時代が良いと信じられる方へ進んでいくとして、百年後から見た自分の考えというのは、どう思われるか。自分の考えが立派に思えるとして、変わらず立派に思われるものか。
 こういう先々への奇妙な反省は、百年前に目を向け、制度や文化や個人が変わりゆくことを承知しながら本音と建て前の裏表なく話すことのできた鳴雪のような立派な人を見ないことには、醸成されないように思う。今苦しんでいる人の声だけを反響させるだけでは時代の全体はわかりっこない。

  百年後の人に、鳴雪のような言葉を残すのは立派なことだけれど、それをするのにすぐさま百年後を考えようとするのも情けない。結局はその都度の今へ、それが含む過去へ真摯に向き合うのを続けて、気分を変えていくしかない。
「なりゆきに任せる」が座右の銘であったという鳴雪はそんなこともちゃんと書いていて、さっきから立派立派とばかり言うが、本当に立派だと思う。

今日よりも明日、更に知る点が出来たなら、またそれに移って行く、要するに事実と共に私の智識は進んで行くのであって、その比較的確かなものを信じて、これに満足をする外はないのだ。この事を話せば際限もないから、ここらで止めて置くが、そんな考えがその頃から出来て、遂に今日に至っても変らないのである。

(p.296)

 

 

誰も知らない屠場の仕事

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  • 作者:桜井 厚,岸 衛
  • 発売日: 2015/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

差別と迷信―被差別部落の歴史 (社会の科学入門シリーズ)

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やる気 元気 いわき 根性一代夢の花

やる気 元気 いわき 根性一代夢の花

  • 作者:井脇 ノブ子
  • 発売日: 2015/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

『揺れうごく鳥と樹々のつながり 裏庭と書庫からはじめる生態学』吉川徹朗

 

揺れうごく鳥と樹々のつながり (フィールドの生物学 25)
 

 

 このご時世、マイクロツーリズムなんて言葉も注目されているが、当地に住んでいても顧みられないものというのは沢山あって、遠出して求めているものに比して何が違うかと言えば、特に何も違わない。ただしそれでも旅行へ出掛ける人に聞けば、こちとら見慣れていないものが見たいと言うだろう。

 じゃあそういう時の見慣れているって何かというと、詳しくは知らないがいつも目に入れているぐらいのことだ。『となりのトトロ』の作中、水汲むサツキの足下にコンロンソウがあるなと判別できるくらい細かく描きこまれている草花みたいなもので、目に入れながら名前を知ろうとも思わず、そこで何が起こっているかについてもあんまり問題にされない。問題にされないことを問題にして、また逆説的に理想として、宮崎駿はそんなことをしたのだろうが、公開して年月が経とうと、「見慣れている」ものを問題にするのは、踏み越えた趣味の人や研究者ぐらいに留まっている。それを見て育ったはずの我々のうちの何割が、クスノキやジャノヒゲをすぐにわかるサツキほどに木や草について知っているだろう。こういう知識を「世界の解像度」なんて言葉で手段のように扱ううちは、理想から離れるばかりだ。

 そうした見慣れているのに顧みられない場として、著者は裏庭と書庫を挙げる。

 裏庭と書庫。どちらもある程度私たちの身近にある場所であり、あまりめだたない場所である。どちらもある種の狭さをもった、限定された世界にすぎないのは確かである。けれどもこうした身近な場所でも、好奇心を刺激する発見があり、興味を掻き立てる謎があり、それを解き明かす楽しみがある。大学の研究室のすぐそばにある「裏庭」で調査をはじめた私は、そんな発見と謎解きに導かれることで、研究を続けることができた。もちろん身近な場所を出て、遠く離れた海外のフィールドで研究することがすごく刺激的である。図鑑でしか目にすることがないかっこいい生物や珍しい生物を追いかけるのも魅力的だ。ふだんの環境から離れることで新たな視界が開けることも多い。だが同時に、私たちの近くの場所にも意外な発見はいくらでも転がっていて、そこからさまざまな謎解きをはじめることができる。「裏庭」に通うなかで見たり聞いたりする生き物たちの雑多な姿が、私にとっては研究の原点になった。

 (「はじめに」より)

 
 樹々と鳥たちの様々な関係から、種子散布について受粉について、つまりどのように樹々が繁殖していくかを考えるというのが著者の研究である。
 とはいえ、話は著者が研究室に入るところ、そういう場所を顧み始めるところから順を追うので、顧みてぇなぁ自分も、ここらで、という感じを持っている人にも大いに参考になるだろうし、私も皆に対して、顧みてホヂ、と ちみ語で思わずにはいられない。

 それは、著者が研究を進める中で、そんな風に人知れず顧みている奴らのフォルダが火を噴くところがあって、無性に感動してしまうからだ。

 著者が鳥と果実とのつながりを捉える上で出てきた問題に、「それぞれの鳥に対する観察努力量の多寡」がある。「たとえば、ヒヨドリは非常に多種の果実を食べていると記録されているが、この鳥の個体数が多いことが、記録された果実種数の多さに影響されているかもしれない。またすりつぶし型のキジやヤマドリも見かける機会こそ多くないが、もっとも人気のある狩猟鳥であり、胃内容が分析される機会も多い。これが食性幅の過大評価につながる可能性がある」というわけだ。芸能人が何を食べているか知りたい時に、ラッシャー板前が港で魚介類を食べていたという記録ばかり集まってきたらつらい。

 著者は、日本野鳥の会神奈川支部が発行している『神奈川の鳥 二〇〇一―二〇〇五 神奈川県鳥類目録Ⅴ』(日本野鳥の会神奈川支部、二〇〇六)を手に入れて、問題解決に向かう。これは、神奈川支部の有志が、県内で観察される野鳥の行動を収集するために築いたシステムをもとに記録を数年ごとにまとめたものだ。
 実に細かいそのデータに喜んだ著者が新たな目録をさらに購入すると、そこにCD―Rが同封されていた。

何気なくこれをパソコンに入れて開いてみて、衝撃を受けた。そこには会員の方が一九七〇年代から収集されてきた全観察記録が、エクセルファイルに収納されていたのである。一件一件の観察記録について、日時、場所、環境、鳥の種、鳥の行動まで事細かな情報がすべて掲載されている。冊子に断片的に掲載されていた果実色のデータのそれぞれについて、元のオリジナルの観察記録が格納されていたのである(ただしプライバシーの観点から観察者の氏名は伏せられている。また希少種の保護の為に繁殖に関する記録も伏せるなど保全上の配慮もされている)。収録された観察件数は全部で十八万件以上、そこに出現する鳥は三八〇種にのぼる。そのオリジナルデータの質と量は圧倒的なものだった。
 日本野鳥の会神奈川支部は、『BINOS』という支部独自の研究誌をもつなど、鳥類の研究と保全活動に力を入れている支部であるということは以前から知っていた。これまでの鳥類目録の著作で、そのアクティブな活動は知っていたが、これほど整理されたデータを目の当たりにして、大きな衝撃を受けた。すごいデータだ。後日、支部の会員の方にお話を伺ったところ、設立当初からこの支部では野鳥の基礎生態について関心が高かったという。一般にバードウォッチングをする人は、珍しい鳥を見つけることに感心を向けることが多く、それはそれで鳥の分布の貴重な情報になるのだが、神奈川支部では普通種の生態に感心をもつという伝統があり、その観察データの蓄積を継続され、生態の解明と鳥類保全とに活用されてきたという。目の前にある鳥類目録のデータが、たくさんの会員の方による長年の努力の結晶であることが、一目見ただけですぐに理解できた。そして、このデータを使うことでこれまでの研究の課題に取り組むことができる。そう直感した。

 (p.102~104)

 
 感動して長々引用してしまったが、こういう踏み込んだ人々の得がたい努力と協力が支えている自然への理解と興味を、自分の並べる文字列にも書き込みたいと思う。トトロに描かれた里の森林や川は、作中の時代よりも、公開した時代よりも、保全の進んだ今の方が顧みやすいものになっているところも多いのだから、足をのばす甲斐もある。

 途中に著者も書いているが、公園で鳥を観察していると「何か(珍しいの)見ましたか」と声をかけられることが多い。「それはそれで」有益だし、池の裏にオオルリが来てまっせと自慢げに教えたこともあるが、やはりそういう「顧みない」タイプの発想には熱心に付き合いきれないところもある。
 見慣れないものを見たいというのは己の知に積極的な態度なのだろうが、もはやそれが人類にとっての知であることは滅多にない。知は、己の、我々の無知に積極的な態度で顧みる人が残してくれる。そんな人と共に過ごしたい。もちろん、そういう人の多くは全国の裏庭や書庫にいて、せいぜい何かの機会に袖を振り合うだけなのだが、互いにそれもまたよしと思っているに違いない、信頼し合う仲間である。

 野鳥の会神奈川支部の中心は、平塚市博物館学芸員をして神奈川大学に勤めた浜口哲一という人物で、著者がデータを研究に利用させてもらえないか連絡をとってみると「研究目的の利用なら歓迎します」と快諾してもらえたという。

このように真摯に対応いただいたことには感謝しきれない。じつを言うと、浜口先生のお名前は以前からよく存じ上げていた。私が野鳥観察をはじめた当時いつも持ち歩いていた図鑑(『野鳥』山と渓谷社、叶内・浜口 一九九一)の解説を書かれていたのが浜口先生だったからだ。ボロボロになるまで使い込んだ馴染みの図鑑、その著者の方とのご縁を不思議に思った。

 (p.105)

 

命あたたか ちみたん (KITORA)

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  • 作者:あにゃ
  • 発売日: 2020/01/23
  • メディア: 単行本
 

冥福を祈る。

 

野鳥 (山溪フィールドブックス)

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ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

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  • 作者:石田 光史
  • 発売日: 2015/03/23
  • メディア: 単行本
 

 持ち歩いている。

 

定本 柳宗民の雑草ノオト 春

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  • 作者:柳 宗民
  • 発売日: 2019/01/25
  • メディア: 単行本
 

 

定本 柳宗民の雑草ノオト 夏

定本 柳宗民の雑草ノオト 夏

  • 作者:柳 宗民
  • 発売日: 2019/05/27
  • メディア: 単行本
 

トトロに描きこまれた野草は大体載っており、その愛で方を学ぶことが出来る。

 

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

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