『「馬」が動かした日本史』蒲池明弘
古墳時代、王宮に仕える大工の名人がいて、「自分はミスをしない完璧人間で逆に苦労が多い、巨乳は肩がこるみたいな感じ」などと凄くいやなアピールをしてくるので、正直ウザいな、いつか懲らしめてやりたいな、とみんな思っていた。
そんな噂がとうとう一番上の雄略天皇まで届き、天皇は知恵をしぼった末に「その大工が仕事している目の前で、女たちにふんどし姿で相撲をとらせるしかない」と結論づけられた。「もうこうなったら、そうするしかない」とかおっしゃってるので、仕方がないからやってみたところ、これがちょっともう言葉には言い表せないほどすごかったみたいで、大工は「イテテテテ」と呻きながらミスを連発してしまった。ミスしかしなかった。
股間を押さえてうずくまる大工の向こうから出てきた雄略天皇は、「これに懲りて、今後は軽々しく自分を誇るでないぞ」と言いそうな顔つきをしていたが、ゆっくり歩み寄ると、大工に死刑を宣告した。
やっぱ古墳時代のスカッとジャパンはスケールがちがうなという感じだが、なんでこんな話から始めるかというと、この後、大工の仲間が雄略天皇に「彼の死は国家の損失です、お許しください」と涙ながらに訴え、天皇が「俺はどうかしていた」と反省し「ほんとうに最初から最後まで俺がおかしかった。でも、大工はもう刑場に送ってしまったし……」となった時、赦免を告げるために急ぐ使者が乗っていたのが「甲斐の黒駒」だったからだ。
つまり、こういう古文書の記述から、そんな出来事が本当にあったかどうかはわからないが、それが虚偽だったとしても、その虚偽を支えようとしている些細な記述から、「古墳時代から山梨の辺りは馬産地としてあったんだなぁ」と勉強になるわけで、そうやって馬という観点から歴史を見ようというのがこの本である。あくまで見ようという感じに留まっているが、門外漢にはおもしろい。
中でも、上の話と比較して楽しいのは、日本の馬文化に去勢技術がなかったという話。
明治時代になって西欧文化が入ってくるまで、馬の去勢の習慣がなかったことは、日本の馬文化の後進性を語るとき、具体例として必ず指摘される。去勢されていない馬は気が荒く、調教しづらいだけでなく、馬どうしの喧嘩が多く、組織的な軍事行動ができない欠点がある。雄馬と雌馬が混ざっていると、発情期には収拾がつかなくなるので、戦場では雄馬しか使用されていなかった。
(p.251)
この感じは、義和団事件が起こって日本が欧米列強とともに中国に出兵した際、去勢されていない日本の馬が暴れに暴れてさんざん秩序を乱し、運ぶための貨物列車にすらまともに乗れなかったという大恥をかくまで続いたという。
ここにぼんやり見えるのは、中国の影響下にありながら宦官制度が存在しなかった日本の、去勢を嫌う民族性である。確かに、雄略天皇のやっていることの文脈や雰囲気を見ると、死刑ではなく去勢という選択肢だってありそうなものだが、しない。他に去勢が制度に組み込まれた記録も残っていない。
「性欲なんてなければ仕事に励めるかもしれないが、あった上で頑張ろう、それで頑張れたらすごいし、でもダメならもういいや、死のう」というのはさすがに単純化しすぎだけれど、こういうことには、著者が提示している馬を去勢しなかった理由の一つ――あえて荒馬を乗りこなすことが技能やプライドの証明となっていたという武士文化に通底するものがある気がして、おもしろい。
チー牛マスクの最期
その日のチー牛マスクはなんだか様子がおかしかった。もちろんそれが、巷で話題のネットスラングのせいなことぐらい、ぼくにはわかっていた。
「今日も助かったよ、いつもありがとう、チー牛マスク」
「お安い御用さ、西田くん」
そのお礼にすき家をおごるのがいつものパターンなのに、今日のチー牛マスクは、途中でリンガーハットに入る素振りを見せた。でも、胸元に「とろ~り3種のチーズ牛丼」マークをあしらったスーパーマンの格好をしているからには、すき家へ行かないわけにはいかない。それに、チー牛マスクは、そんな言葉が流行るずっとずっと前から、すき家のチーズ牛丼が大好きだ。ぼくは知ってるんだ。
「たまには他のいってみっかな~」
だから、そんなみっともないごまかしをする必要なんてないんだ。かつおぶしオクラ牛丼の文字を妙にゆっくり指でなぞっているのを見て、ぼくはむかついてきた。絶対そんなの頼まないだろ。そんなの頼むヤツ、存在しないだろ……!
結局、店員を呼んだ後で悩みに悩んだポーズをとった末に、こんなのあるんだと土壇場で気付いた体で、なんで今まで視線に入らなかったかねの体でチー牛を指差し注文した。そして、いつもはつける「おんたま」をつけなかった。
ぼくは何も言わなかった。お決まりの台詞、「チー牛マスクは、ほんとに、『とろ~り3種のチーズ牛丼』が好きなんだから」を言わなかった。
そんなぼくの様子をみっともないほど気にしていることが、マスクからのぞく瞳の動きでわかった。やたらに水を飲んで、何か言いたそうにしてやめる。それを何度か繰り返した後、テーブルに肘をつき、逆手に軽く立てた親指でぼくを指さして、話しかけてきた。
「そういや、あれ、『女帝 小池百合子』読んだ?」
普段しないような会話。僕はほんの少しだけ首を振って、「いや」と言った。
「政治のこともちょっとは知っとけよ~?」
最悪な親戚のおじさんのように覗きこまれて、僕の視界がチー牛マスクの顔を覆っている赤黄色に染まった。溜まりに溜まった怒りがそれを、絶えず流れるシャボン玉の縞のように歪ませる。赤と黄色と目玉の黒が、3種のチーズのように溶け合って何も見通せない。見えない、そんなにチーズをのせたら牛丼が見えないよ――。
「西田くん、西田くん?」
ゆっくり視界が戻ってチー牛マスクの顔が現れた。顔といってもマスクだ。ぼくはその奥の素顔を見たことがない。チー牛マスクは正体を知られてはいけないからだ。いったい、どんな顔をしているんだろうか。でも、さっきからこいつの、この態度……。
「マジで、あの顔なのか……?」
声に出すつもりはなかったんだ。でも、ぼくはその時どうかしていた。こうなることなんて、わかっていたはずなのに。
チー牛マスクは何かに怯えたように黙った。少し後ろにのけ反るようにして姿勢を正し、腕組みをし、それを一旦解き、腿をさすり、ぼくを見て、だいぶ経ってから「は?」と言った。「どゆこと?」
その態度が怒りに拍車をかけて「さっきからウザったいんだよ」とぼくに吐き捨てさせた。「意識しちゃってさ、マジでチー牛顔なんじゃないの? 全然違う顔だったら、そんな風にはならないだろ?」
目が、ものすごく考えていた。どうすれば状況を打開できるか。でも、チー牛マスクはそんな器用でもかしこくもなかった。かしこい人間はチー牛マスクになんかならない。でも、ほんの少しだけあった、カバンの底の砂のようなケチなかしこさが、こいつにマスクをかぶらせたのだろう。こいつはダメな男なんだ。
「いやいやいやいやいや」
だいぶ間を置いてからこのリアクションを取るこいつは、事あるごとに中学生に飯をおごられたりする最低の大人なんだ。そんなこと、わかってたというのに。
「ていうかだって西田くんさ、ボクの顔、見たこと、ないじゃん……?」
探りを入れつつ、精一杯ごまかそうとして力なく笑った息がマスクにかかると同時に、店員がやって来た。
「お待たせしました、『とろ~り3種のチーズ牛丼』です」
今話題のチー牛に動揺するマスクマンを目の前にしながらチーズの香りが鼻をかすめて、ぼくは笑ってしまった。きっと、嘲るように。
「おい!」とチー牛マスクは通りの悪い声で叫び、烈火の如く立ち上がった。
初めて見る本気の怒りは、なぜかというか、当然と言うべきか、ぜんぜん恐くはなかった。正真正銘のチー牛だった。店中の視線が集まる、静かな音が聞こえた。
「今日、お前を助けてやったのは誰だ言ってみろ!」
ぼくは何も言わなかった。
「わからないなら説明してやろうか!」
声を張ったチー牛マスクは、他のお客さんに目配せしてから始めた。
「お前は、好きな男子のパンツがどうしても欲しいとオレに相談してきたんだ。男子のだぞ!? それで先週、お前はそいつと全く同じパンツを西友で買って来て、何日か履いて自分の色やにおいをつけて、今日、プールの時間にすり替えようとしたな。おい汚らわしい変態め、ちゃんと聞け! なあ、今日、同じ授業に出ているお前の代わりにパンツをすり替えてやったのは、誰だって言ってるんだよ! 答えろ、このド変態のオカマ野郎め! 今もそのカバンに、そいつのパンツが大事に大事に入ってるんだもんな!?」
店中の視線のほとんどは、ぼくに注がれていた。まるで安堵したかのように歪むチー牛マスクの口の両脇には、溜まった泡が白い房をつくっている。何の知識も思いやりもない空虚な泡の塊をここまで膨らませたのは、確かにこのぼくだ。
「こいつが、好きな男の子のパンツがど~しても欲しいって言うもんで!」
だから、本当に殺すしかない。ぼくはとろ~り3種のチーズ牛丼をつかみ、得意そうに大声を上げている後頭部へ、思いきり振り下ろした。