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ライフ・イズ・コブラツイスト

創作

 島田紳助が二審で勝訴したというニュースが飛び込んできた時、俺はカレーをあたためていた。特に変わったことはなかった。変わったことと言えば、島田紳助が二審で勝訴したことぐらいで、中身をぞんざいに取り払われたビニール袋がふとした風に追いやられてゆっくり落下する様も見慣れたものだった。
 どうにかカレーを食べ終えて往来に出ると、道行く人々は別に普段と変わらぬ様子もなく歩いていたせいでしばらく気づかなかったが、自分の体がまったくの透明になっている。
 まず往来を歩き回る上で不自由はないと言えた。自分は自分で、普段と何も変わらなかったからである。
 人間に発見された人間だけが人間になるというルールについてどこからか嫌悪感を催すほど考えてきた。人間に発見された惑星が自分の運の良さを言祝がないのと同じく、特別、何の感慨もなく、人も人に発見されてゆく。
 自分が人間に発見された人間であることは、無上の歓びである以上に、何と耐えがたいことであるか想像もつかない。そんなことは考えたこともないのだからなおさらである。
 俺は目についた古い民家へ無断で入っていった。
 周囲にあるある程度の新しさを備えた家々が、目を逸らしているような印象。色は茶色。壁があり、屋根がある。小学生が絵に描きそうな単純明快で粗悪な構造ながら、生半可な技術では描くことができないほどに腐敗している。
 そんなものを選んだということは、すでに何らかの鬱憤を抱え込んでいたのだろう。健康で文化的な生活を送っていれば、そんなものに首を突っ込む必要はないのだから。
 時々の決断だけに閃いては消えてゆく人生の意味。網膜に焼き付いた何の色もなさない色にこだわっているのでは、のたれ死になど自明なことだった。
 廃屋の猫の額ほどの庭に老人が一人いた。
 そこら中に重なりすぎてただの黒一色と化した大量の鉄くずに囲まれた老人は、こちらも黒い何かの製作の真っ最中のよう。他の鉄くずと峻別され、評価を保留されている鉄のかたまりを前に、真っ赤に熱した鉄の棒を左手に、右手にボロボロの鍋つかみを持ち、額に汗していた。
 近寄って見ると黒い物体の正体はコブラツイストの像であった。
 といっても、そのコブラツイストには受け手はいない。人間が、腕を輪にして一歩踏み出そうとしているような、掛け手のみの立像である。
 庭に山と積まれて一部はブロック塀にせり出した鉄の物体も、よく見れば上半身、腕や足と、凹凸のある様々な人間の一部であり、地獄門のように黒々しくひしめき動きかけていた。
 今取り掛かっている鉄像は、目下老人の最新作なのだろう、実に立派なものであった。プロレスに興味のない俺からしても、それはそれは立派なコブラツイストの掛け手の像であった。この世にそのような馬鹿げた像がこれ一体しかないとしても、他を圧する凄味があった。
 老人の最高傑作だと、どんなにか拍手を贈りたかったろう。老人の覇気に満ちたこの庭そのものが称賛されるべきだと思った。決して馬鹿げてなどいない。
 義憤のようなものにかられた俺は、コブラツイストに吸い込まれるように、輪になって突っ張った腕に自分の頭を通し、直角になった相手の左膝下に腿を差し入れた。左腕を相手の背後に出して体をひねり、コブラツイストに掛けられた。
「けっこう……」
 確かにそれは、相手もなく造り上げられたものにしては驚くほど関節技としての威力を有してはいたが、所詮はけっこうキくだけであって、人間相手にキまりはしないのだった。
 急速にがっかりした。俺は、実は、殺されるほどの覚悟があったというのに。
 義憤がしぼみ、もうどうでもいいという気分になり、銭湯の女湯でも覗きに行こうかと思い立った。
 その時、背中に回した腕を強くつかまれた。それだけのことだが、背中に張り巡らされた筋という筋が曲がらぬ方向に硬直し、まったく身動きがとれなくなった。
 喉にからんだ痰が呼気に震える音とともに微細な鉄粉が目の寸前を舞い、老人が現れた。こちらの感づかれることなく突如として現れるなど、本来ならありえない。映画のワンシーンのようだった。
 歯を食いしばり声を出さないようにこらえたのは自分がいま透明人間だからだろう。せめて透明人間の務めぐらいは全うしたいという無意味なプライドを自分の中に発見できて、俺は少し嬉しい。
 事実、腕を掴んでいながらも、老人は俺を認識した動きを一切見せなかった。
 首をかしげるような動作の後に腕は開放されたが、俺は身じろぎできなかった。作業が開始された。
 老人は無雑作にぶら下げた熱い鉄の棒がおもむろに立ち上げた。熱気が顔にかかる。
 まさか、そいつを俺に押し当てるのだろうか?
 しかし、老人が像の左腕の付け根、俺の右肩の上に差し込んだ熱した鉄の棒は、俺に触れることなく、像の左腕のみをじっくり溶解させ、その脇を締めるという作業だけを遂行した。左腕全体がゆっくりと落ちてきて密着し、俺の体を締め上げた時、背中から首にかけて激痛が走った。
 キまったコブラツイストは耐えがたいほどであった。筋肉の綱の破れるような感触にむやみな冷感があった。
 老人が再び正面に回り込み、大袈裟にこの世の地獄のような顔を近づける。皺が不潔に刻まれた顔も、やぶにらみの目も、そこら中、水滴だらけだった。
 その淀んだ眼球は、植物のぐんぐん伸びる過程を早回しにした映像のように、瞬く間に血走った道を延ばしていった。視線はあっけなく俺の目を通り過ぎていった。そんな目をしていれば無理もないが、どうやら、ほとんど目が見えないらしい。
 俺は確信した。老人は俺に気づいていない。
 さっきよりも眼球の血管は網を増やしてただれており、全てが膿となって垂れ流れるのも時間の問題と思われた。
誰でもピカソなぁ」
 老人は詠じるといった風情で呻いたが、それは俺に対して発した言葉とはどうにも思えなかった。
 腰をかがめたまま上半身だけ前後左右に動かして、ちょうどヘリコプターがホバリングするような感じで像の全体をなめるように見ている方が老人の大事で、言葉は思念のよだれのように胡乱に漂った。
 独り言とも言えない、宛名のない言葉。
 その証拠に、こちらが黙っていても、老人はそれきりしゃべろうということもなかった。目をこすろうとし、思いとどまり、慌ただしくどこかへ行くと、またすぐに目元を水浸しにして戻ってきた。
 老人は戻ったとも告げず、そのまま背後から俺の脇腹をつかみ、ひねりあげるように押し込んだ。
 なべつかみの厚い綿の感触。と同時に熱した鉄棒が像に与えられ、その背筋がじりじりと立ち上がり、俺は固定された。
 痛みは、その痛みとは比べものにならない正体不明の衝撃とともにあっけなく終わってしまった。同時に呼吸も不可能となった。
 視界が急速に狭まり始める。
 コブラツイストが完膚なきまでにキまったのだ。
「生きてるか~、ビートたけしぃ~~」
 その言葉は俺に向けたものではなく、誰に向けたものでもなかった。まして老人がつかみ、所定の位置に据えるのは、俺の腕ではなかった。脇腹ではなかった。俺ではなかった。
 老人はただ、頭の中に思い描いたコブラツイストの相手をつかんだに過ぎない。さらばえた老人とは思えないほどの遠慮のない強さがあったのは、相手が人間でない物であったからと考えれば合点がいく。
 よって、老人はどこまでも孤独だった。そこに俺が現れた。孤独を癒すことなく、助けになれる唯一の存在が。なにしろ携わったという思いが強く、誇らしかった。また、老人はビートたけしが生きているかどうか確認する術すら持たなかった。
ビートたけしぃ~~」
 薄れゆく意識の中で響く老人の言葉に漂いながら、俺は確信する。
 報われるという言葉はありうるが、報われなかったなどという言葉はありえない。
 その言葉を使う資格のある者は、自負と自尊と卑下に苛んで、一切の時を奪われ、ただ負けぬためだけに生きている。
 俺の死をもって、この鉄の像は人類史の中に、ある価値を有して完成したが、それを誰にも伝えられないのが本当に残念だ。
 老人は粘液にくるまれた黄土色の目玉を必死に見開いて、その完成を確かめているように見えた。それが叶わないこともまた、本当に残念だが、残念だという気持ちは今、残念ながらこの世に存在を許されていない。
 俺が見た限りでは、老人はアントニオ猪木のコスプレをしていたように思えた。