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役に立たない音楽が鳴る

 母親に牛乳を頼まれて、高校1年の樹一(じゅいち)は身を切るような寒さの中をしぶしぶ出かけていった。
 すぐそこにあるコンビニでの買い物をお母さんは許さない。公園を横切って行くとスーパーへの近道だ。近辺ではなかなかの広さを持ったその公園には、中央にポカスカジャンの姿を象った大きな複合遊具があり、空洞となって板が互い違いに張り巡らされている内部をくぐったり、腕の下に張られた網をのぼったり、やや離れた位置にいるギターを構えた太った小男へと不安定なロープ橋を渡ると、ギターから伸びた螺旋すべり台で楽しむことができる。10時から17時までは、一時間ごとにポカスカジャンの楽曲(大抵は「ガリガリ君のうた」)が天辺のスピーカーから流れ出す極めて愉快な仕掛けもあった。それぞれの背面に「創価」という心ない落書きも見える。
 その前を通りすぎようとした時、反対側にある茂みの中に人を見つけた。
 冬でも葉を落とさない生け垣の奥に頭だけが出ていたが、頭の形で同じ高校で同じクラスの山下さんだとわかった。
 軽そうな小さい頭をやや前に傾けているものだから、樹一は反射的におしっこをしているのだと考え、ネックウォーマーに顔をうずめて前を向いてそれまでと同じように歩いた。ダウンジャケットに熱を閉じられて、しばらくするともう汗をかいていた。そして、何気なくそこまで来てしまったことを後悔した。

 駅前の大きなスーパーで一番安い牛乳を買ったあとで同じクラスの有馬に話しかけられた。それほど仲が良いわけでは無いが、運動部のレギュラーらしい「暇なんだよ」という強気に押されて、二階にある小さなゲームセンターで遊ぶことになった。磯貝くんあたりなら断わって帰れたのだが。
 それでもなんとなくおもしろがっているうちに三百円が落っこちて、牛乳はぬるくなって重たく膨らんでいた
 一度ぬるくなった牛乳は気持ちが悪いと2つ上の姉、里江は毛嫌いする。そして、その原因をつくった者を決して許さない。新しい牛乳が買われるまで信じられない執拗さで文句を並べている。標的が弟だったらなおさらだ。
 帰りに通った公園は暗く沈んで、ポカスカジャンの顔もわからない。一人の名前もわからない。
 もう山下さんはいないと思っていたら、まだいた。樹一はぎゃんとして立ち止まり、入り口に配されたトーテムポールの陰に隠れた。 山下さんは1時間前と同じように茂みから頭を出していた。暗くて、初めて見たのではそこに誰かがいるとさえ気づかなかっただろうが、さっきの情景が脳裏に焼き付いていた樹一にはわかった。
 後悔していた分、その存在に喜んでもいたが、どうして未だにあんなところにいるのかわからず不気味でもあった。暗くてはっきりわからないこともあり、山下さんは微動だにしないように見える。何をしているのか検討もつかない。
 どれぐらい経っただろうか。肘にかけたビニール袋を通して牛乳パックが腿にあたる感触がひどく冷たい。 
 何時間もあんなところであんなふうにして、山下さんは寒くないのだろうか。それとも何かいやらしいことだろうか。万が一、あの茂みの奥で性器が出ているようなことがあれば、さぞ寒かろう。しかし青姦しているわけでもあるまいし。何かいやなことでもあったのだろうか。
 大人しくも朗らかでもない山下さんのこともあり、どこか不穏な空気が漂っている。樹一は、山下さんがこれまでずっと何かを隠しているんじゃないかと勘繰っていたような気さえしてくる。それを自分が見初めたのではないか。これまで何も意識なんぞしなかったくせに卑怯なことだ。公園の茂みにいつまでも潜んでいられるそのことが確信となって、しかし言葉には昇華せず、圧倒的なものとして胸に迫ってきた。秘密の蒸気にあてられているのだ。
 きっと君も、似ても似つかない別の人間になる準備を進めているんだ……そういう極端な態度をとって、自分から逃避しているんだろう……なぜなら、他人と連帯するほどプライドは弱ってはいないからだ……。もう少し準備や知恵があったら、そんな私語さえ試みるところだが、樹一は、ただこれから起こることが自分にどのように作用するかと単純に期待しながら、子どものように顔を出している。
 人影が闇に紛れて伸び上がった。山下さんが立ち上がった。
 ゆっくりと腰を気遣うような動きで、恐る恐る強張った背筋を伸ばしている。しかし首は傾いたまま、足下からの視線を外さない。
 茂みの奥にある低い鉄柵をひらりとまたいで、山下さんは去っていった。
 樹一はしばらくそのまま眺めていたが、山下さんがちょうど家に帰ったと思われる頃合で、久しぶりに鳴ったビニールの擦れる音とともにやっと一歩出た。公園の砂を踏みしめる音が、ざくざくとやけに響く。
 そこで見たのは、寝そべるようにぐったり伸びた子猫だった。持っている牛乳を与えようとも思いつかないほどに死んでいた。
 小さな体の一帯の土には小さなトンボをひいたような跡があって、全体的に他より少し削れてくぼんでいる。まだ生きているうちに腹や手足が押しのけたせいだろう。猫自体に傷はなく、死んではいるが健康そうに見えた。
 その両手で隠せそうなほどのわずかな空間に一つの答えが転がっているのを樹一も当然見つけられた。
 山下さんは、子猫を死ぬまで押さえつけていたのだ。
 不自然な体勢で死んだ猫を、帰り際の山下さんと同じ高さから見つめたまま、樹一は立ちすくんで動かなかった。
 その時、背後でポカスカジャンが大音量で「ガリガリ君のうた」を歌い出した。樹一は心臓が止まるほど驚いた。

 夜の張り詰めた空気に、スピーカーから流れる大音量のポカスカジャンは死ぬほどうるさい。そして激烈に不愉快だった。
 窓が慌ただしく開く音が公園を囲い込む。
 なんとなく気まずい思いがして、樹一の足が自然と動いた。柵をまたごうとすると案外高い。
 山下さん、足が長いんだな……。またいだ柵に一度尻を預けてから越えると、樹一は家に走って行った。


 翌日、学校での山下さんの様子は変わらなかった。目立つわけでもないが、適度に笑顔を見せ、皆へ話題を提供することだってある。どこかに影があるのも事実だったが、それも含めていつものようだった。第一、見られていたとも知らないのだからそうだろう。
 問題はむしろ樹一だった。一人でいる時は多少慎重な行動なり思考を見せる樹一だったが、人の前では何の取り柄もないばかりかウソばかりつく最低のクソ野郎だった。気弱なクラスメイトしかいない場では俺はデカいことをやる人間だなんだとか言いながら居丈高に振る舞い、特別やりこんでもいないゲームの話をうわべで語り頭をはたいた。人の好い磯貝くんとかの厚意をしばしば蔑ろにして顰蹙を買ったかと思えば、会話が続かないと腋臭の早坂くんのことを悪く言って磨き足らない黄色い歯を見せて笑い、その醜悪な態度に自分で気づかなかった。また使おうと思って乱暴にたたまれた洗顔シートはいつもポケットからはみ出して制服のズボンに染みをつくり、ワックスは耳の後ろで白い塊となって伸びて、自分ではモテると思っていた。その至らなさを誰も指摘しないほど、仲の良い友人も持たなかった。そしてそれにも気づかなかった。
 そんなことだから、樹一はさっそく数学の授業中にノートを破って書き殴り折り畳んだ手紙でもって、名前も書かずに山下さんを呼び出すのだった。
 ともに帰宅部の二人に、放課後の教室は都合が良かった。山下さんは来た。一度みんなと一緒に出て時間の経った教室に堂々と入って来た。
「呼び出して、ごめん」
 座っていた樹一は所在なげに、いそいそ腰を上げて出迎える。
「なに」
 もうその声には嫌悪感が混じっていて、同時に後ろ手で念を押すようにドアが閉められた。これから起こることがもう耐え難いという様子である。
 樹一はそれにはさすがに気づいた。気づいたけれど、もう端から決めていたことを変えられず、言った。
「実は山下さんのこと好きなんだけど、付き合ってくれない?」
 樹一にも意外だったが、山下さんは動きを止めて樹一を見た。樹一は膝の裏で椅子を押してしまい、いびつな音が教室に響いた。
「いや」
 でも、それは信念のこもらない一言に聞こえた。無関心か本心の裏返しかそれはわからなかったが、少なくとも、樹一がこれまで聞いてきた多くの告白に対する返事とは違うような気がした。
 しかし樹一は思考を閉じて、断わられた時に言おうと考えていた言葉を、事もなげに言った。
「山下さん、昨日公園で猫を殺してなかった……?」
 山下さんは微動だにしない。固まったというでもなく、何の反応も見られない。ただスクールバッグに手を添えて、ビー玉のようなくっきりした黒目を樹一に差し向けていた。
「時間かけて。押さえつけて」
 外はまだ明るく、真新しい机は窓からの陽光を照らし返して窓際に近いほど白く見える。どこかから友達同士でふざける女子の笑い声が跳ねた。似つかわしくない会話に場がしらけていくのを樹一は感じないのだろうか。感じないのだ。
「なんかエロいことさしてよ」
 そして通りの悪い声で続けた。
「ばらさないし」
 樹一が前屈みに近づこうとすると、山下さんが一歩前に出た。立ち止まった樹一の顔はそれだけのことでだらしない悦びに輝いて、汚れた歯が覗いた。
 それを真っ直ぐ山下さんの唇がふさいだので、樹一は本当にびっくりした。唇にもよおした柔らかい感触と、急に間近で香った甘さに樹一は目を見開いた。
 何も考えられなくなった樹一は通りの悪い鼻を開いて無粋な音をたてながら同級生の空気を吸い込み、抑えの効かない舌を夢中で差し込んでやった。
「ん……」
 山下さんは静かにうめいたが、その舌は黙っている時と同じ位置にしまわれており、樹一は懸命に開いた口と伸ばした舌先でもって努力し、かたい歯の奥にある山下さんの柔らかい舌を己のねじって尖らせた先端で何度もひっかいた。粒立った味蕾がわずかにこすり合って個人的な湿りを交換する温さと、多くが手に入らないもどかしさに樹一は興奮を深入りさせて、これ以上なく乱暴に、きつくきつく山下さんの体を抱きしめた。腰の骨がぎゅうぎゅう軋んで喘ぐような振動に樹一はますます興奮し、その手を徐々に下へと下ろしていった。
 それをたしなめるように、山下さんはスクールバッグをゆっくり落とすと同時に空いた両手を樹一の胸に置いて力を込めて押した。色に狂った樹一は名残惜しそうに上半身だけをようやく離し、二人は見つめ合った。
「山下さん?」
 山下さんは答えない。その両手は、短くも長くもないセーターから手の甲の上半分とか細い指だけを覗かせながら、なおも樹一を押していく。心地よい女性の圧にまかせて後ずさりする樹一の腿の裏に、机の角が当たった。なおも力は加減されず、机の上に寝転がるよう求めるようだ。しかし樹一の体は小さくない。机の上に落ち着かない体は、力をずらして逃がすように床に倒れ込んだ。
「ちょっと……やばいって」
 言いながら樹一は期待に胸を膨らませて待った。痛いほど拍動するその胸に置いた手は一度も離れず、山下さんは飛び箱でもとぶようにすぐ樹一の腹にまたがった。
 ふさがった両手にスカートをたくし込む余裕などなく、山下さんの温度が薄い布一枚越しに、腹の上に湯をまいたように広がった。
「こんで、どうすんの……?」
 山下さんは答えず、そしてまた動きを止めてしまった。前髪が顔の前まで垂れてしまい、表情が確認できない。ただ、胸を、腹を押さえつける力だけで、山下さんの生気が確認できた。
「山下さん、いっつもあんなことやってんの…?」
 樹一は相変わらずこの幸運に悦んで、気分良く聞いた。そして次の動作を待っていた。
 山下さんは答えない。樹一は質問の意味がわからないのだと合点して言った。
「猫のこと」
 何の反応も起こさない山下さんの付け根まで見えそうな白い腿の重みが脇腹をしめつけるようにかかっているのを感じるだけで、体と体の間にぶら下がったリボンの揺らぎとその先にある細くなだらかな顎を見るだけで、いくらも退屈しなかった。
 やがて、山下さんはわずかに見える口もとでつぶやいた。
「5匹」
「あんなこと、もうやめなよ」
 山下さんは無視して、樹一がわずかに体を動かすたびに手に力を込めた。
「俺がいるし」
 樹一は全くバカだったので、この時、自分が子猫と同じくなっていたのに、その手に込められた力がそれだとわからなかった。三十秒、一分、さらに幾らか時が経っても、樹一はいつまでも期待して、また楽しみながら待っていた。
 突然、ガラリと教室のドアが開いた。中島さんというお喋りなクラスメイトが床の二人を発見した。
「ちょっと! え!? ごめん!!」
 その驚きの声が、たまらず上がった口角のせいで明るくうわずるのを、樹一はともかく山下さんははっきり聞き取っただろう。
 ドアが閉じられ、一拍おいて、山下さんはまた腰をかばうようにゆっくり樹一をまたいだ形で立ち上がり、一瞬哀しげな顔を見せたが、カバンを拾うと、ばたばた走っていく中島さんを追ったようにはとても見えない落ち着いた足取りで教室を出て行った。
 樹一は唖然とそれを見送ったが、いやらしい笑みを浮かべた顔を汗ばんだ手で時々わざとらしくぬぐったりしていたが、しばらくそのまま寝転がっていた。


 翌日、山下さんは死んでしまった。特急列車が一顧だにせず通過する小さな田舎駅の一番前で、先頭車両に飛び込んで。
 列車の警笛が短く鳴ったのと同じ頃、教室では、既に噂が、中島さんとそれほど仲の良くない女友達の間にも流れ込み、小さく高く過剰に息の混じった独特な声を奏で始めていた。樹一はそれとは隔てたところ、普段は相手にされない男子を相手に、こちらも小さく抑えられた野卑で不協な笑いの音を我慢できずに漏らしていた。
 公園のポカスカジャンの音楽は、不具合のためしばらく鳴らさないことになった。それを知っても、あの日山下さんが茂みの奥で何度その音楽を耳にしたのか、愚かな樹一はそんなことも考えなかった。いやな話である。