「デザートわっしょい」をわっしょいする

もう一つは、独創と模倣の関係についてのものである。人間が一切がっさい自分で創作したものよりも、他人から借りたものを用いて創作したものの方に遙かに優れた独創性がみられるということである。もしこれが正しいとすれば、模倣の容易さから、一流よりも二流の作家や芸術家の方が独創性を刺激する可能性が明らかに大きい。
エリック・ホッファー『波止場日記』

 ぼく脳さんが褒められる時、「狂ってる」「カオス」「キチガイ」果ては「シュール」などという言葉がよく使われるのは、ホッファーのこの荒削りな思索と無関係ではないでしょう。
 物珍しいものが芸術だとは言いませんが、稀少性が一つの魅力となりうることは間違いがありません。そうしたものたちがなぜ稀少なままでいるかと言えば、模倣が難しいからです。そして「模倣の難しさ」こそが一流の条件だという考えがホッファーの前提にはある。これが独創性です。
 一流の創作者の技術は、精神に根を張っているかのように見えます。簡単に言えば、一目見てその人の作品であることがわかる。その折り紙付きの技術は、その技術自身が、一人の作家・芸術家であることを主張しているのです。
 そんな代物を模倣すれば、それはまさに模倣にしかなり得ません。「ああ、一流のあの人の影響を受けたのね」という感慨ほど興ざめするものがあるでしょうか。それならば、「一流のあの人」の創ったものにあたっていればいいだけです。


 そうなると人は必然的に、一流から創作の精神を学び、多くの二流から創作の技術を学ぶ羽目になるはずです。
 しかし、こんなにダルいことがあるでしょうか。
 自分が一番凄いと思っているものから形になるものを学べず、自分より劣るものから技術を剽窃することしか出来ない。
 しかし、多くの人にとって独創性は、そういう風にしか育めないものなのです。
 精神は独創性を育みません。「独創的になりたい」という心があろうとなかろうと、独創性を育む肥やしとなるのはいつも自分と相対化した二流・三流の人物から「良いとこどり」しようと試みた時間と、いかに真摯に取り組んだかという態度でしかありません。そこで、人々の認知とか、お褒めに預かりたいという心を現せば、「そんなことしてる暇あったらやれよ!」と言いたくなるのが人情です。人は、それが一流の精神とそぐわないものであるということを知っています。


 とはいえ、ホッファーの言う一流とか二流とかの評価は個人的なものです。ある人にとっての一流が三流であることもあるし、その逆もある。
 ということは前段と矛盾するようではありますが、世に言う一流ですら、技術的な肥やしにすることは可能なのです。つまり、多くのものを二流と捉えれば、模倣可能なものは増えます。しかし、これにはきっとあの漠然とした「才能」というものがいるのです。
 一流は、一流を二流と捉える心意気の中でしか育たぬものかもしれません。
 時々、自分を一流と公言して憚らず、その割にあんまり何にもしていない気の毒な人がいますが、俎上にのせるのはよしておきます。


 さて、ここまでホッファーに頼って話を進めてきましたが、あっさり変わります。
 言わば、前述のような考えは、現在も通用するとは言え、やや前時代的な考えとも言えるものです。
 そこには、構造主義が出る以前、欧米諸国が、途上国や未開の人々を、自分たちの文化的次元に至るまでの前段階に留まっている人々として捉えていた欺瞞が見られます。
 あえてキーワードを継続して使用しますが、たとえば三流に見るべきものはありません。四流にも無い。しかし、五流にはあるかも知れない。六流にはもっとあるんじゃないかしら。
 これが、おそらく「カス」の概念です。
 この階段を下ることで、何が出てくるかといえば、皮肉なことに模倣不可能な「独創性」なのです。
 テレビ業界では、何十年も前に「秘境は無くなった」ということが言われました。その昔、テレビの役割は、山奥に住む人々にとっては例えば海を映すものであり、南国に住む人にとって雪を映すものであり、それが歓びに変換されました。しかし、熱帯雨林の奥地にいる部族の村にもカメラが入り、宇宙を知り、世界中で撮影されていない場所はほとんどなくなってしまい、人々は見るべき秘境を失い、歓びもまた消え失せました。
 しかし、笑いにはまだ秘境と言うべきカスが残っていました。


 それは日々、南アジアや旅行先の軽井沢、カップめんを買ってきた日の自宅、ゲーセンで4つを集めるのに苦労した記憶も未だにある妖怪が乗った自動車の前で生産され、非常に狭い範囲で、というかおそらく当人の中だけで、一流のものとして扱われ、ひっそりと世界中に提出されていました。
 前述したことと関わりますが、驚くべきことに彼らは「一流」の精神の中で、五流にも満たないカスを作り続けていたのです。そこに二流の精神はこれっぽっちもありませんでした。
 彼らには技術が無い分、ホッファーは芸術家とも作家とも呼ばないでしょうし、僕も同じ意見です。
 彼らの技術は(そんなもの無いし)学ぶことは出来ませんが、彼らの精神には実に学ぶところが多いし、畏怖すべきものです。
 こういうことを考えていると「笑いは差別だ」という言葉の説得力には疑問を禁じえません。本当にそうなのでしょうか。それは、彼らが我々よりも劣ったものであるという、構造主義以前の欺瞞ではないでしょうか。
 カス動画祭にいらした方は思い出してください。どろりさんがどれだけ彼らの作品に肯定的なコメントを添えていたのか。冷凍食品さんは強い口調で悪口を言っておりましたが、冷凍食品さんがなぜそんなことをおっしゃっていたかは最後までご覧になった方にはわかるかと思います。何事もバランスであり演出です……くれぐれもあしからず。


 ところで、秘境を失った日本のテレビでは「岸辺のアルバム」をはじめホームドラマが隆盛しました。非日常に飽和し、またそれを喪失したテレビ界では、日常を日常として捉え、そこにある小さな事件に非日常的感興を見いだそうとする回帰が起こったのです。
 ハレとケの概念が示すとおり、人は退屈を紛らわすため、この振れ幅の中を行ったり来たりするしかないのかも知れません。祭りとは人々にとって、日常という退屈なケの鬱屈を晴らすハレの場として機能していました。
 しかし、感覚的な速度、刺激的な情報が増す中で、ハレとケは均され、ハレはハレとして機能しなくなっています。そこでは、刺激的だった情報はトゲを抜かれ、粗をなめされ、我々自身によって手なずけられています。
 我々に出来ることは、日常の中のハレとケをできるだけ素早く動くことでしか無いのかも知れませんが、その反復を繰り返し横跳びをする体力や方法が残されているか疑問に思うこともあります。


 それは作品作りにも言えることです(ようやくぼく脳さんの話に入ります)。
 非日常は日常によって織りなされます。それを共に味わうことでしか、最早おもしろさは生まれてきません。
 そこで、ぼく脳さんの「デザートわっしょい」という作品を見ていきます。
 http://tgmkcb.blog.fc2.com/blog-entry-242.html


 全体から見ていきます。
『デザートわっしょい』の構造は「行きて帰りし物語」の構造です。古来から繰り返されてきた、最もポピュラーな物語のパターンです。
行きて帰りし物語」の条件は、物質的な、精神的な何かを得ることです。『桃太郎』であれば非日常の鬼ヶ島から金銀財宝・人質を持ち帰り、『はてしない物語』でバスチアンはコンプレックスを捨てて本の世界という非日常から帰還します。
『デザートわっしょい』ではどうでしょう。あらすじはこうです。

 感情を失ってしまった顔が常に燃えている妻の病気を治すために世界中を旅して回っているひと組の夫婦が、巻き込まれる様々な苦難と懊悩の末に、夫は体と声を失って文字のみとなり、妻は女性器を裂かれて喉と帽子だけになったが、愛を知って旅を終え、家に帰る。

 このあらすじは、明らかに「行きて帰りし物語」です。
 そして、この物語の類型が下地にあるということが、非日常の許容範囲を格段に増やしているのです。
 こうした物語の構造は、言わば普通です。しかし、それに言及する人はいません。そのくらい、ぼく脳さんはその下地を非日常的な「笑い」のシーンによって覆い隠します。
 非日常的なものを並べるだけであれば、もちろん数を打つというのは大変なことではありますが、苦労はそれほど要しません。それこそ一晩大喜利でもやっていればいいわけです。
 それを作品にまとめることが創作者の苦労ということはわかっていないと報われません。これこそが、独創性の一方の極北である「カス」には出来ないことであり、だからこそ、我々はそれらを「カス」と呼ぶことをためらわないのです。
 この作品の成功は、物語がそのステージを支えていることにあるのは間違いがありません。


 内容に入ります。
 とりあえずはあらすじで説明した通りの冒頭です。

 宇宙人の出産場面で、苦しみにもがいた医者の首が飛び、砂漠に住むストライカー達によって一瞬にして食い尽くされる、非常によくできた場面を見てみます。
 車での旅に疲れポカリを飲んで休憩していた夫婦が戻ると、宇宙人が出産している場面に出くわします。

 額から出産する宇宙人は苦しみながら、人間の医者の手によって赤ん坊を引き出されんとしていますが、宇宙人は汗をかき、白目を剥かんとばかりに苦しんでいます。「宇宙人+出産の苦しみ」という軽いジャブのような笑いの構造ですが、これが物語を進めるための駆動力になっていることに注目してください。

 宇宙人は、分娩の痛みに耐えきれずもがき苦しみ、医者の首を撥ねてしまいます。医者の首は物体として扱われることを強調するように「ゴトッ」と音をたてて、砂漠に置かれます。

 そこに飢えたストライカーが襲いかかる。こうした場面を我々は確かに見たことがある。映画で、冨樫のマンガで見たことがあるような気がする。我々の中にあるそうしたリアリティが、許容しがたい状況を許容させているのです。その存り得ないものを許容する心の隙に、おもしろさは潜んでいます。
 ここで群がるのが、スピード感を持った「ストライカー」であることもまた必然性を持っているので注意が必要です。また、この絵は「南葛SC VS 明和FC」というリアリティさえ有してはいないでしょうか。

 そして宇宙人はミュージカルを見に来たという人間的なリアリティを己に添加しつつ、物語を先へと繋ぐチケットという引導を渡し退場します。これによって、物語の中で宇宙人が出てくる必然性という既成事実が作られることになります。

 Kagemさんの非常に正鵠を射た考察です。無理が通れば道理が引っ込むという言葉があるように、物語的な無理を通して物語が進んでいくならば、そこには「作者」の都合が顔を出します。それは力不足と呼んでも差し支えないものです。
 もちろん、そうしたことを敢えて行い、作者の恣意を前面に表現する作品はマンガにも文学にも映画にもありますが、それはそういうジャンルの話であり、それを評価するためには別の言葉が用意されるべきでしょう。

 二人は宇宙人にもらったチケットでミュージカルを観劇します。
 こうした劇中劇の舞台は、それだけで独立したものであり、なんならムチャクチャすることが出来ます。こうした独立したネタを披露することができる「舞台」を配置することで、物語の中に、物語の影響を受けないエアポケットが生まれます。
 物語の影響を受けないということは、「笑い」がやりやすくなるということです。脈絡のある物語は、水と油の如く、脈絡のない笑いを阻害するものなのですから。
 しかし、物語はなおも進行しています。そのために、賢明な作者であれば、別の手段を講じておくべきでしょう。果たしてぼく脳さんは賢明でした。

笑点メンバーがギチギチに詰まっている電話ボックス」に雷の音が流れるラジカセが置かれたミュージカルの最中、夫は感情を失った妻を気遣うように、「雷の音大きいね」と極めて優しく声をかけています。
 これは冒頭で示された設定を忘れないための配慮ともとれます。
「物語」というのは繋がりです。ですから読者にとっては、何か起こるたびに以前起こったことを思い出す行為の形を取って現れます。
 つまりこれは、旅の理由を脳裏に思い出させるばかりか強調させている一コマなのです。まして「笑点メンバーを無視して、わざわざ雷の音の大きさについて言及する」という状況を提示して笑いさえとっているのですから、本当に見事です。マジで、マジで見事だと思わなかったか?

 そして、さらに感動的なことには、その声かけの後で妻の病気は治ります。もちろんその因果関係ははっきりしません。しかし、そうしたことを考えざるを得ない。夫が妻の顔を見て呼びかけるのは、この「雷の音大きいね」が初めてでもあります。雷の音というのは、何らかの天啓をすら想起させないでしょうか。
 何をこじつけを…と思われるかも知れませんが、奥行きとは受け手が実感するものです。そうした勘ぐりを起こさせること自体が、この作品の奥行きです。宇宙に散った遠い星が発見されるのを待つように、作者は作品を用意しておくだけです。

 ここで、物語にさらなる転換点が用意されます。難しく言えば夫の実存の問題です。

 唐突に妻から解放された夫は、旅の理由に反目するように気を抜かし、カツ丼を食べに行こうと思い立つ。

 しかし、そんなことを考える夫には罰が用意されています。突然、床がぱっくりと穴を開け、地下の部屋に落ちて行く。
 それは物語に反する行為だからと考えるのが妥当でしょう。妻への愛を放棄した途端に、闇に突き落とされるのは非常に象徴的です。

 その予感を引き継ぐように、切り捨てるための刀を持ったワニは「処刑」という言葉を使って夫に死を宣告する。

 ピンチに至って「いつも近所で蛍の下痢を配っている学生さん」が現れます。
 この学生さんの「近所」に住んでいるという情報も、そのおもしろさとは別に、夫婦に帰るべき場所があることを提示しているという事実に気をつけてください。無関係に思える進行と笑いの中に、物語を忘れるな、というさりげない目配せが隠されています。こうしたサインが、読んでいる時は別として、読後の「凄さ」を際立たせるものなのです。

 ここでいう学生さんの台詞は、このマンガの中で最もごく普通のものです。ごく普通の台詞の意味は、物語の説明を伴うという意味でもありますが、なぜ突然、こんなことを言うのでしょうか。もしくは言わすのでしょうか。

 次のコマで死ぬからです。
『デザートわっしょい』の中では、「物語」は「笑い」のためにしか存在しません。これがどれだけ凄いことなのかおわかりになるでしょうか。おわかりになられないかも知れませんね…。
 しかし、だからこそ、物語に背いた夫は死なずに助けられるのですが、笑いに背いた学生は、その償いとしての笑いを残して死んでしまわなければなりません。
 こんなにはっきりと笑いと物語の両方を提示しながら、「笑い>物語」であることを示した作品はいまだかつてありません。脳天気に、なぜか若干上から目線で褒めている方々に、僕は本当に憤りを感じるくらいです。

 笑いに背いた罰を受けて死に、しかし「笑い」として存在を許されるために「朝ま」の姿を与えられた学生を見て、「生き残った人」としての夫は、生き残った理由である「笑い」に沿っている人物としての精一杯の演技「って○○なのかよ!」というステロタイプのツッコミを繰り返し、そのことにより、驚いてすっ飛ぶという身体能力を得ます。
 これは無論、ギャグマンガの身体能力です。処刑されようとする場面ではおくびにも出ていなかったこの能力が、「笑い」に則った時だけ発揮される。やはりこの話の焦点は「笑い」にあります。ショウテン……。

 だから、今考えてみれば、舞台の上で「メッセージを発信する電話ボックス」に詰められるのは「古来からの笑い」の象徴である笑点メンバーでなければならなかったのです。電話ボックスはこの話全体の暗喩として舞台に放置されています。

 そして、夫はツッコミで飛び上がった勢いそのまま屋根から飛び出します。そして何かに貼りついてしまう。

 それは、巨大化した女の膣の中で放送された笑う犬の冒険でした。
 さらに、学生さんが言っていたように、巨大化して膣を弄ばれているのは妻でした。学生さんが外でこれを見てきたとすると、やはりあのセリフはきちんと「笑い」だったのではないかと思い直しますが、もう話の流れとしては手遅れです。
 群がる人々は、膣を、女を求めていません。「笑う犬の冒険」を求めます。
 ことほどさように何にも増して、この世界では「笑い」が全てなのです。膣を裂くことも辞さないほどに、「女」はないがしろにされる。笑いに背き、邪魔になるものは徹底的に排除されていきます。

 その証拠に、夫は妻を傷つけるのは止めてくれと言いながらも、内村さんの面白さに笑いを禁じ得ない。愛の名のもとにさえ、笑いに反旗を翻すことは許されていません。

 そのとき、自販機の裏にあったポストが割れて、元気で陽気な女たちが飛び出してきます。

 妻が裂かれようとする時、夫もまた女たちに腕や足をつかまれます。
 女たちは「ヨーヨーの大会開きたいって言って私たちから借りた2千万返しなさいよ!」と言い、夫婦の旅の資金源が寸借詐欺であったことを暗示します。ここで理由が明かされる唐突さとその詳細が、カウンター・リアリティとなって見事に笑いとして昇華しつつ、物語を補強しています。

 妻の膣は裂け、それを見た夫は事切れたように呆然とし、やがて「死霊のえじき」が如くあっけなく手足をもがれ、そこから文字がぼろぼろと飛び出します。





  ここで言葉が出てくることが、今まで説明してきたような意味が込められたまま物語が進行してきたことを証明します。
 これはちょっとわかりにくいかもしれません。
 つまり、初めから夫の体内には、隠された物語の理由が詰まっていたということです。
 文章の中身は既にそれが説明ですから、特に説明することはありません。ただ、そこで説明される理由が、ここまで起こってきたことと何ら矛盾なく在ることだけを言っておくだけで十分でしょう。
 しかし問題が無いわけではありません。物語をバラすということは、笑いに背く行為であるからす。だから、先ほどまではツッコミと同時に飛んでいってしまうほどギャグマンガだった夫の身体は、言葉になると同時に消されることとなります。
 しかし、作者は物語を中途であきらめることはできません。「行きて帰りし物語」を成立させなければならないのです。もちろん、途中で放り出したってそれはそれで「笑い」ですが、いつも困難な方を選び取るのが創作者の目指すべき道ではないでしょうか。
 死なないものは文字です。ロゼッタストーンが現存するように、古の神話や昔話が語り継がれて現代の話に影響を与えるように、言葉は死にません。
 夫の姿は、笑いに背いたためそこに安穏と置いておくことは出来ないしかし、物語は終わらせられない。だから、ぼく脳さんは文字にして生き残らせるという手段をとりました。こうした手段は、安部公房などの現代文学を思い起こさせ、これ自体は珍しい手法ではありませんが、説明したような流れであるからこそ、それよりもずっと感動的です。

 夫は物語を優先したため罰を受けて文字になってしまいましたが、もちろん妻もそこにいることはできません。女の武器である膣で「笑う犬の冒険」という「笑い」を隠したのですから当たり前です。笑いをやるからには女を優先してはいけないという古来からの訓戒です。どんな形であれ、笑いに背いたものは二度と同じ姿ではいられないという呪いが、『デザートわっしょい』の世界のルールですから、妻は当然、「喉と帽子だけ」にならなければいけません。

 しかし、共に喪失を経験した二人だからこそ、夫婦に戻ることができます。夫婦の成長です。
 今、笑いを邪魔するものはいなくなりました。この姿になったからには、何をしてもおもしろいのだから安心です。だから成長した二人は、帰ることができるのです。

 宇宙人が出産した場所であるシートに座り、もう子どもをつくることはきっとできない二人はトラックを運転して帰ります。その必然的なリアリティの前では、文字なのに運転が……というツッコミは無用です。マジで。
 最後の怖い女性の同乗を断るシーンに関しては、これまで起こってきた妙な出来事で奪われた人間らしさを回復する上で効果的です。これによって、彼らが日常へ帰ろうとする決意もまた再提示されます。


 最後に絵の話。
 この子どもが描いたような線描の荒さが、物語を覆い隠す最後のピースです。
 これによって、人間が生んだ最大の物語「行きて帰りし物語」はその息を最大限に潜めて、しかし生きていくことを強制させられるのです。しかし、その半死半生の物語は溶けて無くなることなく、笑いのための大風呂敷を提供しています。
 物語と笑いの共存をこんなに見事に果たしているものを僕はマジで、本当にマジで、ほかに知りません。ぼく脳さんは何も考えてないとか言うんですが、ちょっと眉唾です。まあ、本当に自然にやっているのかも知れませんが…。


 冒頭の話に戻せば、ぼく脳さんは明らかに一流ですが、一流だ独創的だキチガイだと手放しで褒めていることは勿体のないことでもあります。こんなにも、僕のこじつけとは言え、こじつけられるほどの作品を作れる人がキチガイのはずがありません。とすれば、模倣のチャンスは勉強やセンス次第で残されています。何かやらなくちゃと思っている人は、ぜひ何かをやってください。それしか本当にありませんよ。
 とにかく、こうした良いものを何とか利用してやろうという気概のもとで、精神だけを見習うことをせず、俺だって負けてたまるかと分析し、技術をパクる資格を得て、そのとおり頑張る人が増えて欲しいと心から願っております。