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『生きる技術は名作に学べ』伊藤聡

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)

生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)


 なんとなく、分別のあるでも気さくないい大人のイメージをみんな持っていると思う。そしてみんなが抱くそのおじさんのイメージは似通ってて、休日はラコステのポロシャツを着ているはずだ。
 たくさん本を読んでも、映画を見ても、全てのことを覚えているわけじゃない。知識が全て身につくわけじゃない。でも、何十冊も何百冊も見ているうちに、何十本も何百本も読んでいるうちに、そこに描かれる主題と言われるようなものへの見識というはっきりしたものではなく、何かもっと全体的で全方位的な、感情の向かい方を規定するようなモヤモヤしたものが形作られるのを感じる。世の中や人生とはこういうもんだという思い。そしてそれは、まるでガスやチリが集まって惑星ができるように、魔人ブウがピンクのモヤモヤから生まれるように、ゆっくりと自分という人間の核を作って行く。
 この本は、そのモヤモヤが溜まってきて形を成して、分別のあるでも気さくないい大人になった時に言うべきことを言ったことが書いてある。言いかえれば、この本はモヤモヤしたものが圧縮して固まった時にたどり着く、柔らかくも芯のある文句のつけようもない感想が書いてある。それは読者に、自分のモヤモヤを固める格好の手ほどきになると思う。


 ただ、敢えてぼくが個人的な思いとして言いたいのは、モヤモヤを固める手ほどきをする本を読むということが何をもたらすのかということだ。
 確かに、モヤモヤが圧縮される時、うれしい楽しい大好きな気持ちがある。人間的に成長したと思える。
 ところが、これは乱暴な話だけど、そういう気持ちは言ってしまえば未熟なんじゃないかという思いがある。もちろん人には人の歩みがあり、それをどうこう言えるものではないし、こんなことを言う奴はムカつくし、分別のある気さくないい大人じゃない気がするのは全然構わない。俺は最低だ。
 でも、ぼくは最近とみに、モヤモヤそのものをぼくに入れてくれるようなものが欲しいと感じている。ケツから思い切り突っ込んでほしい。
 いい大人になるということは、モヤモヤの集まった塊がどれだけ大きいのか、どれだけのものを含んでいるのか、どういう固まり方をしたのか、ということだと思っている。それは何をどれだけ見て何を思ったかということだ。
 この世界に生きた全ての人や物を見て何か思うところがあるはずだけど、時を同じく生きて、見たり会えたりする人は限られている。だから本を読んだり映画を見たりして、袖振り合えなかった人からも恩恵を、あざーす、あざーす言いながら受けようとする。それぞれのモヤモヤの塊が織りなす有象無象を目の当たりにして、何かをモヤモヤ考える。
 別に名前はあげないけど、最近人気なのはモヤモヤを投入しながらその都度モヤモヤを固めてくれる人だ。
 でもぼくはもっとモヤモヤしたいし、して欲しい。思春期に大量発生したモヤモヤが長い時を経て落ち着くところに落ち着くように、そんなふうにしたいし、して欲しい。
 自分が自分であることに矜持を持ったぼくたちは、確固とした理論を熱望する一方で、それに回収されないモヤモヤそのものを求めるようになる。そして、ならなければならない。
 モヤモヤを与えてくれるのが、例えばムルソーであり、ハンスであり、ウラジーミルであり、アンネであり、サンチャゴであり、ストリックランドであり、ハックルベリー・フィンであり、ジュリアン・ソレルであり、ウィンストン・スミスであったりする。そいつらは全員フィクションだとしても、当人として切羽詰まった一度きりのアウラがある。
 この本は、分別のあるでも気さくなおじさんが、上にあげたような人が主人公の小説から受け取れるモヤモヤの内容を、こんなふうにモヤモヤしたよ、と説明したものだ。そしてその意見はかなりいい感じだ。そのため、こっちは非常にモヤモヤしづらい。モヤモヤしていたものは、ぼくの中でモヤモヤする前に、おじさんによってある程度固められてしまっている。
 ならばこの伊藤というおじさん本人からモヤモヤしたものを得たいと思うが、こんなトーンの本なのに、合間のコラムのとこですら、伊藤さんはなかなか個人的な話をまじえてくれない。ぼくはそれが不満だった。


 だから結局、ぼくはこの本を読んでそんなにおもしろくなかったし、むしろこう言った方がいいと思うけど、良い読者ではなかった。
 もちろん、どんな理由であれ、本なんてのは、その本が持つ感情のフックにかかる人がかかればいいものであって、そのことに関してはなんの文句を言うつもりもないし、ちょっと複雑な気持ちになりながら「勝手にしろい」と思うしかない上に、逆にぼくもそう思われて然るべきだ。
 でも、これだけは言っておきたい。最後の最後の231ページでぼくは、ケツからモヤモヤを大量に突っ込まれた。ぼくが読みたいのはこういうところだったんだ、と思ったのが、こんな感想を書こうとした理由である。お父さんの話、一応理由づけても明らかに処理しきれていないモヤモヤした個人的な話が与えてくれたこのモヤモヤした気持ちに動かされなかったら、ぼくはこんなイヤなとこのある感想なんか書かずに、ほっぽいといたろうと思う。この本で、ここだけが名作に対抗していた。
 だから、そういうところが一個あるだけで、なんかよし!




 追伸


 さっきサリンジャーが亡くなったニュースを見た。
 この本にもチラッと紹介される『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンを引くほど地でいったような人だったけど、その人生は、この時代にハック・フィンになろうとすれば、畢竟、変人になるしかないという遣る瀬無い悲しさがある。「社会」が「世界」よりもウェイトを占めるようになった世の中では、社会を毛嫌いすれば、本当にいい人かもしれない人すら信頼することはできない。近代が敷衍しきった時代では、信頼できそうなその人すら社会成員であるとわかりきっているからだ。だからこそ、ホールデンが真の意味で信頼できるのは、社会を知らない小さな妹だけ。そしてホールデンにとって、真の意味以外のことはどうでもいい。
 ハックは世界を漂っているが、ホールデンは社会を彷徨っている。二人がともに嫌がるのは社会と人間関係だけど、ハックはそれが形成されるまでは、個人である人間と、そいつがどんないやな奴であろうと肯定的に付き合うことができる。その世界にはまだ、ミシシッピー川の先に象徴されるように、まだ見ぬ場所や誰もいない場所があり、いつでもそこに行くことができるという希望が担保されている。
 この本で唯一ちゃんと残念だったのは、『魔の山』のところで登場人物の時間感覚と現代の時間感覚が違うということを言ってるのに、他の項では、人間の性格や振る舞いはその人間が生きる時代背景に左右されないということにして、もっぱら現在に引きつけているところだ。
 もちろんそんなこと作り手は百も承知で、だから題名に『生きる技術』と入ってるんだけど、やっぱりすっぱいものを食べたような気持ちになってしまう。