読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『しんぼる』松本人志

 奇しくも、僕が説明したことが正解であったことを証明する映画になってしまった松本人志監督の『しんぼる』。
 反省のため見ていこう。一緒に見ていこう。真面目に考えていこう。
 ネタバレしつつ考えていこう。数個、おもしろいところはあった。




 松本人志の笑いは、メイン・リアリティとカウンター・リアリティ(サブよりよさそうなので)の股裂きを楽しむものだということを言いました。
(参考:http://d.hatena.ne.jp/norishiro7/20090825/1251143756


 その意味で、ああいう状況設定にしたということは、メイン・リアリティを放棄したことを意味します。あの状況から、僕たちは何の予備知識も引き出せないのです。
 そうなると、しんぼるを押して出てきたものでメイン・リアリティを構築していかなければならない。しかし、これではリアリティが少なすぎます。何も無い部屋なのだからあたぼうです。
 寿司が出てきて醤油の小皿がついているのに醤油が入ってなかったら「寿司を食べたいけど皿があるんだから醤油が欲しい。しんぼるを押せばものが出てくる」というメイン・リアリティをもって僕たちは先を期待します。すると寿司ばっかり出てくるというカウンター・リアリティがくる。このズレは僕にはというか散々色々見てきたみなさんにもいまいち笑えないものだったでしょうが、とにかく「寿司を食べたいけど皿があるんだから醤油が欲しい。しんぼるを押せばものが出てくる。でも寿司ばっかり出てきた。だからそのまま食べ始める。そして長い時間をかけて食べ終わる」というメイン・リアリティが構築されました。さあどうなんねんどうなんねん。そう思ってたら「醤油が出てくる」というカウンター・リアリティが飛んできました。「はい醤油ね、遅いわーーー!!」と言ってました。
 松本人志がこれまで腐るほどやってきたのは、カウンター・リアリティをメイン・リアリティとは違った脈絡から引っ張り込んでくるという手法でした。だから僕としては、醤油がなくて食べ終わったら「醤油が出てくる」、なんてベタをカウンター・リアリティとは呼びたくないんですが、実際やってるんだから仕方ありません。


 じゃあなんでこんなどうしようもないことをやるハメになったのか。僕は松本人志がこれまでやってきたことが大好きだし、今でも日本一のお笑い芸人だと思っているので、頭をフル回転させてみます。


 僕はそうであることを願いますが、松本人志は撮影中「なんかうまいこと笑いになれへんな」と感じたはずです。高須光聖も感じたはずです。上で言いましたが、それは真っ白い部屋だからです。先立つリアリティ(メイン・リアリティ)がゼロの状況から始めた時点で、自分の唯一の超必殺を封じ込めたのです。だからしょうもないアイディアしか出ないのです。大喜利でいうと、こういうのを「お題が悪い」と言います。お題が出ていないんだからこれ以上最悪のお題はありません。
 問題は、これをわかってやってるのかそれともわからずにやっているかということですが、大晦日に笑いをとるための状況設定において沢山のメイン・リアリティを含んだ学校やら警察署やらを選択する人達ですから、それをわかっていないということは考えられません。なんにせよ、コントを撮る時の考え方では映画を撮っていないということははっきりしています。じゃあ作ってる人たちに映画を撮る時の考え方があるのかないのかと言ったら、ないんですよ。そういう畑の人じゃないし、教養もあるか無いかでいったら無いでしょう。あったらあんなオチなんて恥ずかしくてできません。結局、桑田佳祐村上龍の失敗と一緒なんですけど、媒体が同じなので、コントと映画って似てるもんちゃうんかいと思っちゃうからかわいそうだし、タチが悪いんですね。


 この映画は松本人志が昔から言ってた「わかる奴だけわかればいい」というところからはかけ離れています。「わかる奴だけわかればいい」とは、噛み砕いて言えば「このあるあるを両方知ってる奴はその組み合わせで笑えるよな」というものでした。
 ところが今回は、そもそもメイン・リアリティが空虚で、組み合わせるも糞もないがために、何か出てくるたびにメイン・リアリティの蓄積をやっているだけという感じになり、だからズレのあるカウンターの入らないつまらない芸人が考えるようなことになってしまい、それを隠すために――僕のマイミクの一人の言葉を借りるなら――チョケているようにしか見えないようになっていました。チョケることで、あえてやってる感を出すことで、どうにかこうにかの一時間半。最後は壮大っぽいオチになんとか小指がかかりました。最近、北野武との対談で若手芸人に話がおよんだ時「逃げの、受けのスベリ笑いが多くなってしまっている」と言っていましたが、今回の映画に関してだけ言えば、天に唾、お前じゃーです。
 なので、チョケるのが企画段階からの計算なのか、またはあの部屋を作って撮り始めたらチョケざるを得なかったのか、言い換えれば外人向け発言が先なのか後なのか、それが問題だということになりますが、この真相は時間が経ったら聞ける場合は聞けるでしょう。


 まあ狙ってチョケたところでアレなので擁護できませんし、結局、日本人のリアリティーなので外国人も笑わないと思いますが、それと似たような点から苦しい擁護が可能かも知れないと今思ったので書きます。
 これが一種の、笑いへのチャレンジだったというなら、僕は認めます。メイン・リアリティとカウンター・リアリティの関係性以外における笑いは可能なのか、というか本当にそうなのか、という挑戦だったならば一発OKです。それをやる資格は、松本人志にだけあるからです。それは北野武にもないものです。
 そう解釈するんならば、「好き勝手にチンチン押しまくって組み合わせて楽しんでたら選択肢が一つしかなくなってました。この先どうなるんでしょう」というのも、松本人志が作ったという点において、初めて笑いの現状に対するアイロニーになることができる。
 これならいいじゃない。その選択肢が「屁」だったならそれでもいいじゃない。




 ただ多分そんな狙いじゃないし屁でいいわけないから、最低でした。
 笑いをとる時の気持ちとオランダでマジ顔でゴッホを見ていた時の気持ちの整理が、映画を撮る時だけついていないと思う。


 僕の松本人志愛がまだ消えないことだけ最後にもう一度書き添えておきます。