ぼく脳「ぬり絵教室」

 僕の笑いを目指した創作物に関する観念を言葉にするなら「物語の中で脈絡のないものにリアリティを感じられるか」というものです。笑いに限らずなんでもそうかも知れませんけど。
 みんな知らない世界を見たがっているけど、知らない世界でもメチャクチャすぎると世界としてのリアリティが感じられないから面白くない。リアリティを保ちながらどれだけ脈絡のない世界を作れるか、ということになります。


 そのリアリティは、皆さんそれぞれが今まで得てきた知識そのものです。
 一時期、「トレンディドラマあるある」みたいなものが流行りましたが、あのそれぞれの「あるある」がリアリティなのです。ドラマだったらこうするよね、という感覚が、自ずと次に起こることを予想させる。その、人によって予期されるそれぞれが、リアリティです。だから人によって違う。
 僕が本来のリアリティの意味である「現実感」と区別するのは、もう既に日常生活がフィクションに支配されているからです。普段、ミニコントだってやるでしょうし、マンガの台詞を引用して喋っているはずです。
 そんな状況の中では、フィクションはもう既に現実です。フィクションを見るときに、頭では他のフィクションを参照しているというメタな見方が普通になってしまった今、その全てをリアリティとして取り扱うべきです。
「人間が想像したものは全て実現する」とかいう言葉もあるとおり、考えられる時点でそれは仮想現実なのです。フィクションとして「ありもん」になってしまう。マトリックスです。


 ですから、結局、笑いを目指した創作物って全部こうなっちゃうよね、という作り方を説明すると、

●まず、状況設定=メイン・リアリティがある。
 これは、「ビルの屋上」だったりします。そう言っただけで「飛び降りのコントかな」とか思う、それがまさにメイン・リアリティなのです。この状況設定があっただけで、ありうべき話が脳味噌に準備されます。

●そして、話が進む中で、カウンター・リアリティが出てきます。
 何に対するカウンターかと言えば、メインに対するカウンターです。つまり、飛び降りのコントであれば、「飛び降り」の設定に逸脱する台詞や行動です。
 かつてなら「刑事が突き落としちゃう」とかで笑いになっていました。要は、予想される行動と反対の行動をすることで、OKだった。これがいわゆる「古典的な笑い」です。
 そして、このカウンター・リアリティは、出てき次第、メイン・リアリティーに追加されていきます。


 このメイン・リアリティとカウンター・リアリティの組み合わせで、脈絡のない不思議な状況・世界を作りましょうというのが笑いにおける創作です。
 でも、それだけでは世間一般的な「作品」となりません。作品を作るのは、多くの場合「物語」です。でも、物語そのものに笑いはない。
 なぜなら、脈絡のあるつながりが物語だからです。だからこそ、物語には類型が生まれる。分析・類別したアンティ・アールネとスティス・トンプソンの頭文字をとってAT番号というので分類されています。ウラジーミル・プロップレヴィ=ストロース、柳田国男なんかを参照してもいいです。


 物語の中に笑いを入れてこそ、作品となると僕は考えています。
 三大喜劇人の達成はそこにありました。どれだけ笑いを入れた「物語」が可能かということに取り組んだのです。
 非常に乱暴な物言いになりますが、チャップリンバスター・キートンハロルド・ロイドの基調になっているのは「あの顔(表情)でドタバタ」です。物語とともに作られるメイン・リアリティに、ドタバタというカウンター・リアリティが配置されることで笑いが生まれる。
 それらのオリジンとして、何かを熱をもって生み出した人達として、今見ても面白いのは間違いないです。
 むしろ、彼らの作品が今でも通用するというのが物語の力を見せつけてくれます。類型化しても、物語はあまり影響を受けない。しかし、笑いは類型化の影響を受けてしまう。だから、笑いに関してはそれと同じドタバタを今やることはできない。やるならズラして、ミスター・ビーンになる。
 今まであったものから延々とズラしていく地獄の業なのです。


 そうやって笑いでさえ類型化されてしまう状況で、どうしたらいいかというと、類型化の毛先を増やすしかない。それが細分化です。
 無論、何を細分化するかと言ったら、メイン/カウンター・リアリティです。
 ドリフでいえば「もしもシリーズ」がその典型です。メイン・リアリティである喫茶店や寿司屋や葬式に、ヤクザがいたり酔っ払いの店主がいたりというカウンター・リアリティがぶつかる。この時代はまだ単純なものです。
 モンティ・パイソンでも、ラジオだったらスネークマンショーでも、投稿文化としての先駆けであるビックリハウスでも、タモリの密室芸でもいいんですが、それらは全て細分化の道程にあったのです。その延長に松本人志もいた。


 松本人志が広く人口に膾炙させたのは、メイン・リアリティとカウンター・リアリティ、双方のリアリティを、色々なリアリティを既に知っている、微妙なリアリティを受容できる人たち向けすることです。
 だからこそ松本人志は「わかる人にだけわかればいい」と言った。その文化を共有できる人だけで固まり、他のコミュニティと関わらないというタコツボ化・島宇宙化の波が押し寄せたのは笑いの世界だけではありませんが、笑いの世界ではかなり顕著でした。


 では、当の松本人志監督作品『しんぼる』がクソつまらないのはなぜでしょう。
 それはメイン・リアリティが無いからです。これまでの松本人志の笑いとは、メイン・リアリティを先鋭化させたとはいえ、今でもバカみたいにやってる戦隊コントや○○教室モノに代表される通り、メイン・リアリティとなるものがしっかりあった。こうした、メイン・リアリティに既存のものを借り受けるものがパロディという手法です。
 ところが、『しんぼる』の場合、まっ白な部屋という、文字通り何もないところからスタートしました。メインがないまま提出する寿司とかコミックとかは、それ自体が単発なものとなってしまい、カウンター・リアリティの役割を果たしません。それって恥ずかしいほどつまらないですよね。


 当今の作品はなんであれ、メインとカウンターの足し算の中で、お話を作るというのがほとんどです。マンガを例に見ていきましょう。
 『聖おにいさん』は、「日常+神仏」という神も仏もないような単純な足し算、『テルマエ・ロマエ』は「古代ローマ人+現代の風呂」のぬるい足し算を物語化した作品です。
 こういう作品に、作者の苦労や苦悩がそれなりにあるのはわかりますが、それって、特に笑いに関しては本当の苦悩なのかと思います。
 取るに足らないものは星の数ほどあるので別に女性だからということはないでしょうが、こういうものは考えるのがあまりに楽チンすぎるのではないかと思います。
 メインも借り物、カウンターも借り物、物語も借り物。データベースと呼んでもいいですが、そうやって組み合わせを変えていく。
 もちろん、全ての作品がそうなのかもしれませんが、そこで中身が詰まっていそうなものを手にとってくっつけて、丁寧な仕事で仕上げて、なんか新しめの良さげなものができたと喜んでいることに疑問を覚えるのです。
 昔、家族で行ったスキー場で500円で買える何が入っているかわからない箱を兄弟で買おうとして、ゲームソフトも入っているらしいとの触れ込みからそれらしき重さのものを選んで買い、開けてみたら2つともミニ将棋だったということがありましたが、この話は関係ないですね…。


 人間というのは成長していくもので、メイン/カウンターとも、よくわからないものがだんだんと、一部の人にとってはリアリティとして受容されるようになってきました。比喩的に言えば、色々なものを食いつぶしてきました。
 確か小野ほりでいさんがつぶやいてましたけど、面白い人達が面白いと思ったものをすごいスピードで、もうそれが面白くなくなるところまで消費して、次に移っていく。こういう人達が孤立していくのはむべなるかなという感じです。
 さっき言いましたけど作品でもそうで、マンガでもコントでも文章でも、メインとカウンターの組み合わせを色々やっていたら飽きてきちゃって実現不可能な世界なメチャクチャなものでしか面白がれなくなってきたということです。
 このへんを突き詰めて、言語化が難しいような雰囲気の部分までメイン/カウンター・リアリティに持ち込んで、マジでギリギリのところで勝負しているのが、どろりさんです。天どろ。
 ちなみに、やっちゃいけないことが面白いのも、メインに対するカウンターです。水道橋博士に罵倒リプライを盛んに飛ばすことは、本来やっちゃいけないというメインと、やってるという単純なカウンターで笑いになる。単純でも笑えるのは、それがリアリティを突き詰めたところにあるリアルで起こっていることだからで、あんまりやる人がいないのでまだカウンターとして新鮮だからです。言い方とかキャラクターも関わってきますし、倫理的にも諸刃の剣だからやらないにこしたことないです。天ミド。


 要は、現実で再現できないことをやるか、現実でやっちゃいけないことをやるぐらいしかやりようがなくなっている昨今の笑いの最先端なのです。シュールとダダ。芸術がみな通ってきた道です。だからこそ共に人に伝わらないことも多い。つらい状況です。
 勝手にそこまで突っ走った人が悪いといえば悪いのですが、逆に言えば偉い人が一日中YouTubeなどの電脳ネットワークを何かおもしろがれるものが無いかと這いずり回っているのはなんと皮肉なことでしょうか。別に複雑なものをおもしろがろうが、単純なものをおもしろがろうが、感じる悦びは同じっぽいので、全く無駄なことをしている気さえもしますが、こういう人達が何十年先も「笑い」に貢献できる人であるはずです。
 そんな人達を応援する人間でいたいものではないですか。どうせ生まれてきたんだし。


 僕は多少文学少年気質のところがありそこまで笑い一辺倒でもないから気が楽なのですが、そういうもの好きとして上記のように小難しいことを考えて色々見てきたところ、世の中の90%のものがスタージョンの言うようにクズ同然となり、9%が「そこそこ面白いけど状況設定もう一個足せよ」とか「あれパクってんだろ」レベルのものになり、1%が「面白い!」ものとなり、そこそこ辛くなってきました。


 で、そんな暮らしの中で、先日『ぬり絵教室』というのに出くわしました。

 http://tgmkcb.blog.fc2.com/blog-category-14.html

 説明前に言っておくと、僕が一番感心しているのは、「本来なら壊れているはずの『世界』を壊さないための作法」です。
 先ほど、『しんぼる』が最低なのは、メイン・リアリティが「無」のくせにカウンター・リアリティを出していくからだと言いました。神様になるための部屋という、何が出てきてもおかしくない状況で何が出てきても笑えるはずがありません。『SAW』みたいなことを笑いでやってみたかったのかもしれません。
 ぼく脳さんのチャレンジは、メイン・リアリティに不条理を置いた場合、我々はどう対処すればいいのかという挑戦です。たいてい、ぼく脳さんのマンガに意味はありません。糞ほど無意味です。ぼく脳さんを知っている人であればあるほど、その無意味であるというコンテクスト込み込みで読むことになります。


 その予感通りに、「ぬり絵教室に行く」というメイン・リアリティで始まるお話が予期した通りに進行しないであろうことは、電池が転がり「早く時計本体を買いなさい」と指摘されることで既に不吉に暗示されている。
 ここで、メイン・リアリティであった「ぬり絵教室」は、まだ有効でありながらも優先順位を下げ、ぬり絵教室に向かっているらしき場面の描写で、さらに下がっていく。
 この教室に向かう場面で、野原ひろしのワケのわからないコラージュがあることが、後の塗り絵へのクソみたいな伏線になっていることも注意と拍手が必要です。後述します。


 ぼく脳さんの、「なぜ今これが」という不条理=メイン/カウンターの乖離は余人の追及を許しませんが、ツイッターでやられているように単発で出しているのなら、それはまだ、僕から見てもありえる話なのです。
 何が難しくて困難な仕事かと言えば、その先の「作品に仕上げる」ということです。
 こうした物語としてまとめる時に、それが単なるメチャクチャなものたちのコラージュに堕するというのが一般的なのです。だからみんな、ネットの人たちでも、ギャグマンガ家でも、手前味噌ながら僕でもそうですが、物語の要素を強くして、なかなか突飛なものを入れようとしない。


 ぼく脳さんのやっていることは、基本わけがわかりません。
 で、基本わけがわからないことをやっている人は結構いる。でも、それを作品として作る時に、わけがわからないものをきちんと形に出来る人というのは全然いない。
 これはどういうことでしょうか。
 でもこれは実際、すごく単純な話で、そういう人がほとんどいないのは、わけがわからなくなればなるほど、「小さな物語の中で脈絡のないものにリアリティを感じさせる」ことが困難になるからです。
 笑いと物語の相性が死ぬほど悪いのです。


 王道の手法は、物語を設定した上でそこから逸脱するかしないかというギャグを入れていくというものです。ギャグマンガと言いつつ、ほとんどの作品はこれです。
 でも、ぼく脳さんのマンガの印象はそれとは異なる。
 まるで「めちゃくちゃ」というメイン・リアリティの中に「物語」というカウンター・リアリティがあるように思えるのです。
 本当はみんな好きなようにやりたいのですが、好きなようにやるとまとまりがなくなるというのが、「作品」を作ることの悩みであるはずです。


 僕が好きだった、ちゃんと考えていたギャグ漫画家はみな映画方面にいきます。
 いがらしみきおも『ぼのぼの』で映画作ってそれはあんまりどうでもいいけど傑作『のぼるくんたち』は映画化狙ったアングル見え見えだったし『Sink』もそうだし『羊の木』は将来的に映画化されるだろうし。長尾謙一郎は今マンガを映画化してもらいたいんだろうなとしか思えないし、他にも例えば古谷実だってそちらへ行ったし、うすた京介だってそんな感じです。
 ストーリーから突き詰めたギャグに来られたのって、『まことちゃん』の楳図かずおぐらいじゃないでしょうか。
 ともかく、こうしたギャグマンガ家たちに見られる野望は、物語の生きた「作品」を作るということだと思います。
 おそらく、きちんと考えてギャグマンガを作るという過程では、上で書いたとおり、「物語」を意識せざるを得ないのです。そしてそのうちに、ギャグマンガ家たちは持ち前の脳みそを物語に使い始める。自信を持ち始める。新たな可能性の実現の場として「物語」を標榜し始める。
 読者からすれば残念でもありますが、それはステップアップであり、より困難な仕事なのでしょう。確かにそう思います。


 ぬりえ教室では、クレヨンしんちゃん6巻が使用されますが、ここで、荒野の野原ひろしが重要になってくる。
 この不完全な野原ひろしは、読後に感じる作品の、「物語が最後まで保たれた」という統一感と無関係ではないはずです。
 つまり、何を言っているのかわからないかも知れませんが、前後の関連性を強引にサブリミナルすることで、なんとか物語を補強するというかつてない手法をとっているのです。
 あれが完全な野原ひろしであったなら、つながりがやや強調されてしまいかねません。そうなると、笑いとしてはつまらなくなってしまう。

 こうした「物語をぎりぎりの状態で生かしておく」ための工夫は、様々な点で見られます。
 牛頭さんが「アクエリアスで、最初に出てきた人たちが水を求める人であることがわかるのすごいな」とつぶやいていて「正直この人何を言ってるのかな」と思いましたが、そう受け取り得ることでさえ、作品の統一性にどんな形であれ一役買っているのです。

 陰茎だってそうです。
 この作品では、コメディ・リリーフとしての陰茎ではなく、陰茎はあくまでも背景として登場する。背景どころか、もっと無関係な著者陰茎というひっそりした感じすらある。
 陰茎にはクロース・アップしない。
 これだって、「局部出し=ウケ狙い」というメイン・リアリティに対して、「そうじゃない」というカウンターで打ち消しているから笑いになるのです。
 普通の下ネタは大学生の裸ノリのように、「日常的な何かしら」というメイン・リアリティーに、「下ネタ」というカウンター・リアリティが入ることで成立するのですが、ここでは、「それを踏まえたメイン・リアリティー」に対する「否定」というカウンターが入っています。
 そしてラスト、それまで背景として処理されていた陰茎が、「オチ担当」として前面に出てきて、物語を司る。最後の射精を、我々は「さっきまで画面に出ていた登場人物=さっき写ってた陰茎」の成したものと理解して見ることが出来る。
 それはコマとコマのつながりを意識するということであり、だから物語の延命装置として機能している。

 暇なのでラストの場面だけを細かく見ていきましょう。「塗り絵」というメイン・リアリティに、「林真須美の絵」というカウンター・リアリティ。そこに「顔射」というカウンター・リアリティが加わる。
 もっと言えばもっと色々あります。そこを見ている時、読者の頭に意識的・無意識的にあることの全てがリアリティなのですから。
 ここで、「顔射」と「塗り絵」の「液体的なものが絵にかかる」というわずかな対応が、リアリティのある脈絡の無い世界を、すんでのところでつなぎとめている。「ひとりごっつ」のソースのかけ方で、顔射っぽくやってみせるのと同じです。
 それで「はい、おつかれさん」と言われるのも、いい加減で投げやりな先生という中盤にあった伏線を回収しているし、射精後の虚無感というリアリティも入っている。

 あまりにメチャクチャで雑多な印象なのでわかりづらいですが、『ぬり絵教室』はかなりちゃんとした「中身=多くのリアリティ」を含んだ「物語」になっているのです。そして、それこそが「作品」であることの理由です。
 だから僕は、4コマよりも『ぬりえ教室』みたいな長いものを作ってほしいなと思っています。そっちの方が圧倒的に大変だから。不条理4コマって、不条理であることが許されてしまうきらいがあると思います。
 カミュじゃないですが、許された不条理は不条理じゃないです。

 単にメチャクチャになるだけでは地下の方でもウケないのです。それは、地上でウケないのと同じ理由で、単に作品としてちゃんとしてないから。
 ネタに対する誠実な態度とは、自身の作品世界を乱さないところにあります。
 僕はこの言葉が大好きなのですが、さまぁ〜ず三村が「初対面の役の場合、コントのツッコミは最初は無くて、徐々に徐々に強くしていく」ということを言っています。それがリアリティであり、全体を考えることなのです。
 別に読みゃわかるので説明しませんが、こうした基本的なルールだって、ぼく脳さんは破っていない。

 だから、メチャクチャなことをやりながら作品として成立しているというのがすごいという単純なことなんですが、これの何が恐ろしいって、作るにあたって参考にすべきものがないということです。
 みんな、何かしら多方面からマネしてこっそりパクってわからないように砂をかけて平気の平左衛門で作者ヅラをしているのですが、なぜ作者ヅラしていられるかといって、自分の中に作者と呼ばれる人達が作った土台になるものがあるからではないでしょうか。
 その作者の中には、その作者が心に秘めた作者のものがあったはずで、その歴史は合わせ鏡のように遡れるに違いありません。
 でも、そんなことばっかりやってても将来的に誰も貴様の鏡をのぞいてくれないというのが問題で、そうならないためには何か新しいものを創るしかない。
 でも、まったく何もかも新しいものは、もしもそれが認識可能であればつまらないものであるのです。冒頭で申し上げた通り、笑いというのはそういうものではないからです。
 人間を司るあらゆる前提を利用しつつ、それを乱さない新たな仕掛けを取り入れる。それをしようと頑張っていない表現者なんて茶碗蒸しだと僕は思います(茶碗蒸し大嫌い)。

 途中で変更しまくったので、意外とまだかまだかと催促してくるぼく脳さんには申し訳なかったです。
 最後に、遅れた原因でもある、この記事を少しでも叙情的にしようと挟み込んでいたけどわざわざ書き換えて止めた各種引用をまとめて置いておきます。何か感じるところもあるはずです。書き直す前の方が気持ちが盛り上がるおもしろい文章だったことを申し添えておきます。

冬螢飼ふ沼までは(俺たちだ)ほそいあぶない橋をわたつて(岡井隆


人間は自己自身を抑圧する動物である。自らを抑圧することにより一方で文化を創出するが、また他方で自ら創出した文化により抑圧される。(フロイト


今では映画をつくっているのは観客です。今の映画はなかにはなにもありません。かつてはキートンとかチャップリンといったスターたちが、自分の肉体をつかって演技したり演出したりしていました。でも今は、スターであればあるほどなにもしないのです。(・・・)カットとカットを頭でつないで、「彼はこれこれのことを考えている」と考えるのは観客なのです。(・・・)仕事をするのは観客なの方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。(ジャン・リュック・ゴダールゴダール映画史1』)


カフカは、片手を高くあげて振りながら断言した。「周囲の間違った考え方や習慣に引きずられたり、振り回されたりする人間は、自分自身を尊敬しなくなるのです。しかし自分を尊敬することなくして、道徳も、秩序も、不抜の精神も、生を促す暖かさもありえない。そのような人間は、ぼろぼろの牛の糞のように砕けてしまいます。せいぜい、糞喰い虫のような昆虫にとって多少の意味があるにすぎません」(グスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』)


理論的には、幸福になるためのじつに完璧な手だてがひとつだけある。すなわち、自己のなかの破壊しがたいものを信じ、しかもそれをめざして努力しないことである。(フランツ・カフカカフカ全集3』)


よく思い出してくれよ。映画でも文学でも、本当に君の心に焼き付いているのは、それが世界と自分について本当に新しい発見と驚きと喜びをもたらしてくれたものは、ストーリーだったか? いくつかの部分だったか。ストーリーと無関係な部分の描写はありえないなどという一般論は抜きにして、君自身の過去でもいい。本当にきらめいて残っているのは、互いに無縁の切れ切れの偶然の場面ではないだろうか。その場面と場面との間は忘却の暗黒。少なくとも私の場合はそうだよ。誕生から現在までのつながりの何かなどは、無理にこじつける以外に存在しない。(日野啓三


これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。(宮沢賢治


有用なものを造ることは、その製作者がそのものを賛美しないかぎりにおいて赦される。無用なものを創ることは、本人がそれを熱烈に賛美するかぎりにおいてのみ赦される。
すべて芸術はまったく無用である。(オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』)


Mさんは相手にせず、ただ黙って笑っている。勝利者の微笑である。けれども私は本心は、そんなに口惜しくもなかったのである。いい文章を読んで、ほっとしていたのである。アラを拾って凱歌などを奏するよりは、どんなにいい気持のものかわからない。ウソじゃない。私は、いい文章を読みたい。(太宰治『津軽』)


この一週間の間に、可能な限りの撮影が行われた。その中には、ホーグが夕食に殺して食べようとしていたアメリカドクトカゲをタガートとボーエンのふたりが銃で撃ち、こっぱみじんにするという冒頭のシーンも含まれている。
 R・G・アームストロングはそのときのことをこう語った。
「スタッフはアメリカドクトカゲを吹き飛ばす準備をしていたんだが、そこにサムの将来の娘婿もいた。彼にはこの映画のメーキング・フィルムを作る資金として二万五千ドルかそこらが与えられていた(ペキンパーの見積もりでは1万ドル)。私は彼の名を覚えてはいないが、ガンジーみたいな服を着ていて、長髪だった。そしてその髪をポニー・テールにまとめ、ヒゲをはやしていた。
 ともかく、その彼がサムのところにやって来て、《映画のためだからって、アメリカドクトカゲを本当に殺す気じゃないだろ》と言った。するとサムは彼を見て、こう言った。《そうさ。殺すつもりだ》。それに対して彼は《それはダメだ。映画のためだけに生き物を殺すのは良くない》と言い返した。サムが《いったい、なんだってんだ、アメリカドクトカゲを殺したくないのか?》と聞き返すと、彼は《ああ、殺すべきじゃない》と答えた。
 するとサムはしばらく考えて、こう言った。《それじゃ、こうしよう。おまえがそのヒゲを剃り、髪を切ったら、トカゲは生かしてやる》。その青年が《それとこれとは問題が別だ》と言うと、サムは《別じゃない。おまえが本当にあのトカゲを生かしたければ、そのむさくるしいヒゲと髪を切れ》と言った。彼が《待ってくれ。それについて考えてみる》と言うと、《さっさとやれ》とサムは促した。その青年は隅に行き、やがて戻ってくると、こう言った。《やはり筋違いだ》。そしてサムは、トカゲを吹き飛ばした。
(ガーナー・シモンズ『サム・ペキンパー』P.165)


 ある日、エメ・ロメラルという場所で、こういうシーンを撮っていた。パイクと俺が話しているところへエドモンド・オブライエンがコーヒーを持ってくる。パイクが《大バクチを打って、足を洗いたい》というセリフを言うなり、俺が《足を洗って何をする?》と聞く。そのシーンはそんな調子で進み、俺が《何か考えでもあるのか》とパイクに聞くと、彼は軍隊の給料と鉄道の話をする。俺が《捕まりに行く気か》と言うと、パイクは《やるしかない》と答える。その少しあとで俺は眠りに就く前にぽつりと《パイク、やはりやるしかないな》と言う。そのセリフを言い終わると、俺はパイクの方を向いてカメラに顔を見せるかわりに、反対側に寝返りを打ち、カメラに背中を見せた。そしてしばらく沈黙があり、カメラだけが回り続けた。俺は《一体、どうしたんだ。サムは眠っちまったのか?》と思った。そしてようやく、サムから《カット!》の声がかかったが、その声は明らかに震えていた。だから俺はカメラがもう回っていないと確認するまでしばらく間を置いてから、サムの方に向き直り、彼を見た。するとあの黒いメガネの向こうに涙が流れていた。、サムは言った。《なんという奴だ。これこそプロだ》と」。
(同P.145)


 最後に、ひとりの学生がサム・ペキンパーにとって最も大切なこととは何かと質問した。ペキンパーは長いこと、じっとこの学生を見つめてから、ようやく口を開いた。
「映画を作ること」と彼は言った。「それから、ウォーレン(・オーツ)やストローザー(・マーティン)のような人間と一緒に仕事をすること。それがすべてだ。それ以外のことは、まったく意味がない」。
(同P.331)


おしまいがいつも始まりでありますように。(サム・ペキンパー