チー牛マスクの最期

 その日のチー牛マスクはなんだか様子がおかしかった。もちろんそれが、巷で話題のネットスラングのせいなことぐらい、ぼくにはわかっていた。
「今日も助かったよ、いつもありがとう、チー牛マスク」
「お安い御用さ、西田くん」
 そのお礼にすき家をおごるのがいつものパターンなのに、今日のチー牛マスクは、途中でリンガーハットに入る素振りを見せた。でも、胸元に「とろ~り3種のチーズ牛丼」マークをあしらったスーパーマンの格好をしているからには、すき家へ行かないわけにはいかない。それに、チー牛マスクは、そんな言葉が流行るずっとずっと前から、すき家のチーズ牛丼が大好きだ。ぼくは知ってるんだ。
「たまには他のいってみっかな~」
 だから、そんなみっともないごまかしをする必要なんてないんだ。かつおぶしオクラ牛丼の文字を妙にゆっくり指でなぞっているのを見て、ぼくはむかついてきた。絶対そんなの頼まないだろ。そんなの頼むヤツ、存在しないだろ……!
 結局、店員を呼んだ後で悩みに悩んだポーズをとった末に、こんなのあるんだと土壇場で気付いた体で、なんで今まで視線に入らなかったかねの体でチー牛を指差し注文した。そして、いつもはつける「おんたま」をつけなかった。
 ぼくは何も言わなかった。お決まりの台詞、「チー牛マスクは、ほんとに、『とろ~り3種のチーズ牛丼』が好きなんだから」を言わなかった。
 そんなぼくの様子をみっともないほど気にしていることが、マスクからのぞく瞳の動きでわかった。やたらに水を飲んで、何か言いたそうにしてやめる。それを何度か繰り返した後、テーブルに肘をつき、逆手に軽く立てた親指でぼくを指さして、話しかけてきた。
「そういや、あれ、『女帝 小池百合子』読んだ?」
 普段しないような会話。僕はほんの少しだけ首を振って、「いや」と言った。
「政治のこともちょっとは知っとけよ~?」
 最悪な親戚のおじさんのように覗きこまれて、僕の視界がチー牛マスクの顔を覆っている赤黄色に染まった。溜まりに溜まった怒りがそれを、絶えず流れるシャボン玉の縞のように歪ませる。赤と黄色と目玉の黒が、3種のチーズのように溶け合って何も見通せない。見えない、そんなにチーズをのせたら牛丼が見えないよ――。
「西田くん、西田くん?」
 ゆっくり視界が戻ってチー牛マスクの顔が現れた。顔といってもマスクだ。ぼくはその奥の素顔を見たことがない。チー牛マスクは正体を知られてはいけないからだ。いったい、どんな顔をしているんだろうか。でも、さっきからこいつの、この態度……。
「マジで、あの顔なのか……?」
 声に出すつもりはなかったんだ。でも、ぼくはその時どうかしていた。こうなることなんて、わかっていたはずなのに。
 チー牛マスクは何かに怯えたように黙った。少し後ろにのけ反るようにして姿勢を正し、腕組みをし、それを一旦解き、腿をさすり、ぼくを見て、だいぶ経ってから「は?」と言った。「どゆこと?」
 その態度が怒りに拍車をかけて「さっきからウザったいんだよ」とぼくに吐き捨てさせた。「意識しちゃってさ、マジでチー牛顔なんじゃないの? 全然違う顔だったら、そんな風にはならないだろ?」
 目が、ものすごく考えていた。どうすれば状況を打開できるか。でも、チー牛マスクはそんな器用でもかしこくもなかった。かしこい人間はチー牛マスクになんかならない。でも、ほんの少しだけあった、カバンの底の砂のようなケチなかしこさが、こいつにマスクをかぶらせたのだろう。こいつはダメな男なんだ。
「いやいやいやいやいや」
 だいぶ間を置いてからこのリアクションを取るこいつは、事あるごとに中学生に飯をおごられたりする最低の大人なんだ。そんなこと、わかってたというのに。
「ていうかだって西田くんさ、ボクの顔、見たこと、ないじゃん……?」
 探りを入れつつ、精一杯ごまかそうとして力なく笑った息がマスクにかかると同時に、店員がやって来た。
「お待たせしました、『とろ~り3種のチーズ牛丼』です」
 今話題のチー牛に動揺するマスクマンを目の前にしながらチーズの香りが鼻をかすめて、ぼくは笑ってしまった。きっと、嘲るように。
「おい!」とチー牛マスクは通りの悪い声で叫び、烈火の如く立ち上がった。
 初めて見る本気の怒りは、なぜかというか、当然と言うべきか、ぜんぜん恐くはなかった。正真正銘のチー牛だった。店中の視線が集まる、静かな音が聞こえた。
「今日、お前を助けてやったのは誰だ言ってみろ!」
 ぼくは何も言わなかった。
「わからないなら説明してやろうか!」
 声を張ったチー牛マスクは、他のお客さんに目配せしてから始めた。
「お前は、好きな男子のパンツがどうしても欲しいとオレに相談してきたんだ。男子のだぞ!? それで先週、お前はそいつと全く同じパンツを西友で買って来て、何日か履いて自分の色やにおいをつけて、今日、プールの時間にすり替えようとしたな。おい汚らわしい変態め、ちゃんと聞け! なあ、今日、同じ授業に出ているお前の代わりにパンツをすり替えてやったのは、誰だって言ってるんだよ! 答えろ、このド変態のオカマ野郎め! 今もそのカバンに、そいつのパンツが大事に大事に入ってるんだもんな!?」
 店中の視線のほとんどは、ぼくに注がれていた。まるで安堵したかのように歪むチー牛マスクの口の両脇には、溜まった泡が白い房をつくっている。何の知識も思いやりもない空虚な泡の塊をここまで膨らませたのは、確かにこのぼくだ。
「こいつが、好きな男の子のパンツがど~しても欲しいって言うもんで!」
 だから、本当に殺すしかない。ぼくはとろ~り3種のチーズ牛丼をつかみ、得意そうに大声を上げている後頭部へ、思いきり振り下ろした。