焼肉

 キャプテンがタン塩に手をかけた。ヤスノリは他の部員とともにキャプテン、そして倉田のまわりを取り囲んでいたが、牛タンがキャプテンの箸の先で風に吹かれているのを横目で確認すると、着ていたジャンパーを脱ぎ去った。そしてお下がりのジャンパーを、隙を見てなんとか肉を焼くところを見てやろうと息巻いている対戦相手の前に掲げ、熱い視線を遮りにかかる。
「二中〜! 守れ二中〜!」
 観客の応援に背中を押されて、ヤスノリはジャンパーを死に物狂いで、相手の顔に合わせて動かした。
 ヤスノリたちが今行っているのは、どこかの大食いタレントが言った「焼肉はスポーツだ」という言葉を鵜呑みにして誕生した21世紀のスポーツである。ルールは簡単。競技スペースには、10mの間隔を取って、焼肉用のテーブルが2つ置いてあるが、この一方を自チームの陣地とし、笛の合図で焼肉をスタートする。各チームに一人店員がつき、注文や皿の片付けを、あまり気負わず普段どおりの感覚で行うことになっている。1チームは10人で構成され、攻撃・守備・焼肉のポジションに選手を配置する。どのように割り振っても良いが、3−5−2のスタイルがポピュラーである。攻撃は相手の焼肉を盗み見て情報を集め、守備は相手の攻撃が焼肉を見てくるのを防御し、焼肉は焼肉をする。45分が終了すると笛が鳴る。そしていよいよお会計予想タイムとなり、各チームは、攻撃陣が盗み見てきた情報を頼りにみんなでああでもないこうでもないと相談して相手の金額を予想し、大きな声で発表する。金額がより近いほうが勝利だ。今までに考案された全てのスポーツが、一つ残らずお腹が減るのに対し、このスポーツでは、弁当を持ってくる必要まったくなし、そのへんが21世紀なのだ。
 ヤスノリの所属する二中焼肉部はここまで、網で焼いたナムルをあえてチラ見させることで生野菜セットを注文したと思わせる作戦と、やせの大食い倉田の力で快進撃を続けていた。
 しかし、連日の試合に倉田の食欲が落ちてきているのは、誰の目にも明らか。キャベツーがどれだけ効いているか注目されたが、倉田はまず卵スープを注文した。
「倉田!」
 試合が始まっても、一向に進んでこない倉田の箸は、キャプテンがいくら言おうと冷めた卵スープをかき混ぜるばかりだった。
「倉田!」
 そのため、二中チームは急遽、普段は焼肉を盗み見る攻撃のヤスノリを守備にポジションチェンジし、なんとしても焼肉を死守する構えに出たのであった。
「倉田、その調子!」「お前の胃袋は底なしなのか!?」「牛も、喜んでるぜ!」
 などのフェイントの言葉をかけながら、ディフェンス陣は手に持った上着を上下左右、敵の視線へ移動させる。しかし少しずつ押され始め、上ハラミ、意表をついた序盤の冷麺などがチラ見され、メモされた。
「井上先輩、ダメです。俺が守備にまわったところで相手の攻撃も一枚増えるだけ。このままでは、全ての注文が相手に筒抜けになるのも時間の問題です」
 ヤスノリは、テーブルの向こう側でディフェンスしている守備陣の精神的支柱、井上先輩に声を張り上げた。先輩は答えないで、必死でダッフルコートを上下左右に振っている。
 ヤスノリはもう一度言おうとしたが、目の前の相手が、焼肉を見ようと70%肩車の体勢になっていることに気づいた。下の奴はもう中腰だ。思わず叫んだ。
「うわーーー! や、やばい!!」
「ヤスノリ!」
 井上先輩は、反対側から、テーブルの下をくぐってヤスノリの股の下にヘッドスライディングしてくると、そのまま立ち上がってヤスノリを肩車した。ヤスノリは徐々に上昇する体に驚きながらも、無我夢中で目の前にジャンパーを広げた。両者が完全に肩車になったタイミングは、ほぼ誤差の範囲。ちなみに井上先輩のいたところはすかさず小峰がカバーしているので安心である。
「ちっ、キムチ一つ見えやしねぇ」
 肩車された相手がジャンパーの向こうでつぶやき、事なきを得た。井上先輩はヤスノリを下ろし、わずかな時間を利用してヤスノリにアドバイスをおくる。
「自分を信じて信じて信じて、焼肉隠せばいいじゃない」
「先輩……」
「キジも鳴かずば撃たれまいじゃない」
 しかし、相手ベンチでは、身長190、視力1.5をほこる怪物一年が、出場の時を手ぐすね引いて待っている。まるで焼肉を盗み見るために生まれてきた男。そんな男が今か今かと焼肉を見たがっているのだ。案じたヤスノリの眉毛が不安な方へ傾こうとするのを見透かしたように、先輩は首を振った。
「ヤスノリ、僕は、井上はもっと厳しくて辛い状況をたくさん味わってきたよ」
 先輩は腰につけた袋からスナック菓子をつまみ出し、口に放り込んだ。
「井上は焼肉味のスナックをつまんで栄養補給しながら、焼肉を守り続けてきた。これがどういうことか…わかるなね?」
 先輩はヤスノリの顔にもスナック菓子を数個投げつけ、その一つがヤスノリの口に入った。サクサクするヤスノリ。ヤスノリには、先輩の言っていることがさっぱりわからなかった。わからなかったし、そのスナックは焼肉というよりバーベキュー味。でも、なんだろう、この、追いつき追い越し、引っこ抜きたい気持ちは。いつの間にか、どこかの子供が俺の闘志を立ちこぎしている。
「俺、力いっぱいがんばります!」
 井上先輩は、ヤスノリの心に焼肉のタレがなみなみと注がれ、白ゴマが浮いていることを確認すると、小さくうなずきディフェンスに戻っていった。
 目が覚めたヤスノリは、子供時代の早さでTシャツを脱ぎ、二刀流でディフェンスを始める。その後ろでは倉田が、途中でバニラアイスを食べるギャル曽根の方法で、まだ食べられるような気がし始めていた。風向きが音を立てて変わり、焼肉の煙が空に舞い上がった。