後輩の熱帯魚の水槽を洗うというシチュエーション

 僕は、後輩の沼田の家の熱帯魚の水槽の掃除をしている真っ最中だ。そんなに熱帯魚は好きじゃない。見てると不安になるから。そう、僕は実際不安になっていたのだ。最初は魚臭い時だけムッとしていた僕だが、今では水滴がズボンに跳ねるだけで「おこり地蔵」の一番怖いページのようになってしまうのだった。
 そんな僕を見て後輩の沼田は少し心配になったのだろう、マスクを装着したまま、僕に向かって、こういう仕事があるから毎日楽しくやれるというニュアンスで「今日の酒はうまいぞ。今日の酒はうまいぞ」と小さな声で繰り返している。
「中学生の僕がお酒なんか飲めないだろ。そんな無駄な励ましはしないでくれ」
「なんだよ。でも先輩、うちの家族が魚臭いのが苦手なばっかりにすいません」
「においが苦手なものをどうして飼うんだよ」
「みんなくさいけど犬飼うじゃん。それと一緒ですよ。先輩も犬を飼ってるじゃん。あのくせえミニダックスあれもくさいでしょ。ちょっと着せてみた服が、もうくさいでしょ」
「おい、バカにしてるのか!」
「バカにしてないでしょ。くさいんだから。もし俺があの犬いい匂いですよねって言ったなら、それはバカにしてますよ。だって本当はくせえもん。くせえのは悪いことじゃないですよ。生き物なんてみんなくせえくせえでしょ。先輩の犬はくせえ。俺んちの熱帯魚もくせえ。お互い様でしょ」
「でもそんな言い方する必要ないだろう」
「イーチアザー、イーチアザー」
 沼田は手を動かせと言わんばかりに僕の手を見ながら、僕にわからない意味の言葉を、軽いノリで二連続吐いた。僕は、まったくそれを言われちゃかなわないなぁ顔で作業を続けたが、できることなら今すぐにでも、カバンに入っている豆辞典を引きたかったのだ。
「あっおい気をつけろ! 先輩、その砂利が特別くさいんです! 特別いつまでもくせえんだから!」
 水槽の底には、熱帯魚が落ち着くから、あとびっくりしないからという理由で砂利が敷き詰められている。さっき浄水場からやってきたばかりの新鮮な水道水を投入し、米をとぐかのように洗っても洗っても、砂利からは魚の思い出が消えなかった。逆に僕の手が魚のオーラをまとっていくばかりだ。
「まだ全然くせえなあ先輩。もっとあの手この手を使ってくださいよ。アゲインこすり洗いしてくださいよ」
「やってるよ、見てるだろ。何回もアゲインやってるけどくさいんだ」
「え?」
「だから、一生懸命やってるけど、くさいものはくさいんだ」
「やってねえから水槽がいつまでもくせえんだろ!?」
 沼田はマスクを片耳だけ外して、僕の耳を担任のように引っ張りあげ、そこに向かって怒鳴った。そこまでされて僕はキレた。
「本当にもう君いい加減にしろよな!」
 僕は水道の蛇口を力の限りギュギッとひねり、水を止めた。沼田は耳から手を放した。
「本当にもう、僕の堪忍袋の緒は切れたよ。お前が噛みちぎったんだ!」
 指をさす僕を挑発するように、沼田が不気味な薄笑いを浮かべて首を大きくまわし、肩から首にかけて軽さを感じた時、声が隣の部屋から飛び込んできた。
「二人とも、そこまでだ!」
 ポロシャツ姿で現れたのは、沼田の父親だった。
「くっ……どうもおじゃましてます」
「いったいどうしたというんだね」
「実は、僕が水槽を掃除してたら……」
「なんでもないよ、父さん。二人で水槽を掃除していただけだから」
「そうなのか」
「そうだよ。なに、そりゃちょっとモメたけど、大したことじゃないんだ。ねえ先輩」
「なんだと」
 僕が反論しようとすると、沼田は僕の目の前まで顔を近づけて言い放った。
「先輩、こんな、そばに寄るとみんなそれぞれ肌の汚い世の中じゃないですか。仲良くしましょうや」
「そうだとも。よく言ったぞ、照彦。さぁ、二人とも。仲直りのシェイク・ハンズをするんだ」
 僕は突然まわってきたお鉢に、ちょっとタンマとばかりに大至急カバンにヘッドスライディングした。てんやわんやでカバンをひっかき回して豆辞典を取り出そうとしたが、ここで、
「緊急事態発生!」
 力いっぱい叫んだ。辞典がない。辞典がどこにもない。
「さあさあ、お紅茶の用意ができましたよ」
 新しい声。僕は愕然とした。カップ・オブ・ティーを持って出てきた沼田の母親のエプロンの前ポッケに、僕が本屋さんで購入した豆辞典が顔を出している。金色の「英」の字がチラリチラリと見える。やられた。母親にやられた。あんなところにあるんじゃ、とても意味を調べられやしない。
「そうと決まれば早くシェイク・ハンズを済ませたまえ。気分よくティー・ブレイクといこうじゃないか。さあ、受験ナンバー01548、田中恭平くん」
 次々と矢継ぎ早に出てくる新しい英語。そして受験票に刻まれた僕の本名、受験番号。さすがに英検5級の試験はむつかしい。こういう場面で英語を使えてこそ、本当に英語を理解したことになるのだろう。よく考えられている。とてもよく考えられた試験だ。だって全然わからない。全然わからないもの。
「さあ早く、ミスター田中! シェイクハンズだ! 残り時間……5秒! 4、3」
「フンフンフンフンフンフン!」
 僕は4割の自信で、その場でフンフンディフェンスをした。帰りに聞いたら、望月くんもフンフンディフェンスをしたと言っていたから、もしかして合っているかもしれない。