でも町に風が吹き

 

旅する練習

旅する練習

 

 

 感謝といえば、このいまいち目的のわからない長い文章の最後に、今回の旅路を歩いている時、また書いている時に聴いていた宮本浩次への感謝を書いておきたい。

 我孫子から鹿島へのルートを決めたのは、ちょうど『宮本、独歩。』が出た頃だった。長い旅路、絶えず辺りを観察するわけでもなく、ただ歩く時もある。
 そんな時は、沼で、川で、海で、町で、あぜ道で、あらゆる場所で、力強くも柔らかな遠い歴史への眼差しをもつ男の歌をよく聞いていた。何かしらの影響はあるはずだが、テーマソングだとか参考にするということは全くなく、その時はとくべつ意識もせずBGMとして聞き流していた。

 書き終えて直し終えて、あとは掲載されるだけという頃、お礼参りでもないが、我孫子手賀沼の近くにある滝前不動を訪れた。裏の竹林の小径、小説でも実際でもキジを見たあたり、誰もいない風だけが穏やかに吹き抜けるその場所を歩いている時、イヤホンから「夜明けのうた」が流れてきた。

――夢見る人 私はそう dreamer
 すぐに、何かを察して足が止まった。
――明日の旅人さ

 その歌の言葉は、不思議なくらい次々と、この一年で陰に日向に繰り返した旅と文が形をとった小説に、心を込めて書いた「我々」の姿に、自分が何と向き合っていたのかに、結末のほんとうに、寄り添ってくれた。
 やたら旅、旅と歌ってきたこの人と同じようなことを、自分もやっと、しかもちゃんと、一人きり誰の方も見ないで、考えられるようになったのかも知れないと思えた。堪えきれずに腰を下ろして、何度も聴いた。


宮本浩次-夜明けのうた


――ああ さようなら わたしの美しい時間よ。
 よみがえって逆巻く記憶の中で忍耐できたかは定かではないが、イヤホンを外して洟をすすりながら立ち上がると、一羽の雄キジが茂みの奧、クマザサを鳴らして歩いている。その音は、音楽の外にずっと鳴っていたのだろう。ここへ初めて来たあの時に、見た奴かも知れなかった。

(おわり 後でもう一曲への感謝、「おジャ魔女カーニバル!!」について書くかもしれません)

 

宮本、独歩。(通常盤)

宮本、独歩。(通常盤)

  • アーティスト:宮本浩次
  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: CD
 

 

待ってるね おしゃれして すぐにおいでよ

 

旅する練習

旅する練習

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2021/01/14
  • メディア: 単行本
 

 

 https://tree-novel.com/works/episode/4e10f1331de8b606ab925ba9ab72c64f.html

「装幀のあとがき」なんてものを読む機会が来るとは思わなかった。
 装幀について何か言ったことはない。全ておまかせしているし、川名さんとはお目にかかったこともないし、なんなら直接メッセージを送ったことすらない。
 それでも、何冊も装幀を担当していただく中でわかってもらえていると思うことが多く――なんてのはえらそうな言い方だけれど、そういうことは少なくとも自分の人生の中ではあまり起こらなかったから、デビュー前から書いたブログをまとめた本から一番新しい本まで多くを担当してもらえたのを、はっきり伝えないまでも、とても喜んでいる。
 ここで書かれているような理由ではなかったけれど、カバーは写真か抽象的な絵がいいというのはなんとなく思っていたことで、尾柳佳枝さんの絵になってよかった。この小説に入れるだけ入れようとしたことがみな、見える人には見えるものとなってそこにいるような絵。(おジャ魔女たちの色が全部入っているのもうれしい。ももこが好きだから背景の黄色がかかったクリーム色もうれしい)

 さて、「装幀のあとがき」を読んで一番驚いたのは、川名さんが書き手が小説家という職業であることをかなりのところまで重視していることだ。

 自分は書き手が何者であるかということをかなり意識して書いてきて、(編集者が送ってくれた場合には)目に入る色々な評を見ると、それに言及されていることも多い。とはいえ、この「語り手」(自分の場合は「書き手」と同義になるが)の問題というのは議論が尽くされているわけでもないのか、紙幅の問題なのか、大抵は構造の問題の説明に留まっている。
 その記述の内容については、例えばそれが乞食の学ない少年であるとかハツカネズミしか同志のいない知的障害者であるとか極端な場合を除くと、いつの間にか大元の作家の技術の話にすり替わっていることも多い。
 つまり、持って回った表現が多いとか読みづらいとかいう場合、その「語り手」ではなく、その小説家がそんな風にしか書けないからに違いなく、今回はその手癖が少し改善されている、ずいぶん読みやすくなったとかなんとか。

 はっきり言ってしまえば、今回の小説がおそらく巷で感じられているように今までより読みやすい文章になっているのは、その「語り手」が、プロの小説家だからという理由でしかない。
 逆に言えば、一人黙々と自分のためにだけ書いている妙齢の女性の文章が、読みやすい文章であるはずがない。そんな意識で書く必要なんて彼女にはこれっぽっちもないのだし、ましてそのように書けば何か心に秘めたものを裏切ることになってしまうなら、彼女は断固拒否するはずだ。もしもその文章が読みやすくなってきたように見えるのなら、彼女には退っ引きならない理由があって、自分自身でそれをいやというほど自覚しているに違いない。なぜなら、「書く」という行為の遠慮も含めた作為こそ、彼女の最も憎むものだからである。

 一方、「語り手」がプロの小説家であれば、それが世に出るという「想定」をしないはずがないし、世に出せる形として配慮しないはずがない。もちろん、その配慮をどこまで突き通すかに「語り手」の葛藤が生まれてくるわけで、その配慮が、彼にとって許容できない作為やおためごかしに堕する危険がある場合は、彼もやっぱり、涙を呑むか大いに流しながら、断固拒否せざるを得ないだろう。
 それに対して、後ろ指をさされるかも知れないが、なぜかその指はたいてい現実出版上の作者である自分の方を向いているので、「語り手」の彼は安心してよいのだし、そうであれば自分としても痛くもかゆくもない。もちろん、今回の小説では、その区別はほとんどないようにしてあるからこんなことも他の作とちがって沢山書けるのだが、それにしたってだ。
 それに、「語り手」を侵害しない大元の作者としての擁護の方法だってないわけではない。それを密かにあれこれ講じるのは、我々を孤独な書く楽しみの中に匿ってくれる。

 と、こういう説明を衒いなくできるのも、川名さんが「語り手」が何者であるかを、かなりのところまで重視してくれたからだ。そして、そうだと書いてくれたからだ。
 もともと人の意見を気にする方ではないので、応答という形でしか考え始められないし、口に出せないということがある。上のようなことは、自分にとってあまりにも当然のことだから、言葉にしたのは初めてである。

 そんな貴重な場を、読みの解釈としての装幀によって設けてくれるような人物と仕事ができることが、ありがたくないはずがない。
 作家だってもっと積極的に造本に関わるべきだという意見もあるだろうが、こういう無上の機会をなくして「いい本を作りましょう!」と力と膝を合わせて襟を開き合うほど、異分野のプロフェッショナルへの信頼や畏怖や感謝の念を失っているわけではないというのが自分の個人的な思いである。


(つづく)

ハックルベリー・フィンの冒けん

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アルジャーノンに花束を〔新版〕

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